第十一話


「なな、な……!」


 ツユが驚愕とするのも無理はなかった。なんとフーリは目にも止まらぬ速さで廊下の窓から二階の屋根に出て、サーカス雑技団顔負けのどんなアクロバティックがあったかは知らないが、瞬きする間もなく、それこそ疾風の如く速さで屋根から兄の部屋の内部へと窓ガラスを割って侵入を果たし、締め切られていた鍵を後ろ手に解錠したのだ。人間技じゃないと思ったし、それ以上に、立てこもり犯を制圧するかの様なやり方を即座に決断してしまった彼に唖然とさせられる。


 暗い室内でタブレットのブルーライトに照らされた兄の背中を見ながら、フーリは舌舐めずりをしていた。


「メザメ、確定だ。栗彦はやっぱり……でもなんだ、この妙な感じは」


 窓ガラスの散乱した暗い室内に踏み込んで行くと、綺麗な姿勢で机に向かい合った形の兄が、こちらに背中を向けた姿勢のままキーボードを弾く手を止めていた。そしてこの異様な状況に慌てる事無くエンターキーを押し終えると、座っている回転椅子を旋回させてようやくこちらへと振り返って来た。


 上下ネズミのスウェット姿の、縒れた前髪を垂らしたうだつの上がらなそうな相貌。『異界のおみくじ』の作中にあったままの男がそこに居た。


「とんだお客様だな、ツユ」


 電気の灯されていない暗い室内に、鈍い光を放つ兄の眼光が二つ揺らめいていた。


 ――これだ、この目だ。

 茫洋とした、

 私はこの目が、どうしようもなく恐ろしいんだ。


 ツユは生唾をゴクリと飲み込みながら、やはり兄ではないらしい者の存在を確信して、次には気丈に言い放っていた。


「アナタは誰? 私のお兄ちゃんは、如雨陸は何処に居るの?」


「……目の前に居るじゃないか」


 ツユは首を振って、兄の体を奪い取ってしまったナニカに向かって声を荒げた。


「いいえ、アナタは兄じゃない。お兄ちゃんのフリをしたって駄目、わかるんだから。アナタは狐でしょう!」


「……」


「私の兄の魂は今もまだ京都の『異界のおみくじ』に吊るされている。ねぇそうでしょう、アナタがそう記したのよ、私の大好きなお兄ちゃんを返して!」


「アレを読んだのか……」


 感情を剥き出しにする妹とは裏腹に、兄は無機質そうに言葉を返し、冷静に背後のタブレットとキーボードを閉じていった。


「だがあれは創作だ、言うまでも無い事だ。馬鹿げているよ、僕は栗彦なんかじゃあ無いし、それを証明する方法もまた無い」


『ふぅん、ならばこれより投げ掛ける問いにも、その様に理路整然と説明してくれるな』


 耳元でメザメがそう答えたが、栗彦にはこの声が届いていない事を思い直してその旨を代弁する。すると栗彦は不服そうにフーリを見上げ、観察するようにしながら立ち上がった。


「そんな必要は無い。許可無く私有地に踏み込んだ上に器物破損。この様な無頼漢に冷静に問答する必要などある訳が無い。どう言うつもりか妹まで懐柔して……大体キミ達は何なんだ。俺は今から警察を呼ぶ」


 巨躯のフーリに怖じける様子など微塵も無く、窓ガラスの散乱したこの部屋の中央で栗彦は堂々常識を語った。そろそろと兄の手がスマートフォンへと伸ばされていった時、フーリはあっけらかんと短く問い掛けた。


「お前、本当にか?」


「は……?」


 何やら不思議そうにしているフーリを鋭い視線で睨み上げ、栗彦は感情らしいものを表情に刻み始めた。


「なぁ、異界ってどうやったら行けるんだよ」


「あれは創作だ、事実ではない」


「なんで小説をウェブ投稿なんてしたんだ?」


「黙れ、創作は俺の自由だ。何を書いて、何処に投稿するのかに何か言われる覚えはない」


「……で、


 おちょくる様な微笑を携えて、フーリは栗彦の手首を掴んだ。無礼目に余るその振る舞いにツユが流石に制止しようとすると、鼻息を荒げ始めた栗彦の様相が異様さを際立てて来たことに気付き始めて言うのをやめた。

 そして物怖じしないままのフーリが兄へと囁き掛けるのを聞く。


「わかってるだろ栗彦……俺もお前がわかるしお前も俺がわかるんだ。くだらない人間ごっこにいつまでも付き合っている暇は無い」


「物の怪風情が」


「……ってメザメが言えって」


 栗彦が冷めた瞳で人差し指を突き立てた、次の瞬間だった――爆ぜた閃光が世界を白日にしていた。


 ――目を覆ったツユとフーリ。だが瞬間的に腕で目元を覆い隠していたフーリだけは彼の最後の姿を観測していた。


か……」


 割れた窓枠に両足を揃えて座り込み、物憂げな表情をして、雨模様を見上げた栗彦を――。


「待てよ! 狐が俺より速く動けるとでも――」


 フーリは言い掛けて身を乗り出したのだが、瞬きをしたその瞬間にはもうそこから消え去っていた存在を認めて唖然とした。そうして鳩が豆鉄砲でも食ったかの様な表情を披露しながら、雨の入り込んで来た散乱した室内で、耳元のインカムへとフーリは語り掛ける。


「ごめんメザメ、見失なった」


 強くなり始めた雨の中で、あの薄い香りを頼りにする事はもう、フーリの鼻でも叶わないだろう。


 ようやくと先程の不明な閃光より立ち返ったツユは、未だチカチカと明滅する視界の中で平静を取り戻していき、

 ――ははァ、狐より素早い筈のお前がか。と語るメザメによる不敵な声を聞いた。


 それから栗彦は失踪した。

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