終章#66 I play my heart
推薦希望調査 氏名:百瀬来香
第一希望:屋上
第二希望:
第三希望:
ぐっしょりと濡れた制服を絞ってから、俺はかび臭い階段を昇っていく。
雨の学校の階段は不思議だ、と思う。
雨の音がうるさくて、なのに、何故だか静かにも感じるのだ。まるで秘密基地に迷い込んだように錯覚する。
場違いに、来香が語ってくれた歌のことを思い出す。
ダブルネックギターを言われてもピンとこなかった俺は、『天国への階段』と、同じバンドの『レイン・ソング』を聞いてみたのだ。
何度か聞いた程度ではぼんやりとしか音が分からなかったけれど、いい歌だと思った。
やがて屋上に辿り着く。
この扉の向こうに来香がいる保証はない。四人の中でも特に来香は言動を読むことが難しいから、俺はただ、祈るようにここまで昇ってきた。
『もっと、一緒にいたいから』
あの祈り花みたいな言葉を思い出したから。
何となく、来香はここで待っているような気がした。
――きぃぃぃ
扉は軋みながらも、抵抗なく開いた。
ざーざーと降りしきる雨が室内に入ってしまわぬよう、すぐ屋上に飛び出して扉を閉める。せっかく絞った制服はあっという間にずぶ濡れになった。
だけど、この雨は冷たくない。
少なくとも、前に来香が打たれていた雨よりは。
「やっときた~。兄さん、遅くないかなぁ」
「しょうがないだろ? お前らが四人いっぺんに逃げ出すのが悪い」
「それを言ったら兄さんが四人いっぺんに捕まえちゃうのが悪いけどねー?」
屋上にいた彼女は、しかし、ほとんど濡れていない。
何故なら――傘を差しているから。
くるくると晴れ空みたいに来香が傘を回す。
傘の下、来香は悪戯っぽく聞いてくる。
「で、あたしは何人目?」
「……三人目、だな」
「ちぇっ。一番中途半端な順番じゃん! 最初か最後がよかったー! もう一人のところに行ってから出直してきて!」
「んな無茶言われてもな……。順番に何か意味があるわけじゃないから勘弁してくれ」
「むぅ。兄さんのけちんぼ」
むくれて見せる来香だけど、不機嫌になっているようには見えなかった。
ぷっと吹き出すと、来香はけらけら笑う。
「あー、可笑しい! ほんと変だよね、あたしたちの関係」
「まぁな。……でも嫌じゃない、だろ?」
「まーね。楽しいよ、しょーじき。始めるまではここまで楽しいとは思わなかった」
言って、来香はアンニュイな表情を見せる。
「いっこだけ、謝ってもいい? もう二度と言わないから」
「謝る?」
「あたしが輪に入っちゃって、ごめんね」
「――は?」
何を言っているのか、一瞬分からなかった。
ようやく理解できると、次の瞬間には「違う」という言葉が口を衝きそうになった。
だけど来香の顔を――奇麗で儚い微笑を見て。
俺はその言葉を喉元で殺した。
「……えへへ。やっぱりあたしには兄さんだけだなぁ。いま『違う』って言われてたら、ちょっとだけ嫌いになってたかもしれないのに、ちゃんと我慢してくれる」
「謝ったら、逆に失礼な気がしたから」
「そーだよ? 異物で在ろうとしたのは、他でもあたしたち。あたしたちは確かに
そういうところに惚れたんだと思う。
彼女が綴った手紙には、決して色褪せない命が溢れていた。
「でも、もう言わないよ? 一生謝らない! そこはあたしたちの居場所にもなったんだから、不満も文句も聞いてあげない!」
「ふっ、そうだな」
居場所、と呼んでくれた。
そのことに感慨を覚える……ことはない。もう今更すぎる話だった。最近はうちに押し掛けてくることも多いしな。
「ところで兄さん。話は変わるんだけど、聞いてもいい?」
「……なんか急に怖いんだが」
あと、やや既視感がある。雫にも似たような感じで質問をされた気が……。
おずおずと頷けば、来香はてくてくと近寄ってくる。
雨が止んだ。
って感じた。来香の傘に入ったから。
「兄さんが
「えっ」
「百瀬美緒を、あなたの妹を、女の子として好きになったのはいつ?」
こつ、と来香の頭が俺の胸に当たる。
その上目遣いは、いつもの彼女と違った。
もっと臆病で、だけど奇麗で、花のようで。
「いつだろう。俺も、はっきりとは覚えてないんだ」
「…………」
「だけど……小学校に入ってからだと思う」
それまでも大切な妹だとは思っていた。
だけど、まだその頃は。
「そっか……じゃあ。じゃあ、さ――」
「うん」
「あたしがあの頃、友斗くんから逃げなかったら……美緒からも逃げずに戦ってたら、あたしだけを選んでくれる未来もあった、かな?」
「それは……」
彼女が放った『もしも』は雨音と混ざり、雨に溶けていく。
どうだっただろう、と僅かに逡巡した。
朧げな彼女との記憶に触れる。
月瀬来香という女の子は、俺が初めて自分から関わろうとした相手だった。
『きょうはなにしよっか?』
『うた! このまえ、せんせいにおしえてもらったんだ』
『うたかぁ。おれ、うまくないんだよね。みんなにわらわれるんだ』
『だいじょうぶ、わらわないよ! あたしがゆーとくんのぶんもうたうね!』
俺が苦手な歌を彼女は楽しそうに歌っていた。
そんな彼女といる時間が心地よくて、それがなくなると寂しかった。
「……もしかしたら、そんな未来もあったかもしれない」
そう認めることにどれだけの意味があるだろう。
『もしも』は所詮『もしも』だし、俺にとってはいま辿り着けた場所が一番の幸せだ。
けれど、来香にとっては違うのだろうか――?
