第21話 鵜丸

 切れ長の目、彫りの深い白皙面長のその面貌、座していても分かるその長身。

 玉藻譲りの八郎の姿を前にして崇徳は思う。


(玉藻前か。あの女人が現れてから、父・本院様は全く変わってしまわれた……)


 白河院が御存命の頃は勿論、お亡くなりになってからも何事につけ慎み深い方であったのが、昨今はまるで別人のようだ。

 我に譲位を迫られた時もそうであった。

 異母弟・躰仁に位を譲ることの理と利を、長い時をかけて熱にうかされたように繰り返し説かれた、あれはまるで何物かに取り憑かれたようではなかったか。

 その切迫した形相と声に負けて、やむなくも譲位を承諾した。するとあの宣命である。

 一体どうしたことか。我が身が父に疎まれていることは知っていたが、いかに我が憎くとも、あのようにあざとい、姑息なことを為される方ではなかった筈だ。


 だが、全ては終わったことだ。今となっては自身のことはどうでもよい。

 右も左も分らぬ幼年にして帝の地位につけられて後、ひたすら己を無にして天地あめつちの神々に我が国と、民の安らぎを祈るばかりに努めてきたこの身には、どうせ曽祖父・白河法皇のような政を司る知識や権謀術数などありはせぬ。

 仮に治天の君になったとして、どのようにして民に徳治を施し得たか。

 我が身を省みては、自身の無力さを恥じるばかりである。

 しかし、我が子・重仁しげひとはどうなる。そして、この国の将来も。

 躰仁は我が后・聖子の養子。ということは、義理とはいえ重仁はそのただ一人の弟である。ならば当然に皇太弟として立てるべきを、いまだ親王宣下に止まっているのは何故か、解せぬ。

 躰仁が帝になったものの、いまだ幼く、しかも病弱。そして本院様も、もはや老齢に差し掛かっている。二人に万が一のことありし時、皇太弟なくば新たな帝も決まらず、世の乱れるは必定ではないか。


 先頃の祇園の一件にしてもしかり。

 平家を重用するあまりに処罰の議決が遅れに遅れ、叡山の怒りを招いた。武士たちを急ぎ動員して荒法師たちを牽制したが、あれとて、ひとつ間違えば都を争乱に巻き込むところであった。以前の父なら、もっと穏便に事を収めようとしただろう。


 それら不審な為様しざまの背後に玉藻前の影がちらつくのだ。

 一介の白拍子が乞われて昇殿して以来、瞬く間に並ぶ者なき寵愛を得、知恵と機転ゆえ何かにつけ父・本院の相談にあずからぬことはないという。あげくが今の危うい世情である。

 老いの兆しに焦る父を煽って性急な行動に駆り立て、宮中の秩序を乱し、あの女はどうしようというのだ。后の地位を目指すではなし、本院との間に子がいて、その子を帝にしようとする訳でもなく、むやみに世を不安に陥れて何を得んとする。


(あるいは、為政者を惑わし操って世を乱し、民を苦しめること、それ自体が狙いか。唐土や天竺の伝承にいう妖女のように。いや、まさかそんなことは……)


 崇徳はふと浮かんだ懸念を払うかのように何度も強くかぶりを振った。

 あらためて目を凝らし八郎を見つめる。


(なのに、その息子だというこの少年のたたずまいは如何なることか)


 姿形は確かに玉藻前譲りだが、あの女から否応なしに漂う得体の知れぬ邪気が全く感じられぬ。それどころか、目は澄みきっており、我が先の帝と知っても臆することも卑屈になることもない自然な態度。

 年若ゆえ恐れや悩みを知らぬのか。否、そうではあるまい。母に去られ、しかも内紛絶えぬ河内源氏の一族の中で、父に疎まれ育ったと聞く。ならば相応の苦悩があった筈。

 それでいて、この者から感じる風や雲のような心地よさ、自由闊達さはどういうことだ。

 源氏の至宝たる源太が産着を両断した手のつけられない乱暴者、不埒者と聞いていたが、とんでもない。まだ十を幾つも過ぎていないというに、その歳にして、稀に見る清々しい落ち着きぶりではないか。


