終章#59 入江家大騒動(4)
駒の名前や動かし方は知っているものの、俺自身は将棋に詳しいわけじゃない。だから定石や戦法は分からないし、戦況を正しく分析することも残念ながら難しい。
そんな俺ですらも、来香が当主を圧倒していることだけは分かった。
「……ならば、ここを」
「…………」
「っ!? そ、それなら……」
一手ごとに深く考え込み、苦悶の表情を浮かべるのは当主。深く刻まれた皺には汗が滲んでおり、追い込まれているであろうことは想像に難くない。
一方の来香は、流石に集中していて雑談をしたりはしないが、ずっと涼しい顔のままだ。しかも考えている時間自体は10秒程度であり、その早指しが余計に当主を追い詰めている。
「私、実は『友斗先輩も時雨先輩も美緒ちゃんのこと美化しすぎじゃない?』とか思ってたことあったんですけど。今の来香先輩を見てると、全っ然美化してるわけじゃなかったんですね……」
「そうだぞ? 美緒は昔から天才だったからな。転生者かよって思うレベルだ」
もちろん、色んな事が積み重なったせいで大人びざるを得なかった部分もあるだろう。
しかし、百瀬美緒という少女の才能そのものは誰かの手によって美化や脚色を施されてはいない。むしろ語り切れていない程だ。
天は二物を与えないなどと言うが、音楽と頭脳、それぞれの天才が混ざって一人になるとは神様も考えていなかっただろう。
ま、そもそも二物も三物も神様から与えられている奴もいるが。
「つーか雫。流石にこれ、真剣な空気の中で続けるのはハズイんだが。やめていいか?」
「ダメです♪ ほらほら、この後の話を考えたらラブラブなところを見せつけておいた方がいいじゃないですかー! だからもっとぎゅってしてください♡」
「見せつけるにも限度があると思うんだよなぁ……」
はぁと吐いた溜息は、どうやら雫の耳をくすぐったらしい。微かに色っぽい声が雫の口から漏れる。
――俺は雫を後ろから抱きしめていた。
いわゆるバックハグに近い。流石に首元を抱きしめるのは気恥ずかしかったので、腰のあたりを軽く抱き寄せるだけにはしている。ま、どっちにせよ距離は近いし、めちゃくちゃドキドキするんだけど。
「どーしても嫌ならやめてもいいですけどー。……私、抱き心地いいと思いません?」
「…………まぁ、悪くはないな」
「えへへっ、やった! じゃあまだ抱きしめたままでもいいですよねー?」
それとこれとは話が違う気がする。けど、抱きしめること自体は嫌じゃないどころかめちゃくちゃ多幸感があるんだよなぁ。
百人一首とはいえ、入江先輩に勝った功績は大きい。澪も食い終わってから問答無用で甘えてきてたし、雫のことも多少は甘やかすのが筋だろうか。
「ま、雫は頑張ってたしな」
「ですですっ。いっぱい汗掻いて頑張ったんですか……ら?」
「ん、雫? どうかしたか?」
ぎぎぎ、と錆びついたロボットみたいにゆっくりとこちらへ振り返る雫。
まじまじと俺を見つめたかと思うと、かぁぁ、と雫の顔が赤く染まる。
「や、やっぱりもう終わりでいいですっ!」
「え? 急にどうした?」
「どーしたもこーしたもないです! どうして汗臭いって言ってくれなかったんですか!? めっちゃ恥ずかしいです……!」
「あー」
言われてみれば、汗の匂いはするかもしれない。
腕の中でばたばたと抗議してくるので、大人しく抱擁を解く。ぱっと離れた雫は、その足で澪へと近寄った。
「お、お姉ちゃん。汗拭きシートとか持ってきてる……?」
「ん、あるよ。拭いてあげよっか?」
「うんっ、お願い! お姉ちゃん大好き!」
「んふふ」
シスコンの澪が満足そうに頷く。こいつら、ほんと仲良し姉妹だよな……。
この場で汗を拭くのは嫌なようで、二人は一度部屋から出て行く。二人の案内を名乗り出てくれた入江先輩は、心底呆れた表情をしていた。
「……あなたたち、流石ね。私と時雨でもここまでじゃなかったわよ」
ちょっぴり、いや、かなりグサッと刺さる一言だった。
俺と大河は顔を見合わせ、苦笑いをせざるを得なかった。
「…………もうちょっとあたしの対局に集中してくれないかなぁ、四人とも」
「お、おう。ごめんな来香」
「ごめんなさい……ちゃんと応援はしているので。頑張ってください」
視線を盤上に戻せば、形勢逆転されている――などということはなくて。
むしろいっそう来香が優勢になっていた。
来香が畳みかけるようにノータイムで指し返せば、当主もそれに次の一手を急かされ、だんだんと加速し始める。
じりじり、じりじりと何かが焼き切れる寸前みたいに当主が劣勢に陥っていくのが傍目にも分かった。そして来香がそうなるように誘導していることも。
百瀬美緒はそもそも頭脳派の天才だった。
しかし、月瀬来香にはもう一つの才能がある。
音楽、或いは、表現と言った方が適切かもしれない。
彼女は今、その両方の才能を駆使していた。
盤上は頭脳で支配し、同時に盤外戦術を仕掛けて当主から思考の時間を削り取る。
二匹の蛇が首を絞めるように、来香は圧倒していた。
そして、暫く経って――。
「参った」
当主は投了した。
酸素を慌てて取り込むみたいに、深く深く息を吸う。
「はぁ、はぁ……凄まじいな。まったく勝ち筋が見えない。恐れ入ったぞ」
「対局ありがとうございました。なかなかお強かったですよ? 堅実すぎる部分を直せば、もっと強くなれるんじゃないかなーと思いました」