「ふふ、違うよ。あたしも今の関係がいいって思ってる」
俺の気持ちは見透かされてるみたいだ。
ふるふると胸の中で彼女はかぶりを振る。
「だけど、その話を聞けてよかった。
やっぱり――あたしはこれからもいっぱい恋するよ。あの頃みたいに諦めたりしない。そうすれば、今よりももっともっと好きになってもらえると思うから」
色とりどりの花束を手向けるように、笑顔で言った。
「ねぇ。これからは『友斗くん』って呼んでもいいかな?」
「えっ」
「結婚するのに『兄さん』って呼び続けるのは変でしょ? それに……ほんとはずっと呼びたかったんだ」
「そう、だったのか」
あえてその呼び方を選んでいるのだと思っていた。俺たちの関係を説明するのが難しい相手の前では『友斗くん』と呼んでいたから、『兄さん』と呼ぶことが来香の中で大切なものなんじゃないか、って。
だけど、そうではなかったのかもしれない。
来香の中の臆病さが『兄さん』と呼ばせていたのかもしれない。
だったら――
「もちろん。彼女に『兄さん』って呼ばせてるのを聞かれたら、色々と誤解を招きそうだしな」
「妹フェチなのは誤解じゃないと思うけどねー!」
「誤解だから! 断固として誤解だから!」
……恋人がみんな妹属性持ちなのは、あくまでたまたまである。ほんとだよ?
んんっと喉を鳴らすと、来香は仕切り直すように口を開いた。
「それじゃあ、友斗くん。あたしと踊ってくれるかな?」
「ああ、もちろん」
傘を来香から受け取って、もう片方の腕で彼女の腰を抱く。
スローテンポの、ゆったりとしたステップ。ただ揺れてるだけだと言われればそれまでだけど、これくらいでちょうどいい。
相合傘をしたまま、くっついて。
お互いの体温を分け合うように、俺たちは踊る。
「ねぇ友斗くん」
「どうした?」
「何でもないよ。呼びたかっただけ」
「そういう古典的なデレは心臓に悪いからやめような」
「えーやだ! だってあたしの心臓もさっきからすごくドキドキしてるもん。友斗くんにもたくさんドキドキしてほしいな」
「……十分ドキドキしてるから追い打ちをかけないでくれって言ってるんだよ」
「ふふ、そっか。じゃあドキドキしてるの、聞いてもいい?」
「は?」
「いいよね。友斗くんはそのままでいて? あたしが耳を当てるから」
「ちょっ、来香……!?」
俺が止める間もなく、来香は俺の胸に耳を当てた。
ちょうどいい身長差なんだな、などと素っ頓狂なことに気付く。濡れた制服越しに来香の耳の、あえかな微熱が伝わってくる。
「ほんとだ。早いね」
「……まぁな」
「あたしのも、聞く?」
「はっ!? い、いや、それは……」
「エッチな気分になっちゃう? あたしはそれでもいいけど……今はもっと純粋に、あたしのドキドキを聞いてほしいな、って思ったり」
「っ、その言い方はズルいだろ」
そんな風に言われたら、断れない。
っていうか、断りたくなくなる。どうせ俺も聞かれたんだ。来香の音も聞きたいって思ってしまう。
来香は、えへへ、と解けるようにはにかんだ。
「聞いてもいいよ? あたしの心臓の音」
「…………少しだけなら」
俺から耳を離した来香に傘を預けて、その場で屈んだ。
ぞくぞくとせりあがってくる背徳感を頭の隅に押しやって、心臓の辺りに耳を当てた。
すぐには聞こえない。
音を探すように耳を澄ませると、
――とくんとくんとくん
教会の鐘の音みたいに、心音が鳴っていた。
「聞こえた?」
「聞こえた。……奇麗な、音だな」
「でしょー? あたしが世界で一番奇麗だと思ってる音だよ。いつか奏でたい音」
「そっか」
分かる気がした。
優しい音だ。それでいて、激しくもある。
澄み切った音だ。だけど、奇麗に淀んでもいる。
――ああ、奇麗だ
そう息を呑んだ。
いつまでも聞いているわけにはいかないから、耳を離して立ち上がる。
再び傘を受け取ろうとすると、来香が手を握ってきた。
「あの音をもっと奇麗に鳴らす方法、知ってるんだ」
「……奇麗に鳴らす方法?」
「せっかく恋人になれたんだもん。してほしいな、もう一度」
何をねだられているのかは流石に分かった。
来香の顔はすぐそこだ。縮まった身長差に、ああ背伸びをしてるのか、と妙に冷静な頭で気が付く。
微かに濡れそぼった唇は、甘い甘い蜜りんごのようだった。
「目、開けたままでいいのか?」
「目を離したら、後悔するかもしれないから」
「それは……」
「うそ。本当はただ、見てたいだけ。友斗くんがキスする顔ってかっこいいんだもん」
「~~っ」
「その何倍も可愛いけどね」
本当にこの子は、と思う。
お姫様じゃなくて魔女だ。可愛くて仕方ない、天性の魔女。
だけど、魔女に口付けるする王子様が一人くらいはいてもいいだろ?
だから、
――ちゅっ
恋を始めるみたいに、キスをした。
「……えへへ。とくん、とくんって鳴ってる。友斗くんのこと、まだまだ好きになれちゃいそう」
「俺も、来香のことをもっと好きになるよ。気付けてないことも思い出せてないことも、知らないことだってたくさんあるからな」
「そっか。じゃあ手始めに――ファーストキスの味、思い出そっか。思い出せるまで、キスして?」
「時間が許す限り、な」
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