2007年8月31日

 先輩の唇、柔らかかったな。

私の指先はそれと違って硬かった。私は女の人が好きなのだけれど、先輩はそうじゃないと言っていた。彼氏だっていた。

 けれど、卒業式の日。私が気持ちを伝えた時。

 覚えている。三崎先輩の心音がすぐそばで伝わってきてそれと一緒に「知ってたよ」という言葉。

「バレバレだった」

 私は動けなくなって、そのままぼうっと、先輩の耳を見ていた。

「ごめんね」

 私がもっと素直だったら、葵ちゃんと一緒に居たかったな──。

 先輩の声と体が震えていた。私もそれに耐えらえなくなって、ボロボロと崩れそうになった。先輩の体にしがみついて、私は何とか立っていた。

「葵ちゃん」

 先輩が離れて、私の名前を呼んだ。次の瞬間、先輩の顔が近づいて、私の頭の中は真っ白になった。

「じゃあね」

 先輩は走っていった。私は立ち尽くして、そのままで。

 あれから、もう4ヵ月もたつ。時間の流れはあっという間で、鮮明な衝撃も、ぼやけた風景に変わっていって。いつか私がおばあちゃんになった時には、それも忘れてしまうのだろう。先輩だってそうだ。私のことをちゃんと覚えていてくれるかどうかなんて、確証はないんだから。

「私、多分もうここで」 

 そう思った。もうずっとこのままだ。日付もわからない。太陽が沈まないと時間の感覚がわからなくて、思ったより堪える。それに、喉が渇いて、おなかがすいて。


「やだなぁ。死にたくないなぁ」


 こんなさみしい場所で、誰もいない場所で。私は動けなくなっちゃうのか。日差しが熱い。かすかな体力も、汗とともに蒸発していく


 それだけは、それだけは嫌だ。


 うつろになった私の足は歩き出した。学校に向かって、先輩と触れ合った、あの場所に向かって。

 

 校舎裏は陰になって、ほんの少しだけ涼しかった。本当は先輩のことを見て死にたかったけれど、それはできない。先輩は今、私の知らない場所で、私の知らない人たちと、自分の人生を歩んでいる。思い出す。先輩の、か細い震えた声を、鼓動を、そして、唇から伝わる先輩のぬくもりも。

「ふふ」

 なんだか眠くなってきて、私は目をとじた。木漏れ日が心地よい。薄れゆく景色の中で思うのは、大学生になって大人びた、三崎先輩の未来予想図だった。

 

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