第16話 観想念仏

 聞き慣れない語に八郎は戸惑う。

 八郎の表情を見て、善弘は説明を加えた。


「阿弥陀如来が、まだ法蔵菩薩として修行しておられた時に立てられた誓願の十八番目に、たとえ自分が仏となるとしても、全ての衆生が心から信じて自分の浄土に生まれたいと願い、僅かでも念仏して、もしも生まれることができないようなら、自分は決して悟りを開くまい、という趣旨のものがございます。これこそ浄土信仰を成立させた、四十八願の核心たるものでありましょう。法蔵菩薩はその後、阿弥陀様として如来になられた、つまり悟りを開いて仏になられたのですから」

「おお、そういうことか。菩薩は阿弥陀如来となった。つまり、その誓願は成就した。ならば衆生は念仏すれば浄土へと往生することが決定したというのだな」

「そうです。弥陀の本願は罪深い衆生を救わんとする尊いものです。ただし、この書に述べる念仏の方法が問題である」

「仏を念ずる、一心に仏を想うだけのことではないのか」


 この時代、「南無阿弥陀仏」と仏の名をとなえる、いわゆる称名念仏は、まだ浄土信仰の主流ではない。

 その称名念仏、すなわち口称の念仏が本来のあるべき姿だと初めて選択せんちゃくした人物こそ法然房源空、後の善弘自身であるが、この時はまだ道を求め始めたばかりであった。

 八郎の問いに、善弘は逆に問いを返した。


「ではお聞きしましょう。一心に仏を想う行とは、実際にはどうするのですか」


 八郎は答えに詰まる。

 人は皆、まずもって様々な邪念に満ちている。

 ひたすら仏を想うといっても、決して簡単なことではないだろう。

 その様子に善弘は小さく頷き、話を続けた。


「そうです。一言に念仏と申しても、我々凡夫にとっては容易なことではない。そこで考案されたのが、先ほど私が申した観想念仏と称する行なのです」

「それはいったいどんな修行なのか」

「理屈は簡単です。心の内に阿弥陀如来のおわす浄土の様を思い描けばよい」

「それだけか」

「単にそれだけです。だが、これが難しい。たとえば八郎様は、浄土とはどのような所と思われます」

「うむ、それはさしずめ、暖かい光が射し、美しい花々が咲き乱れ、妙なる音曲が流れているような場所であろう。仏が蓮のうてなに座っておられる」

「それを本当に、明瞭に心中に描くことができますか」


 八郎は正直に答える。


「難しいな。あらためて想えば、何が何やら漠然として」

「ならば、この地上にその様子をでき得る限り再現した場所を作ってやればよい。そうすれば、それを眺めているだけで最上の観想の念仏になる。そういうことになりませぬか」

「あっ!」

「そして、実際にそれを成し得た人々がいた。栄華を極めた藤原道長公の創建された法成寺、そしてまた御子息でおわす頼通公による宇治の平等院鳳凰堂などは、観想念仏のための場として最たるものでありましょう。実際その死にあたって道長公は、法成寺の阿弥陀堂にお入りになり、そこにある阿弥陀如来像の手と自分の手を五色の糸で繋いで、西方浄土を想いながら往生を願ったと聞き及んでおります」

「しかしそれでは、念仏とはごく一部の富裕な公卿にのみ可能なものになってしまうではないか」

「その通りです。だからこそ間違いであり害なのです。限りなき大慈悲に満ちた弥陀が、ほんの一部の限られた人々だけにしか可能でない、そのような狭量な救いの道を我々に示される筈はない!」


 善弘はいつになく声を強めた。

 その全身には力がみなぎり、いかなる武士にも劣らぬ気迫である。


(この兄弟子は、もしかして武家の出ではないのか)


 八郎の直感は当たっていた。

 法然上人の事績を伝える最も著名な書、いわゆる「四十八巻伝」によれば、上人すなわち善弘の父は美作国みまさかのくにの押領使・漆間時国である。

 押領使とは主に領内の治安の維持にあたる職であり、時には軍事に関わることもあった。

 善弘自身も武芸に秀で、勢至丸といわれた幼い頃から、特に弓を射ることにおいて格別のものがあったと伝えられる。

 ところが、勢至丸が九歳の時、土地争論に関連して明石定明という者が夜討ちを仕掛けてきて、時国は重傷を負ってしまう。

 勢至丸が定明に向かって矢を射ると、矢は定明の眉間にみごと命中し、彼は這々ほうほうの態で逃げ帰り、逐電した。

 しかし、この時の深い傷がもとで父・時国は死の床に臥す。

 死に臨んで時国は勢至丸に対し、決して仇を討とうなどと考えないように、さもなければ恨みが恨みを呼び、いつまでも尽きないであろう、出家して自分の菩提を弔い、勢至丸みずからの解脱を求めるようにと言いのこし、西に向かってうやうやしく合掌した後、眠るが如く亡くなったという。


 父が殺されたという入信のきっかけは劇的であり複雑である。

 直接には遺言が勢至丸を僧としたのだが、仮にそれがなくしても、今だ少年であった勢至丸に世の無常を思い知らせる事件であったろう。


「知れば知るほど、学べば学ぶほど、今の世は全くに歪んでいると思えるのです。末法の世とはよく言ったもので、富貴を極める公卿は観想念仏などという誤った信仰に財を費やし、武士は領地をめぐる争いに明け暮れ、庶民は自らを卑しき者ゆえ仏の慈悲には値せぬと思い込み、毎日の生活に不安を抱えるばかり。皆、心が病んでおります。だからこそ私は、あらゆる人々の救いとなる教え、真の念仏の道を見出したいのです」


 ふだんは物静かな善弘にして、人が変わったかのような、とどまることを知らぬ激しい言葉の連続である。

 ひたすら熱く救済の道への希求を語る。

 ついに八郎は、敢えて疑問を呈した。

 これ程に思い詰める兄弟子に対して失礼とは思ったが、だからこそ言わぬではおられなかったのである。


「しかしそれは、仏道で言う悪念ではないのか」


 この人はあまりにも真面目であり、それゆえ偏執に走っているのではないか。


「ひとつのことに対して執着したり欲することを、仏はかたく戒めておられると聞く。一切衆生を救いたいという志は立派だと思うが、思いが過ぎればそれもまた悪念・妄念の類であり、つまるところ兄弟子の欲ではないのか」

「それも妄念であり、欲ですか……」


 大事を成す人は皆、己の信念に極めて忠実なものであろう。

 そうでなければ道を究めることなどできまい。

 信仰の道ならば尚更である。

 だが、仏道においては、何事に対してであろうと執着すること自体が悪であるという。


 善弘は八郎の意外な問いに少し思案し、それからやはりきっぱりと言い切った。


「欲だとしても、それはそれで良いのです。仮に私の申していることが妄執や悪想念であり、地獄に落ち、あるいは餓鬼に生まれ変わるとしても、それで貴賤を問わず多くの人々が救われるとしたら、私にとっては本望でございます。喜んで地獄に参りましょう」


 話を終え、口を真一文字に閉じて軽い微笑を浮かべる。

 何かの強い信念を持つ者だけが見せることのできる爽やかな顔であった。

 これに八郎は素直に感銘を受けた。

 衆生を救うことができるならば自分は地獄に落ちても構わないとは、なんといういさぎよさであろうか。

 そしてまた、


(仏道の開祖となられた釈迦如来こそは、万難に挑み自己の信念を貫かれたお人ではなかったか。この兄弟子のように)


 ふと、そんなことが思われた。


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