終章#49 Runner
「くぁぁ……さむ」
3月に近づいているとはいえ、まだ春と呼ぶのにふさわしくない寒さが街を包み込んでいる。特に朝の寒さは厳しく、目を覚ましても布団から抜け出すのは至難の業だった。
それでも体に鞭を打ち、無理やり起き上がる。時刻は朝の5時半。もうしばらく寝ることはできるものの、二度寝すれば朝のうちに起きられるとは思えない。
「走ってくるか」
一向に消えない眠気を吹き飛ばすためには運動に限る。
スキー合宿で晴彦や大志とジムの話をしたが、色々と忙しくてまだ通い始めてはいない。色んなことが落ち着いたら、自分磨きの一環として通ってもいいかな、とは思っている。
ま、それはさておき。
運動自体はジムに通わずともできるのだ。部屋での筋トレはもちろん、誰かさんみたいにランニングをしたっていい。
そんなこんなで適当なスポーツウェアに着替えてリビングに降りると、
「あっ、友斗。その恰好、どうしたの?」
「澪か……おはよう。ちょっと走って体を起こそうと思ってな」
ランニングウェア姿の澪がいた。半袖短パンの俺と違い、上着とネックウォーマーも装備した完全体である。
澪は、はぁ、と溜息を吐いてから言った。
「そんな薄着で走り始めるのは体によくないでしょ」
「えっ、そうなのか? てっきり暑くなるまでは我慢するものなのだとばっかり……」
事実、学校の持久走とかって大抵が冬にやるのに半袖短パンで走るように言われたりするんだよな。どうせ途中で暑くなるんだから、って。
「違うから。今時小学生でもそんな恰好で走らないって」
「そういうものか……」
「そ。特に冬のランニングは重ね着がマスト。厚くなったら脱げばいい。でも寒いのに薄着のままだと、色々と危険なの」
「なるほど」
えっへん、と胸を張る澪。
伊達に毎朝走っているわけじゃないらしい。着飾らないスポーツ女子って感じがして、かっこよくて可愛かった。
「ああ、それと」
言いながら、澪は上着をぺろりとめくった。
一瞬ハッとしたが、すぐにウエストポーチの存在に気付く。澪はポーチから何かを取り出すと、ほら、とこちらに見せてくる。
「タオルと飲み物、持ってないでしょ? 飲み物は公園の水とかでもいいけど、タオルはないと風邪引くよ」
「あっ、あぁ……そうだよな。全然考えが及ばなかったわ」
ふと思い立って走ろうとしたわけだが、もっと準備をするべきだった。
きまりが悪くなってぽりぽりと頬を掻いていると、小さく欠伸をしてから澪が言ってくる。
「どうせだし一緒に走ろ。私が色々と教えたげる」
「えっ、いいのか? 俺に付き合った不完全燃焼で終わらないか?」
「ずっと一緒には走らないよ。合流地点決めて、私はちょっと多めに走る。それなら問題ないでしょ?」
「ま、まあ」
問題はないが、当たり前のようになってる澪の無尽蔵の体力ってなかなかヤバいよな、とは改めて思う。俺も体力がないわけじゃないはずなんだけどな……。
「じゃ、そういうことで。タオルと上着、持ってきて。ポーチは貸したげる」
「う、うす」
――斯くして、俺は澪とランニングをすることになった。
◇
澪と二人でストレッチを済ませ、俺たちはゆっくりと走り始める。
体力自体はそこそこにある方だ。が、急に速度を上げてもしょうがないし、たまには街並みを眺めながら悠々自適に走るのもいい。その方が精神的な健康にもよさそうだ。澪も最初はゆっくりと走るつもりのようで、俺に合わせてくれる。
ひゅぅぅぅ、と微かな風。
僅かに騒めく木々。
それらが聞き取れるほどの静けさ。
まだ温まり始めてない町の朝の匂い。
たっ、たっ、たっ、と二人分の足音が弾む。
通りすぎる家の一つ一つには、生活がある。
家族がいて、たくさんの絆が息づいている。
あと少しすれば朝食の匂いがする家もあるだろう。トースターのチンって音とか、目玉焼きを作るじゅ~じゅ~って音とか、色んな音と香りがコケコッコーの代わりに朝を報せる。
そうやって誰かの生活に思いを馳せながら、だんだんとペースを上げて走っていく。
