第18話 時葉

 忠盛が自領の荘園を祇園社に寄進したことで、ようやく叡山の騒動も収まったのは約半年後、翌久安四年が明けてからである。

 久方ひさかたぶりに重季が八郎のいる功徳院を訪れた。

 僧徒たちが憎む武士であり、強訴の鎮圧にも参加した自身の顔が知れているのを恐れ、叡山に登ることで八郎や皇円阿闍梨に迷惑が及ぶのではないかと、これまでは訪問を控えていたのである。


 半年以上を経て見た八郎の顔に重季は息を呑んだ。

 木洩れ陽の中に立ったその横顔は、憑き物が落ちたような、いつの間にか何かを知って吹っ切れたような、それまでにない一本の筋が見事に通り、歴戦の武者である重季でさえも見惚れる程のものであった。


「若君」


 重季は呼びかけた。これに八郎はにっこりと応じる。


「おお、重季か。息災そうで何よりじゃ」


 またとない傅役と御曹司の再会には、これしきの挨拶でも充分であった。

 当日から木剣の相打つ音、矢が的を射抜く音が深山に絶え間なく木霊こだまする。


 そんな日々の合間に八郎と重季は、ある少女に出会った。八郎が山麓の森で数羽の鳥を空に放った時のことである。

 功徳院では師・皇円の意向により、仏道の修行だけではなく、民に現世の施しを行うならわしがあった。飢えた人々のために、折にふれ粥などを煮て、老若男女の別なく振る舞うのだ。

 叡山の寺の境内は本来は女人禁制なのだが、この日だけは例外である。また、皇円自身がそもそも、そんな決まりを気にする風でもない。自身から弟子たちの先頭に立ち、米や雑穀を洗い、鍋の煮具合を見届ける。そんな師の姿を見るのが八郎は好きであった。

 この頃の叡山には僧だけが起居していた訳ではない。破戒僧どもの隠し妻もいたし、相次ぐ争乱や飢饉によって家や田畑を失った人々、親を亡くした孤児たちもいた。

 それらの多くは山麓に粗末な小屋を建て、あるいは洞穴を住処としていた。少女もまた、功徳院にて施しを受けるそんな人々の中に、八郎が以前に見た一人であった。


 歳の頃は八郎より一つ二つ上であろうか。身なりは無残と言う他はないが、ほこりにまみれたその顔立ちは整っている。

 八郎は空を飛ぶ山鳥をかつて弓で射た。食べるためではなく、ただ、弓の稽古のひとつとして射ただけである。

 八郎の技前は既に、空を飛ぶ鳥でさえわざと急所を外し、その羽だけを射ることが出来るまでになっている。それらの鳥を功徳院にて癒し、もう充分と思えたので空に放ったのだ。それを少女は見咎みとがめた。


「お前様は何をしておられるのじゃ」

「弓の稽古に軽く飛鳥を射たのだが、羽の傷が癒えたので、再び空に放してやったのだ」

「鳥を射たら、後は食うものであろう」

「必ず、そうせねばならぬという訳でもあるまい」


 八郎の返事を少女は鼻で笑った。


「ふん。いい気なものじゃ」


 重季はその態度に憤り、声を荒くする。


「何を言う! 弓は武家の当然のたしなみぞ。その上で生けるものの命を惜しむ、若君のいつくしみが分らぬか」


 しかし少女はひるまない。


「そんなものは、日々の苦労を知らぬ公家や武士の手前勝手な理屈じゃ。鳥や獣の命など知ったことか。私らにとってはそれよりも、明日をも知れぬ自分の命こそ大事じゃ」


 八郎は思った。なるほど。この娘の言うことは全くの道理だ。日々の糧に事欠く者の目には、俺のしていることは独りよがりな善行遊戯のようにしか映るまい。

 急ぎ足ですかさず立ち去ろうとする少女に呼びかけた。


「おい、ちょっと待て」

「何じゃ。呼び止めておいて斬ろうなどという卑怯な真似なら御免だぞ」

「そうではない。鳥や獣を射ることがあれば、次からはお前にやろう」


 途端に少女の目が輝いた。


「本当か!」

「ああ、俺は嘘など言わぬ」

「いつくれる」

「そうだな。七日後ではどうだ」

「遅い! 三日後にせよ」

「強引だな。まあ、よかろう」

「わかった。では三日後にまたここに来るからな」

「ああ。鳥も遊びまがいで射られるより、人の腹の足しになった方が喜ぶかもしれん」

「お前様は名前は何という」

「八郎じゃ」

「私は時葉ときはじゃ。約束したからな。必ずだぞ!」


 そして少女は去って行った。その後ろ姿を見ながら、重季はこぼした。


「なんという無礼な娘じゃ。好き放題言いおって。宜しいのですか」

「まあ三日間、弓の稽古がてら多少は狩りに励んでみるさ」

「叡山は殺生禁止の領域では」

「人々の空腹を満たすためじゃ。師も駄目とは言われぬであろう」


 八郎は愉快だった。全くしたたかな娘だな。期日の約束をさせ、念のためこちらの名前まで聞いていきおった。

 しかし「時葉」とは、浮浪児には似合わぬ綺麗な名前であることよ。


 ところが三日後、仕留めた獲物を持って同じ場所へ行ってみると、少女だけではなく、何人もの子供が一緒にいる。

 今日は重季の来る日ではなく、八郎ひとりである。


「大袈裟だな。そんな人数で運ぶほどの数や大物は獲れておらぬぞ」

「これは皆、一緒に住んでいる私の仲間じゃ。この先、私が来れぬこともあるかもしれないからな。その時はこいつらが代わりに来るので、面通しをしておこうと思って連れてきたのだ」


 八郎は面食らう。仲間だと。どういう意味だ?

 もしかして、この人数のためにせっせと獲物を狩らなければならないとすれば、それでは弓の稽古というより、なかば猟師である。

 重季が居れば、ますます怒ったであろう。だが少女の言はこれでは終わらない。


「これで全部ではないからな。まだ何人もいる。期待しておるぞ」


 この図々しさには八郎も呆れ、さすがに苦笑した。仕方がない。暫くは狩り三昧と洒落しゃれ込むか。


 武芸の鍛錬の合間に鳥や獣を狩り、それを約束の日に孤児たちに渡す。そんなことが何度か続いた後のある日、八郎は少女に導かれて孤児たちの住処をおとなってみた。

 今日は重季も一緒である。気が進まぬようではあったが、八郎が行くと言うのでは供をするしか仕方がない。

 そこは予想した通り洞窟であった。湿気と異臭が充満し、重季は顔をしかめる。

 ぼろぼろのむしろを敷いて十人以上の童が住んでいる。その多くは痩せこけ、数人かは瞳もうつろである。

 八郎は尋ねた。


「これは皆、親を亡くした孤児か」

「多くはそうだが、口減らしのために捨てられた者もおる。助け合って生きていこうという仲間たちじゃ」

「口減らしとは何ぞ」

「そんなことも知らぬのか。家族の食い扶持を減らすために子供を捨てたり、川に流したり、首を絞めて殺すのじゃ。ここにいる者たちは、そういった仕打ちにも幸い生き残り、命を長らえた者たちだ」


 八郎も民人の苦しみは知っていたはずだが、それどころではない。しかし、そんな過酷な運命にもあらがい、肩を寄せ合って生きていこうというのである。


(母にも父にも捨てられたと思っていたが、この子らと比べれば、俺の境遇など気楽なものだな)


 そう思わずにいられない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る