第34話 五感は都合のいいときにだけ性能が飛躍的に向上しがち
一難去ってまた一難。
バトラーが森に帰って間もなく、俺は新たな問題に頭を悩ませていた。
「どうするかな」
時刻は日を跨ぐ直前。7時間睡眠のルーチンが崩れてしまったことは、さほど問題ではない。姉貴のためなら三徹だってしてやるさ。
で、その姉貴なんだが、俺の部屋で泥のように寝入ってしまっている。
枕を並べるのは論外として、今夜は雑魚寝で夜を明かすしかなさそうだ。ここで指す男女とは、カーペットに巣くう目に見えない微生物やダニであり、害がないと言えばないが、あると言えばある潔癖症の方々にとっては殲滅対象の生物たちである。
俺の脳内では常時生類憐れみの令が発令されているから、微生物にだって情愛を抱くさ。キショいとは思うけどな。
てなわけで、押し入れから冬用の毛布を引っ張り出して床に横たわる。普段と背中に触れる感触はまるで違うが、睡眠に差し当たっての問題はなさそうだ。
深い呼吸をすること二、三回。いつもより一時間遅れの就寝に、全身の細胞がようやくかと毒突いて寝付きはじめる。
うつらうつらと夢の世界でオールに手をかけたところで、
「しーくん?」
か細い姉貴の声がした。
「どこにいるの? ……嫌だ。一人は怖いよぉ……」
豆電点けとくんだったな。見下ろせばすぐそこに俺はいるのに。
「一人じゃないよ。ちゃんと側に俺はいるから」
「え?」
頓狂な声がしたかと思うと、ひょこっと姉貴が顔を見せる。
夜目が利いているから、暗闇の中でもはっきり表情を確認できる。眦の端に姉貴は大粒の涙を溜めていた。
俺の姿を確認してふにゃっと破顔すると、
「よかったぁ」
と飛びついてきて、危うく俺は肋骨を折って逝去するところだった。
あとベッドが十センチ高かったら間違いなく逝ってたな。姉貴に飛びつかれて圧迫死って、家庭内事故死に判別されるのかな。事例は皆無に等しいんだろうけど。
「しーくんしーくんっ」
胸に飛び込んできた姉貴は、猫みたく額を何度も擦りつけてくる。
可愛い子猫ちゃんだ。優しく頭を撫でてやる。
「大丈夫。俺はどこにも行かないよ」
「しーくんしーくんっ」
「うん。もう絶対咲月を忘れたりしないから。一人でよく頑張ったよ」
「しーくんしーくんっ」
無限ループかなと思いながらも、優しく囁いていい子いい子し続ける。なぜならこの方法以外に俺は処置方法を知らないから。
子育て経験はもちろんないが、ペットを飼った経験もないんでね、あやし方はよく知らないんだ。
不器用ながらも直向きな姿勢が功を奏したのか、それから二分ほどして姉貴の連呼は収まった。
が、今回は前回と違って泣き疲れて眠ったりはしていない。
「落ち着いた?」
こくんと言葉を覚えて間もない幼児のように姉貴は頷く。
「その……ごめんね。お姉ちゃん、情けない姿を見せちゃって」
ようやく姉貴は本来の姉貴に戻ったようだ。
ほんのり頬を赤く染めながら視線を泳がす姉貴は、自分が相当に恥ずかしいことをしているのだと理解しているようで。
それだけ思考が働くのなら、明日にはいつもの姉貴に戻っているだろう。
腫れぼったい目をした、ほわほわ脳天気な姉貴に。
「謝るのは俺の方だよ。ごめん、変な事態に巻き込んじゃって」
ふるふると姉貴は首を振る。
「今回の件はわたしが考えなしに首を突っこんだことに落ち度があるの。だから、しーくんが謝るのはお門違いだよ」
そういえば、バトラーがサキュバスが元は俺を狙っていたと言っていた。
俺になんの影響もなく、姉貴が甚大な被害を受けたということはつまりそういうことで……どういうことだ?
