第三十二話
「安城廻として、一人の人間としてあるまじき失態だった。人の線引を越えようとしていたのは、誰でも無い僕自身だったのかもしれない」
フーリと顔を見合わせたツユ。肩を上げた困り顔の男を認めてから、膝に視線を落とし続ける安城へと言葉を掛けた。
「過ちを犯すのも、それを認めて悔い改めるのも、人だからこそ出来る事じゃないですか。安城さん、アナタは本当の人間になりたかったんですね。マユちゃんと交わした、大切な約束の為に」
安城は何も言わず、下を向いたままだった。
「でも私はね、やっぱり兄の魂を本来の体に取り戻してあげたいと思うんです」
眉間に不安そうなシワを刻んで、安城はツユを再び見上げていく。フーリはというと、また茶碗を手にして米を食べ始めている。たくあんが咀嚼される小気味の良い音を聞きながら、安城は黙って耳を傾けるしか無かった。
「誰かがその人に成り代わって夢を叶えてあげたんだとしても、それって何か、違う気がするんです」
「違う……? ボクらは紛れもない迄のその人だ。記憶も夢も全て引き継いだ同一であり、その人の願った形をしている」
けれどツユは首を振った。
「でもそれはそれはその人では無い。だって現に、アナタは葛藤しているじゃないですか、安城さん」
「……」
「アナタはアナタなんです。いつか自分だけの形を得た時にアナタは、
「
「そう、アナタのしたい事。胸に手を当てて考えるの、ほら――」
ツユの手が安城の胸に添えられていた。ドクン、と暖かい拍動をそこに感じながら、安城はツユの目を見て言った。
「――じゃないと
ツユを見上げていた安城廻の翳(かげ)った瞳に、何か妙な光が宿っていくのがその時、見て取れた。
「苦し……い?」
「そう、アナタも。アナタの中にあった前の魂も」
――決して誰の理解にも及ばないと思っていた、
安城の中に得も言えぬ感情が、この世に生を得て後、初めて感じる昂りが、この時彼の中で起きていた。正体不明の感覚の、その輪郭の一端を僅かに掴みながら、安城は向かいの席で律儀に頭を下げていったツユの脳天に呆然とした視線を投げ掛ける。
「それでも、物事の正しいかどうかを決め付ける権利は私なんかには当然無いわけで…… それに私は、アナタという人格も不思議と嫌いにはなれないでいるのです」
「え……」
「だからこれからも、テレビで観たら応援しています。それじゃあ、さようなら安城さん」
可憐な少女のその笑みが、どうしたって妹の面影に重なってしまう。酸素の抜けた水の中で魚が口を喘ぐみたいに、安城は言葉が出ずにただ緩く首を振っていた。
「お前の顔をこれ以上見なくていいと思うと清々するぜ、アバよ狐!」
「……」
「おい、聞いてんのかよ」
フーリの憎まれ口にも一瞥もくれず、何やら様子のおかしい安城に一同は気付く。
「あ、安城さん、どうしたんですか? 何か放心していませんか?」
「確かにボクも何度も考えた事があった……
――だからボクは自分の中にわだかまるそういった疑念を取り払うみたいに、“安城廻”を目指した。完全な、否定のしようのない、
「結局ボクはマユが生きている内に夢を叶えられなかった訳だし。ボクは彼の夢を、彼の人生を横から奪い取ってしまっただけなんじゃないのかって」
――そう、思ってたんだ。ずっと、ずっと。
己の掌を強く握り締めている安城。かと思うと、何事かと覗き込んでいた二人に向かって勢い良くその顔を上げて、逆に二人を驚かせた。
「ジョウロちゃん、ボクも最後までキミの旅路に供にさせてくれないか」
顔を前に突き出し、不愉快そうに眉を八の字にしたフーリと、寝癖の頭を跳ね上げるツユ。
「はあっ何言ってやがんだ、お前との契約は雲外鏡を手に入れる迄だろうが!」
「安城さんどうして? お仕事だって忙しいでしょうし、それにここまでは脅されて同行してただけじゃないですか。罪を感じているのならもう不要ですよ、私はアナタを許す事にしたんですから」
未だそこにある熱烈な視線をツユが不思議に思っていると、インカムからククッと陰気な笑い声が起こったのに気付く。
『狐の性格は楽観的でその場しのぎ、利己的で薄情……故に心を掴むのが難しい。だからこそ、一度その忠誠心を芽生えさせれば義理堅いとも聞く』
「忠誠? 何言ってるんですメザメさん」
『よく飼い慣らしたと褒めているのだ』
立ち上がった安城は、窓から斜めに差し込んで来る陽射しに照らされながら、真摯な表情でツユと視線を向けた。
まるでそれは、スクリーンの中の映画のワンシーンを切り取ったみたいに華麗であると、ツユは思った。安城はいま瞳に眩い光を携え、背後のスクリーンに映し出された自分と同化していた――。
「ジョウロちゃん。ボクはキミがキミの夢を叶えるその時を……見届けたいって、そう思うんだ」
「え、え……え?!」
「どうしてなんだか、僕はまだキミと一緒に居たい。どうか無事で、未来へと進んでいくその背中を見届けたい。今はそう、切実に思っているんだ」
――彼の目に、ツユと妹の姿が重なっている。
いつか映画館の巨大スクリーンで観た、彼が主演を務めた恋愛映画のワンシーンみたいに、安城廻はツユへと迫る。差し詰めそれは空想の中の物語が現実へと飛び出して来たかの様で、幻影に見える桜並木のその下で、安城廻は甘い声でツユへと告げる。
「一緒にいたい」
――開き、差し伸ばされたしなやかな指先が、ツユの眼前にある。
「駄目かな……?」
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