かれかの

彗暉

月の円舞曲

 月は自分の役割をよく理解していた。己が力で海をかき混ぜ生命を育む役割を。

 そして、育んだ命が新たな命を育む様子を見るのが好きだった。

 月は己の仕事をするために燦然と空に降り立った。雲が多く、己の愉しみを満たすにはやや物足りない。そう思った矢先、ふと視線に止まるものがあった。


 九月の最初の夜、空には嵐の予感を感じさせる雲が駆け抜けていた。煌々と輝く月に照らし出されるその雲は、さながら獲物を狩らんとする狡猾な狼の影にも見える。

 風はぬるく、まとわりつくような重さは軽やかに肌を撫でて、静かな車道を抜けていく。灯りを落とし、シャッターを閉めた街の静けさと相まって夏の終わりを感じさせた。

 月と雲を見上げながら、彼は胸いっぱいに夜風を吸い込み気分を落ち着かせる。ポケットから取り出したスマートフォンの画面をつけた。前に見たときから一分も進んでいない。記された数字は午前零時を過ぎていた。

「〝上り最終電車、上り最終電車が間もなく到着いたします〟」

 駅のアナウンスに心臓が一つ跳ね上がった。改札口を出たとろこまで響く音量のせいではない。彼はスマートフォンの画面をつけてメッセージを確認するが、到着を報せる言葉はない。

 Tシャツの裾を正し、ズボンの位置を正して、壁の保護につけられた幅の狭い銀色のプレートで自分の姿を確認してから、改札口の前に立った。右足に重心を乗せていたが、左足に変えてみる。なんとも言えぬ違和感に、また右足に重心を戻し、手を後に組むか、前に組むか、はたまた体の両方に垂らすかを二回の呼吸の間に悩んだ。

 ホームからエスカレーターで上がってくる人たちの背中が見えてきた。振り返って改札口の方へとやってくるよりも早く、その背中を見て彼は落胆と安堵、そして期待を忙しなく繰り返す。

 違う。はい、違う。違う。サラリーマンが多いな。流石にこの時間は若い人は少ないな。それよりも、終電だってのに意外と人が多いね?

 改札を出てくる人たちの邪魔にならないように少し端によってまっていると、反対側のホームの方から人が来るのがわかった。

 あっ。

 思わず口元が綻んだ。腹から胸、喉にかけて熱い塊が込み上げてきて、彼女の名前が口から零れた。

 改札を出てくる彼女は、初めて会ったときと同じように彼の心を震わせた。胸元にリボンのあるブラウスは可愛過ぎず上品で、パンツは長丈で裾が広がっている独特なデザインだが、それが彼女の個性を表現していてとても似合っている。

 だが、何よりも彼女の屈託のない笑顔が彼の心を震わせた。少し酔っている笑顔は高揚に染まり、仄かなあどけなさを香らせた笑みで彼女は彼の顔を見上げる。

 彼は溢れそうになる気持ちを抑えきれず、「可愛い」と彼女に言葉を投げた。「ありがとう」と満面の笑顔で噛み締めるように言う彼女に、彼は心の中で「俺のほうがありがとうだ」と答える。

 歩き始めた彼に彼女が腕を絡ませて、二人は歩き始める。朝顔の蔦がようやく絡み始めたようにどこかぎこちなく、そこにいつもの恥ずかしがり屋な彼女を感じて、彼は愛おしくて体を寄せる。

 燦然と輝く月の夜道を二人は歩いた。道中にあるたった一つの信号で、いつの間にか繋いでいた手に力を入れあって、青色に変わるのを待つ。

 家の扉に鍵を挿しながら、彼はその動作に感銘を受けていた。初めて自分の家に彼女を招いているということ、自分のテリトリーには友達さえ入れたくないのにその自我を超えた存在と巡り逢えたこと、この刹那にどれほどの幸福が詰まっているのかと。そう思い至ると同時に彼はハッとした。