 崇徳の意外の念は増すばかりであった。急速に自分の心がこの少年に傾いていくのを感じた。

 そして、逆に警戒した。


(もしかして、父が玉藻前に惹かれたのもこういうことだったのか。母子ともに、人の心を魅了する何かを備えているのか。ならば、この一見したところの自然さ、心地良さも、そのままに受け入れるのは危うい)


 ところが当の八郎はここで不意に首をかしげ、なにやら怪訝そうな顔を見せる。

 崇徳は不思議に思い、問うた。


「どうしたのじゃ」

「いや、大したことではないのです」

「ここは宮中ではないからな。遠慮することはない。思ったままを言ってみよ」

「では申します。考えていた御方と少し違っておりましたので」

「どう違うのか」

「先の帝といえば、宮家や公卿の総元締めのようなものでありましょう。そこで、もっと威丈高な、偉そうな顔をした方を勝手に思い描いておりましたところ、案外に気さくそうな、お優し気な姿に、いささか驚いておるのです」


 これを聞いて崇徳は絶句した。

 さすがに皇円も慌てる。


「これ、無礼な」


 次の瞬間、誰もが予想し得ないことが起こった。


「あーはっはっ!」


 崇徳が大声で笑い出したのだ。しかも、辺りを憚らぬ哄笑である。

 みだりに自我を表すことの許されぬ立場として過ごしてきたこの人の、それはもしや生涯初めての爆発的な感情の発露であったろうか。

 その哄笑がひとしきり続いた後、崇徳は軽く目元を抑える。あまりの意外さと可笑しさに、涙が出るほど笑ってしまったのだ。そして、今だに身体を小さく震わせ、愉快でたまらぬといった様子である。


「いや、失礼した。あまりに面白い話を聞いたのでな。そうか。宮や公卿共の総元締めは、きっと威丈高か」

「はい。私に限らず、世間の者は大抵はそう思っているかと」

「またそのような」


 皇円が再度たしなめに入ろうとするが、崇徳はそれを掌で制した。


「構わん。続けよ」

「ですが、実際にお会いしたらそうではなかったとも申しました」

「ふふ、それはそうだろう。なにも好きこのんで帝などになった訳ではないからな」

「そうなのですか」

「ああ。曽祖父のたっての希望で位につけられし時、まだ僅か五歳ぞ。それからは子供らしく遊ぶこともなく、祈りと儀式ばかりの毎日じゃ」

「ほう。帝というのも存外に不自由なものなのですね」

「全くだ」


 崇徳は寂しく笑って目を反らす。何か思うところがあったのか。

 そして視線を戻すと、自嘲気味に呟いた。


「だが、位を辞した今では、歌を詠み蹴鞠に興じる気儘な毎日よ。そういう意味では汝の母・玉藻前に感謝すべきか」


 この言葉に、八郎は我が耳を疑う。


(俺の母が玉藻前だと! それこそは今の世で権勢を極める本院の寵姫ではないか)


 玉藻前という女御の名は人口に膾炙かいしゃしている。八郎もその名と、あれこれの世間の噂を耳にしたことがあった。そしてまた、元は白拍子で誰やらの想い者だったのが、本院に見初められ、高階通憲、つまり今の藤原信西の養女として昇殿したということも公然の秘密である。

 それが自分の母だという。聞き違いではないのか。

 呼吸が止まりそうになる、その息を振り絞って崇徳に問い返した。


「私の母がどうしたと……」


 母の消息を案じているとでも思ったか、崇徳はこれにごく普通に応じる。


「ああ、今は本院様の寵姫ゆえ、汝も母に会うこと叶わぬだろうが、息災であるぞ。玉藻前が我を帝としての窮屈な日々から解き放ってくれたのだからな。考えてみればむしろ有難きことかと申したのじゃ」


