【弐】
第八話
【弍】
二○二三年二月十三日。
低く垂れ込めた曇が空を覆った昼下がり。
寒さに肌を擦り合わせるツユとフーリの間には距離があり、ツユが先を行く形でフーリがついて来ている。両者の間には未だに沈鬱な空気が流れていた。それもその筈、骨董屋を出て電車に揺られた数時間の間、フーリは一言も話さずに険しい顔付きを崩さなかったのである。特急列車の対面に座り、非常にガラの悪いまま腕を組み、寝たふりでもしていれば良いのに仏頂面してツユを見つめている。これには肝っ玉の太いツユも参ってしまった。バカだと言われて凛々しいピースサインをして見せたあの姿は幻だったのだろうか、気を利かせたツユが恐ろしい眼光から視線を逸らしながら話し掛けてみても、フーリはその左耳に付けたインカムに耳を澄ます様な仕草をして何度か頷いてから、固く引き絞った口元に指を当て、シっとサインをした。ツユもこれには流石に心折れてしまい、結局行き掛けの一時間の車内は沈黙で経過した。
……そして今、盆地に沿う山肌を見上げながら、頭の後ろで手を組んだ大男は遂に、満を持して前方を行くツユの背中へと語り掛けるのであった。
「なぁ、チョロチョロパッパ」
「……まさかと思うんですけど、それは私の名前ですか? ジョウロという単語から連想した擬音ですか? 米炊き釜じゃ無いんですよ? 私の名前は
やたらに間延びしたツユのツッコミを聞き届けてから小首を傾げたフーリは、しばし間を置いて顎先に手をやった後、自らの左耳を指し示しながら、先程までの険しい表情が嘘であったかの様に、目元を糸の様にしてパアッと笑った。
「ジョウロちゃんって呼べって。それともう話してもいいってさ、メザメが!」
「えっ、まさかメザメさんに言われて口を
「そう! 舐められるから寡黙に徹していろって言われてんだ。依頼人が来るといつもそうだ」
電車で見たシっというサインは「黙っていろ」という意味では無く、「まだ話せない」とサインを出していたのだと知って、ツユは凝り固まった神経が一気に解放されていく安堵と共に、メザメに対する反感を覚えた。そうしてフーリの耳のインカムを通してこの声を伝える。
「なんでこんな事するんですかメザメさん! お陰で何もかも縮み上がりましたよ私は、もう!」
するとそこでフーリはジーンズのポケットから何かを取り出しながら、彼生来のものである人懐っこい笑みを見せて、インカムのもう一つをツユへと手渡して来た。
「メザメが『その墨汁の様な髪の下にこれを付けろ米炊き釜』ってさ」
何でいちいち嫌な言い方をするんですか、と毒付きながらツユは不服そうに右耳にインカムを当てる。装着された小型ワイヤレスイヤホンの上には黒髪が垂れて来て、もう傍から見たらわからない。するとメザメの声が聞こえて来る。こういう事ならどうしてもっと早く手渡さなかったのかと不満に思っていると、その問いを察したかの様なメザメからの回答があった。
『フーリには元々そのインカムをキミに渡す様に言っておいたのだが……ふぅむ、どうやら忘れてしまっていた様だチョロチョロパッパ』
「ジョウロです! ……あ」
『成程、ジョウロで良いらしい。フーリの考え出した名を秀逸に思えたのだがな、そういう事ならその様に――』
「ああっもう! それより、どうしてあんな事言い聞かせていたんですか!? 私の地獄の数時間を返してくださいよもうっ!」
『適度な緊張感を保って貰う為だ。今のフーリを見てみろ』
見てみるとそこに、頬を赤らめ口を開けて指示を待っている男がいる事に気付く。尻尾でもあれば今にも振り回していそうな有様だ。彼のその様相から、この声はフーリの方には聴こえていないらしい事がわかる。メザメはツユの方とフーリの方のインカムを使い分けて声を届けている事らしい。
『大方、犬の様に指示を待っているだろう。フーリは人懐っこく単純な男なのだ、そして忘れっぽい』
成程、確かに気の抜けてしまいそうな表情をして「メザメなんて?」と言って笑っている。初めからこの調子では、もっと馴れ馴れしくなってしまったのかも知れない。別にそれでも良いと思うのだけれど。
……あの性悪の店主の事だから、もしかしたら単なる嫌がらせだったという可能性も捨て切れないな、とツユは思っていた。
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