 今この瞬間に近所の誰かが扉を開けてきたら、彼女を連れ込んでいることが一目瞭然だ。お盛んねぇ、青春ねぇなどと思われていると想像しただけで恥ずかしい。もしも、「彼女さん?」なんて聞かれでもしたら、鼻の下を伸ばして「そうです」と答えてしまうに違いない。「どこが好きなの?」とか訊かれでもしたら、我慢できずに答えるだろう。嬉しいことを話す時には声が大きくなってしまう。今や零時半を回っている。つまり、このフロアの人は、俺の惚気で叩き起こされることになるだろう。近所付き合いはない。幸せ自慢は人の悪意を焚きつける燃料以外の何物でもない。

 彼はすかさず鍵を捻り、抜くと同時にドアのぶを回して彼女を中へと案内した。扉を閉める油圧の抵抗を感じながら閉め切り、流れるような動作で鍵を閉める。

 家に上がった彼女は、目を輝かせて部屋の中を見て回った。1Kの狭い部屋の中をきょろきょろとしながら、いつかの会話の中に出たものを見つけては喜んで、可愛らしい声と笑顔を彼に向ける。

 今夜の彼女の楽しんだお店や料理の話、仕事の話をしながら彼は窓を開けて、開放的な景観を彼女に見せた。

 二人はベッドに寄りかかり、開放的な夜空を見上げながら、入ってくる夜風の心地よさを愉しんだ。夜空を流れていた雲の間から月が顔を覗かせて、その輝く姿に二人は感嘆の声をあげた。

 彼はさっと立ち上がり部屋の電気を消し、ベッドを振り返る。窓をくり抜いたような形の月光がベッドに落ち、傍らの彼女が月明かりを仄かに受けてこちらを見上げていた。

 「すごいな」

 彼は目の前の彼女が月光に照らされた光景に声を洩らしたが、彼女は月を見上げて「ねっ」と明るく答える。こちらの真意に気づいていないところがまた、愛おしかった。

 二人は並んでもう一度、月を見上げる。

「すごいな。月明かりで顔もわかる」

「ほんとだ」

 そこでふと会話が途切れ視線が交わる。刹那の沈黙。それだけで互いの気持ちを知るには十分だった。川に流れる葉が、すっと同じ流れに乗って一つになるように、自然に、あたかもそれが本来であるかのように二人の唇が重なった。

 ダムが欠壊したかの如く、離れていた時間にぶつけられなかった想いを彼はぶつけ、彼女はそれを余すことなく受け取る。それが時折反転し、二人の呼吸と鼓動が掛け合うように高まっていく。漏れ出る吐息が二人の言葉となり、視線で言葉よりも心を通わせた。

 寝台が驚いたように軋んだ。

 二人はもどかしそうに肌を覆う互いの壁を取り除いていく。触れ合う肌は熱かった。月明かりに浮かび上がる肌は透き通るように白く、どんな芸術さえも顔負けする曲線が流れていた。神聖なものを慈しむように二人はそっと抱きしめ合う。

「会いたかった」

「うん……わたしもだよ」 

 月光の下に燃ゆる二人の炎はお互いの心を溶かし合い、境目を失うに十分すぎるほどに燃えている。もはや気持ちを確かめるまでもなかった。より熱く、靭く、途切れることなく溢れる感情が深く深く、互いを繋げ満たしていく。

 重ねる視線、唇、触れる肌、吐息――澱みなく繰り返される応酬は、さながら月光を曲とした円舞曲。

 愛おしくて守りたい、抱きしめて壊したくさえもある、無尽蔵に受けとめてなお、求めてしまう、愛という言葉では足りない愛。

 言葉で伝え、視線で伝え、迸る力で伝えても求め合う。終わることのないそれは愛の悪戯に踊らされているかのよう。

 だが、彼は、彼女は互いの目にそうではないことを確信した。二人だからこそ築けた、決して揺らがず崩れることのない舞台、その上で踊っていることを。

 二人は愛を支配していたのだ。

 


 月はその日、すこぶる機嫌が良かった。

 すべてを壊す炎を慈愛に満ちた優しさに変えて、互いを包み満たし合う人の心に胸を打たれたのだ。

 互いが信じられなくなり、裏切られたと思うこともあるだろう。大切なのに、傷つけたくなってしまうこともあるだろう。それらはすべて愛の裏返しなのだ。不安になり、愛を見失いそうになった時、今宵のように向き合うことを忘れないでほしい。

 消さないかぎり、炎は燃えている。

 月は己の引き際に、二人にそう光を投げかけた。

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