「昨夜、しーくんの部屋の前に変な女の人がいてね、話を聞いたらサキュバスだって言うの。だから、しーくんを狙うくらいならわたしを狙いなさいって言ったら、その場で気を失っちゃって。それから目を覚ましたら朝になってたの」
姉貴、そう言うときは叫んで助けを呼ぶもんだぞ。サキュバスだからよかったけど、不審者だったらどうしてたんだ?
襲ったのがサキュバスでよかったと不謹慎な安堵を抱く俺がいた。結局、なにより怖いのは狂気に満ちた人間ってことさ。
「それで朝から誰にも気づいてもらえなくなったと?」
「うん。でもね、しーくんなら気づいてくれるって信じてたよ。お姉ちゃんの目に狂いはなかったみたいだね」
むぎゅっと俺の腕に抱きついてくる。
前言撤回。姉貴はまだ正常ではないようだ。
「ま、詳しいことは明日天に聞くか。……姉貴、もう一人で大丈夫?」
聞かずと返答はわかっているが念のため訊いておく。
姉貴はぷくっと頬を膨らませて上目遣いに俺を見上げると、
「大丈夫じゃない。こわいもん」
「ですよね」
わかってましたよ。
ただこの流れだと次の言葉もある程度予測がついてしまうわけで。
「だから、一緒に寝よ?」
17歳(姉)と16歳(弟)がひとつのベッドで一夜を明かすなんて、仮にこのシチュエーションが全国放映されていようものなら、今頃妙な期待の言葉で画面は覆い尽くされているだろう。
俺だって加担するさ。他人事ならね。
「いや、それはその、倫理的によろしくないというかなんというか……」
ダメ元で苦し紛れの抗議を試みるが、
「お願いしーくん。今日みたいになるかもと思うと、怖くて眠れないんだ」
と、手に柔らかな姉貴の感触を覚えながら言われてしまっては、「いやさっき寝てたじゃん?」なんて不毛な反論は露と消えてしまうのである。
あ、姉貴の感触って言っても手だからね? おっぱいじゃないよ?
「……なら仕方ないか」
姉貴の不満を払うのも責任のひとつ。そうこじつけて腹を決める。
姉貴はくすりと微笑むと、
「ありがとしーくん。あと、わたしが寝付くまで咲月って呼んで?」
「……わかったよ」
面映ゆいがやむを得ん。咲月のためだ。
今晩だけ姉と弟ではなく、咲月と紫音になるとしよう。
っていってもあと数分だろうけど。
咲月に続いて、いつもより遥かに狭いベッドに潜り込む。
温もりを感じるのは、先ほどまで咲月が寝付いていたからだろう。俺のものではない、柑橘類の甘い香りが漂っている。
「しーくん」
生温かい吐息が耳にかかる。なるたけ意識しないよう、可及的速やかに夢の世界への忌避を試みていたが、どうやら間に合わなかったようだ。
「どうした」
無視するのも悪いので、背を向けたまま問い返す。
「わたしのわがまま聞いてくれてありがとう。明日からはいつものわたしになるから。ゲームが大好きでいつも暢気なわたしになるから。今日だけは……」
「今日だけじゃなくていい」
咲月、自然体に過ごしてたらそこまで客観的に自分を評価できないんだよ。
「つらくなったら俺を捌け口にすればいい。俺のために無理にキャラを作らなくたっていい。咲月は咲月の思うように過ごせばいいんだ」
俺はもう大丈夫だから。親元を巣立つことができたから。
だから今度は、子が親に恩を返す番だ。
「へへ、でもゲームは本当に趣味になっちゃったからなぁ」
「だろうな。夜な夜な咲月の奇声を耳にする度にまたかって思うよ」
「だって感情移入しちゃうんだもん。仕方ないよ」
「だからって夜中に叫ぶか普通。咲月は将来防音部屋に住んだ方がいいよ」
「そうだねぇ。言えてるかも。……大好きだよしーくん」
「……」
消え入りそうな小さな呟きをはっきりと耳にしながらも、聞こえなかったフリをして目を閉じる。
友愛のライクだろ? まったく変な期待させやがって。
大丈夫。明日になれば姉と弟だ。
咲月と紫音じゃない。以上もなく以下もなく、姉弟なんだ。
だから、この胸の高鳴りは、今夜限りで忘れるとしよう。
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