【漆】
第三十九話
【漆】
目を覚まして初めに目にしたのは、白い石膏ボードの天井だった。
「ここは……?」
どれだけこうしていたのか、無機質に発光する蛍光灯を見つめる。おぼろげな意識を立ち上げながら、ツユは確かに肩に残っている手形の痛みに全てを思い起こしていった。体を起こし、抱えた頭で見下ろしたのは、薄緑色した見覚えのない病衣である。
――フラッシュバックする恐ろしい記憶。栗彦に手も足も出ずに惨敗した敗走の事実。
死ぬ所だった。
ツユはまたもや死ぬ所だったのだ。全身を肉の管に巻き上げられ、息も出来ない位に圧迫されたあの苦痛。兄の面の皮を被った冷酷なる魔物の、その冷たい視線を思い起こして怖気が立つ。
震える腕を見下ろすと、病衣の袖から縄で締め付けられたかの様な圧痕が覗いていた。反対の腕からは点滴が落とされている。
「そうだ……っフーリさん、安城さんはっ!?」
顔を上げると、見渡すまでもなくそこは白に満たされた病院の一室であった。
パイプのベッドに寝かされていたらしいツユは、無意識に上体を引き起こして辺りに視線を泳がせる。風を傍に感じた。どうやら窓際のベッドに寝かされていたらしい。そこは四床部屋で、白いカーテンに仕切られて他にもベッドが並んでいたが、ツユの他に入院患者はいない様子だった。つまり一人では持て余す広さの一室に、ツユは一人寝かされていたという事である。
床頭台のデジタル時計に目をやると、翌日の朝九時五十分と表示されている。
換気の為に開け放たれた窓から冷たいそよ風が流れ込んで来て、白いレースのカーテンを大胆になびかせながら、ツユの黒髪を顔に纏わり付かせた。窓の向こうの景観には雄大なる比叡山の山岳が見える事から、自分が未だ京都に滞在している事だけは理解出来た。
「二人を助けに行かないと……っ」
寂し気な部屋でそう独り言ちて、ツユが点滴台を頼りにベッドサイドに足を下ろそうとしていると、背後にした窓辺の方から男の声が一つあった。
「何処へ行くと言う。もう異界へと到る術も失っているのに」
聞き覚えのあるその声は、いつもインカム越しに聞いていた声の波長と一致していた。振り返ると、陽射し差し込みながらなびくカーテンの向こうに据えられた丸椅子に、人が一人腰掛けて足を組んでいるシルエットがある事に遅ればせながら気が付いた。
ふわりと舞い込んだ風が彼の毛髪を左から右へ押し流していくのと同時に、白いレースのカーテンが捲れ上がって、そこに黒の着流しを纏った男が、手元の文庫本に視線を落としている姿が露わとなる。
「メザメさん、どうしてここに……?」
今に飛び出して行きそうなツユの焦燥もそこそこに、落ち着き払った様子の男は、細く吊ったその瞳を膝元から僅かに起こしながらツユを一瞥だけした。
「全く、わかっているのだろうね。この僕を遠路遥々こんな所まで来させて」
醜く歪んだ表情を惜しげもなく披露しながら、ツユはベッドサイドに座したままのメザメの袖を強く掴んでいた。
「そんな、そんな事よりメザメさん、大変なんです、フーリさんと安城さんが、すぐに行かないと二人が……あの二人
訝しげに眉根を寄せたメザメは手元の文庫本を閉じて、その黒い奈落の様な右目でツユの眉間をジッと見下ろし始めた。すると怪しき着物の男は、まるで彼女の心を汲み上げるみたいに、胸に溜めたツユの思いを、彼女が吐露するよりも先んじて言語に変換したのだった。
「あの二人
「え、どうして……それを」
「もしかすると、兄の魂ももう、抜け殻の様になっているのでは無いか」
「……私まだ、メザメさんに何も伝えてないのに、一体どうして」
不審に思ったツユは自らの腕を抱いて、思わず身をすくめていた。まるで心の内を洗いざらい全て見抜かれているかの様な、そんな羞恥心を覚えたからだ。
だが不遜な態度を未だ改めようともしない男は事も無げに弁明する。
「何を呆けた事を言っている。半覚醒の微睡みの中で、キミが僕に言ったのでは無いか」
「え、私が? そんな事……あるん、ですか?」
懐に文庫本を仕舞いながら、メザメは不服そうに顔を窓辺に背けた。
白々しい日光が、強く室内を照らしている。
「そうです。
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