 八郎は再び驚愕する。

 やはり聞き違いなどではなかった。

 母は江口の遊女で、自分が幼い時に死んだという。嘘であることは薄々感づいていたが、真実は思いがけぬものであった。しかもそれを先の帝・新院の口から聞かされたのである。

 そしてまた、努めてにこやかに話してはいるものの、新院自身の不本意な譲位の一件にも母・玉藻前が絡んでいるという。

 あまりのことに、「かっ」と目を見開いた。

 それでは父は自らの想い者を本院に差し出すことによって官を得たということか。そして母も否を言うでもなく俺を捨てて昇殿し、今では民人の難渋や惨めさを顧みぬ腐ったやからくみし、陰湿な企みの一翼を担っているということか。


(なんということぞ。浅ましさと背徳の極みだ!)


 手が震えた。

 ここで善弘が異変を見て取った。自らの手で八郎の震える手をそっと抑える。

 皇円と善弘は、その複雑な生い立ちを摂関家から聞いて知っている。

 崇徳もまた八郎の変化に気付いた。


「もしかして、知らなかったのか」


 思わず、その端正な顔を後悔に歪められた。

 これに対して八郎は深く息をついて気を静め、


「良いのです。いずれは知るべきことだったでしょうから」


 落ち着いた微笑を浮かべた。

 相手を責める気持ちなど微塵もないと感じさせる、涼やかな笑顔である。これに崇徳は心をうたれた。

 つい今しがた八郎に対して感じた警戒は既に心から消え去っていた。

 八郎は穏やかな声で更に言う。


「ただ、父が母を差し出すことによって任官したこと、母が本院様の傍にあって、あれこれと世の乱れの因となっていることを、恥ずかしく思うばかりです」


 と、八郎の言葉が終わるか終わらないうちに、


「違うぞ!」


 崇徳はそれを遮った。


「全ては我が父から始まったことなのだ。父が玉藻殿を無理に召し上げることさえなければ、八郎が母に去られることもなく、為義殿がつまを失うこともなかったのだ」


 そして、なんと深々と頭を下げたのである。


「すまなかった」


 無位無官の少年に対して謝罪する皇族の姿など前代未聞であろう。

 八郎はその姿に息を呑んだ。

 これはいったい何事か。生まれや位に安住する人間の見せる姿ではない。この人は心に何か重いものを抱えておわす。

 皇円は慌てる。


「新院様、それはあまりにも勿体のうございます」

「いや、不用意に母のことに触れ、有為の若者の心を傷つけたことも勿論だが、それだけではない。八郎だけに詫びているのではないのだ」

「と仰いますと」

「父の件だけではなく、ずっと以前から、宮中にも公家共の間にも不徳や欺瞞が蔓延はびこっておる。上に立つ者がそうであれば、民が真似をするのは当然であろう。畢竟ひっきょう、今の世の乱れは全て我々が招いたものである!」


 溢れ出すような心情の吐露であった。崇徳の言うその不徳の中には、自らの曽祖父と母の許されざる関係も含まれていたろうか。


「先の帝でありながら、政に関わる者のそうした堕落、風紀の紊乱びんらんを、どうすることもできなかった我が身の不甲斐なさを情けなく思い、苦しみ嘆く全ての良民に対して頭を下げているのだ!」


 場を沈黙が支配する。

 崇徳の叫ぶが如き悲痛な言に、皇円も善弘も、そして八郎も、かけるべき言葉を失ったのである。

 この方はなんと率直なのであろうか。また、なんという真摯さであろうか。

 ようやく頭を上げた崇徳は胸元に手を入れ、一振りの短刀を取り出した。


「我が家に伝わる守り刀のひとつで、鵜丸うのまるというものだ。これを八郎に遣わしたい。決して物で償おうなどという浅薄な気持ちではないのだが、他に方法が思いつかぬ。これ位では詫びにもなるまい。しかし、是非とも受け取ってほしい。せめてもの謝罪のしるしじゃ」


 自ら八郎の手を取って短刀を握らせる。

 これが八郎と崇徳院の初めての出会いであった。そしてこの鵜丸が後々、八郎の命を救うことになる。

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