「先行くね。公園で合流で」
「はぁっ、おう…っ」
流石に、澪の加速には追いつけないらしい。
澪の背中を見送りながら、自分のペースを保って走り続ける。無理は禁物、と澪にキツく言われているのだ。
それに、こうして一人で走るのも悪くはない。
まるで秘密の冒険みたいだった。
17歳の冬の、ちょっとだけ特別な冒険。
眠気の靄はすっかり晴れて、子供っぽくてかっこ悪いことを考えられる余裕ができていた。体の芯からほかほかと熱くなっているのを感じ、上着を脱いで腰に巻く。
暫く走り、息が切れそうになっていたところで合流場所の公園に到着した。
おそらく俺の体力を計算に入れて、合流場所を決めてくれたのだろう。
タオルで汗を拭い、水分を補給して一息ついていると、
「お疲れ、友斗」
と澪の声が聞こえた。
澪は上着を腰に巻き、タオルで汗を拭っている。肌に張り付いて僅かに透けたランニングウェアが色っぽく、健康的なはずなのにイケナイものを見ている気分になった。
「お、お疲れさん」
「……? なんでちょっと声が上ずってるの?」
「…………何でもない。気にするな、ちょっと息が切れてるだけだ」
「ふぅん?」
訝しげな視線を向けてきた後、まぁいっか、と澪は漏らした。
「走るの、どうだった?」
「そうだな……思ってたよりずっと気持ちよかったわ。意外と悪くないな」
「でしょ。毎朝走ってる私の気持ち、分かった?」
「多少はな」
澪の場合、度が過ぎてる気もするけどな。この後学校で演劇の基礎トレーニングをするわけだし。
「つくづく、澪は凄いなって思うよ」
「……急に褒めるじゃん。朝のご奉仕でもお望み?」
「下ネタの剛速球はやめような!?」
ったく、素直に褒めさせてほしいものだ。ここ数日がんがん責められてて色々と我慢の限界なんだからな?
こほんと咳払い、平静を装って続ける。
「昨日、入江先輩とも話しててな。冬星祭と同じライブになると思ったら大間違いだって言われたよ」
「当たり前じゃん。あれから一皮剥けたって自覚もあるし……これからも何度だって変わっていくつもりだし」
だから、と挑発的な笑みで澪が言う。
「今の私にふさわしい歌、書いてよね」
文化祭のミュージカルで使った『Dear Myself』は、俺が澪に歌ってもらうために書いたものだ。初めてだったから稚拙ではあったかもしれないけれど、あの歌に後悔はない。
だけど、今の澪にはもっとふさわしい歌があるはずだ。
……まだ書けてはいないけれど。
「今回は澪のためだけの歌じゃないけどな?」
「ま、ね。浮気者め」
「うっ……悪いな。あの曲で終わりじゃなくて」
責められているわけではないと分かっていても、謝罪の言葉が口を衝く。
以前は澪のために書いたけれど、今回はそうじゃない。だから何となく申し訳なさがあった。
「それ、本当に謝られることじゃないから。歌をテーマにしてるエロゲの主人公みたいなこだわりはキモイよ」
「罵倒の仕方がピンポイントかつ対応に困るやつすぎるんだが?」
「具体的なタイトル出す?」
「出すな! 何となく分かるから!」
あの作品は胃が痛くなるタイプのアレだから。『ハーレムラブコメ』とか言ってる俺たちと比較すると複雑な気分になっちゃうから。
俺がツッコむと、澪がくつくつと笑った。
「冗談冗談。けど、謝る必要がないのはほんと。私に歌を献上するだけの男なんて、振り向かせ甲斐がないしね」
「……そうかよ」
「ん、そうなの」
まぁ、そう言うんだろうな、とも思っていたけど。
「来香にも、雫やトラ子にも、私は負けないからね。ぶっちぎりで輝いて、最高のステージにしたげる」
「そのためにも、澪たちにぴったりの歌を作んないとだな」
「そゆこと。……楽しみにしてるからね?」
おう、と力強く頷く。
まだちっとも書けてない状況は昨日と変わらないが、紡ぎたい言葉に近づいている感覚は確かにあるから。
「締切、守りなよ」
「……………………善処はする」
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