「……あいつにも昔、同じことを言われたよ」
懐かしそうに苦笑するのを見て、『あいつ』が祖父ちゃんのことだろうと悟る。
――堅実すぎる部分、か。
祖父ちゃんから聞いた人物像と今の当主が、ようやく重なってくる。
「一つ、聞いてもいいだろうか」
「答えられることなら」
「彼は、君ほどの人物が何かをしたいと思うほどの男なのか? 君たちがどういう関係なのかは分からぬが……」
問われて、しかし、来香は魔王のように嗤った。
「それは自分の目で確かめてください。こんなくだらない茶番を通さず、ちゃんと顔を顔を突き合わせて話を聞いて――人を見るところから始めては?」
「……っ」
来香の明け透けな言葉に、当主は顔を歪める。
ったく、そこまではっきりと言わなくてもいいだろうに。
苦笑しつつも、俺は大河と顔を見合わせた。
試練は終わった。
三人は戦ってくれた。
ここからは俺たちの番だ。
「俺たちの話を聞いてください」「私たちの話を聞いてください」
俺と大河の声が重なって。
当主は、険しい顔で首を縦に振った。
◇
場所は移って、最初に話した部屋。
俺たち五人は当主と向き合っていた。入江先輩は障子の前で座しており、その横に大人たちも居並んでいる。その中には大河と入江先輩の両親もいた。ちなみに、二人とはこの屋敷に来る前に話している。
きちんと俺たちの関係を説明すると、二人は少し迷った後で納得する様子を見せた。
曰く、
『僕らも家の常識から外れた恋をした。程度の差はあるし、親としては戸惑ってしまうけれど……大河が本当に幸せなら、止めない』
『但しそれは、お義父様を説得できたらの話よ。説得できるだけの強い想いなら両親として祝福します』
とのこと。
だからこれは、当主への挨拶であると同時に、大河の両親からのテストでもある。
さっきまではちょっとばかし主導権を握られて振り回されたが、ここからは誠意をもって話す必要がある。
「それで。話とはなんだ? 何となく察していると思っていたが……少し違うような気もする。まずは二人の口から聞こう」
当主は湯呑みに口をつけてから言った。
空気の硬度が元に戻る。
「私はここにいる百瀬友斗さんのことを愛しています」
陶器のような響きを伴って、その言葉は張り詰めた空気に放られる。
「でも同じくらい、他の三人のことも大好きです」
「……ぬ?」
「一人は私にとって大切な友達です。大親友です。最初は、どこまでも突き進める眩しさが好きでした。でも付き合っていくに従って、彼女でも迷うのだと知って、迷いながらそれでも眩しく在ろうとできる彼女を心から尊敬しています。彼女に抱き締められると、お日様に包まれたような気分になるんです。温かくて、心地よくて、……だから私は彼女といつまでも一緒にいたいと思います」
入江大河ができることは少ない。
彼女は超人ではない。努力家だ。澪や来香、時雨さんや入江先輩のように何かに秀でているわけではない。ひたすらに愚直で真っ直ぐなだけなんだ
そんな彼女にできることは――と考えたのは、もうずっと前のこと。
俺は何度も彼女の真っ直ぐさに突き動かされてきた。
「もう一人は私の不倶戴天の敵であり……時に私を守ってくれるかっこいい先輩です。出会った頃は掴みどころがなくて、何を考えているのかよく分かりませんでした。だからこそ知りたいと強く思って……いざ知ってみると、呆れてしまうほどにどうしようもない人で。強欲でわがままなのに、私たちのことを守ろうとしてくれる人です。……だから彼女とも、ずっと一緒にいたいです」
大河がいなければ、きっと諦めていた。
一人では望み切れないものを、隣で真っ直ぐ望んでくれたから今がある。
「最後の一人は、まだ知らないことも多い人です。だけど私にとって初めての友達でもあります。誰かさんみたいに不器用で優しくて、自分なりの生き方をちゃんと持っていて……とても奇麗な人です。似ていることも違っていることも、何故だか不思議と心地よくて……もっともっと、知りたいって思います。だから私は、彼女にもずっと一緒にいてほしいんです」
「…………」
「彼女たちは私と同じく、百瀬友斗さんのことを愛しています。四人とも彼のことを愛し、妻になって生涯を共にしたいと考えています」
「……っ」
「日本の法律では、重婚は認められていません。ですが幸い、二人は彼と義理の兄妹なんです。だから私が澪先輩と、彼が月瀬先輩と結婚すれば……五人で繋がることができます」
入江大河は真っ直ぐに走り抜ける。
篭絡も懐柔も狙わず、罠を仕掛けず、クソ真面目に全てを言う。
「私たちは――五人で添い遂げるつもりです。今日はそのことをお爺様に認めてもらうために来ました」
「――ッ……!?」
ばたん、と湯呑みが倒れた。
半分ほど残っていた茶が零れるけれど、誰も拭き取ろうとはしない。目の前の男性の圧が、それを許さなかったのだ。
「五人で、と言ったな?」
「はい、五人です。彼と彼女たちと私。四人で生きていきます」
「そんなこと、許せるわけがないだろうっっ!」
一歩遅れの激昂。
空気がジンジンと震えた。大河が僅かに身を竦める。
憤怒の色に染まった眼差しが俺を突き刺していた。
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