終章#30 母親

 翌日。かなり早い時間に待ち合わせを指定され、俺はまだ人の少ない駅前で大河を待っていた。薄暗さの残る街は夜じみており、まだ朝だと感じられない。

 欠伸をくわぁっと噛み殺していると、


「おはようございます、ユウ先輩」


 目が覚めるような大河の声がした。


「おはようさん」

「朝早くからすみません。日帰りにするには、なるべく早い時間に出た方がいいと思いまして……」

「なるほどな」


 苦笑交じりに思い出すのは、期せずして一泊二日になってしまったときのこと。明日は休みだが、今の状況で大河とどこかに泊まったりするわけにはいかないし、あのときの二の舞はごめんだ。


「で、どこに行くんだ?」

「ユウ先輩が行きたいところ、です」

「……は?」


 返ってきた答えに耳を疑った。

 じーっと大河を見つめて意図を探ろうとすると、彼女は咳払いをしてから繰り返して「ユウ先輩の行きたいところ、ですよ」と口にする。


「行きたいところがあるんじゃなかったのか……?」

「ありますよ。『ユウ先輩が行きたいところ』に行きたいんです」

「は、はあ?」

「私が行きたいところには、この前ついてきてくれたじゃないですか。だから今日はユウ先輩が行きたいところに行きましょう。そこで話をしたいです」


 衒いも躊躇もなく、大河は真剣な顔で言い切った。

 冷え冷えとした風がコートの隙間から入り、体が強張る。真っ直ぐな瞳は、しかし、その奥にある考えを読み取ることができない。


「俺がしたい話をする、とか言い出さないだろうな?」


 なんて捻くれた返答が口を衝く。


「言い出しません。ちゃんと話したいこと、あります」

「――っ」

「だから教えてください。ユウ先輩が行きたいところを」

「…………」


 いつだって大河は真っ直ぐで、俺から逃げ道を奪ってしまう。

 ――行きたいところ。

 そんな場所、俺にあるだろうか? 望む未来に辿り着くこともできなかった、抜け殻みたいな俺に。


 ――いや、一か所だけある。


 触れることのできない思い出があるかもしれない場所。

 あの人の欠片があるはずの場所。

 でも、そこに大河を連れて行ってどうする? 大河からすれば何も意味のない場所で、行ったところで何かが変わるわけじゃない。それどころか、俺でさえ何かを見つけられる自信はない。

 もしそこ訪れて、それでも何も見つけることができなかったら――。

 跳ねっ返ってくる冷たさに低温火傷しまうのが怖い。


「ユウ先輩」


 と大河が俺を呼ぶ。

 今日の彼女には、迷いも不安も、ありはしなかった。

 確信や妄信にさえ近い信頼がそこにあった。その気持ちを裏切るわけにはいかなくて、俺は。


「…………母さんの実家に行きたい。ついてきてくれるか?」

「――はい。もちろんです」


 俺の中に母さんがいないなら、母さんがいた場所で拾い集めるしかない。

 この先に何かがあることを祈って。

 大河と共に電車に乗り込んだ。



 ◇



 今度こそは、と言うのは変かもしれない。以前来香と向かおうとしたのは『どこか』であり、その『どこか』の一つとして祖母ちゃんの家を選んだだけにすぎないからだ。そこに辿り着けずとも、あの名も知らぬ街が俺たちの旅の正しいゴールだったのだと思う。


 この旅は違った。

 祖母ちゃんの家に向かっている。そこで何かが見つかることを祈っている。

 だからあの日のように寝過ごすことはなく、当たり前に乗り換えをすることができた。目的の駅に辿り着いた頃には昼が近づいており、コートを着たままではやや暑く感じる程度に日が出ている。


「ここがユウ先輩のお母さんの……?」

「ああ。家はちょっと歩いたところだけどな」


 相変わらず、文明から距離を置いた街だった。緑はすっかり枯れ、寂れている。それでも『ド田舎』という印象は変わらなかった。

 人っ子一人いない、ぼろいバス停。

 動いてるのか分かんない自販機。

 駅前に雑に止められた自転車。

 ノスタルジア懐かしさよりもデカダンス退廃を感じるのは俺が都会っ子だからか、それとも……。


「ユウ先輩はここに何をしに来たんですか?」


 人気ひとけのない街を歩きながら大河が尋ねてくる。

 電車に乗っている間に幾らでも話す機会はあった。だけど俺は話さなかったし、大河は聞いて来なかった。

 もしかしたら、大河は待つつもりだったのかもしれない。俺が自分で話し始めることを。でも話そうとしないまま現地に辿り着いてしまったから、意を決して聞いてきた。もしそうなのだとしたら……。


「俺は家族が分かってない、って時雨さんに言われたんだよ」

「家族、ですか?」

「だから誰かを『愛する』ことを知らなくて、そのせいで身勝手に『好き』を振りかざせたんだと思う」


 自分の言葉が胸を刺す。

 ちく、ちくり。

 大河はそんな俺の話を聞き、納得したように頷いた。


「それは少しだけ、分かるかもしれません」

「分かるってのは、どっちのことだ? 俺が家族を分かってないことに対して? それとも――」

「家族が分からない、という感覚の話です」


 ほら、と彼女は続ける。


「うちの家は少し特殊じゃないですか。家族と呼ぶには少し堅苦しすぎて……」

「それは、そうかもな」

「逆に両親は厳しい人ではないですが、その分、放任主義なんです。きっと父が自由を制限されてきた反動だと思いますが」

「なるほど」


 まぁ、放任じゃなければ大河に独り暮らしなどさせないだろう。そもそも入江先輩が実家から通える時点で、大河があの家に一人で住む必要はないわけだし。


「もちろん両親には感謝をしていますし、厳しい家だからこそ得られるものがあるとも思っているので、自分の生まれを悪く言うつもりはありません」

「ああ」

「でも、絵に描いたような『温かい家庭』はすごく遠く感じます。だからユウ先輩の感覚は少しだけ分かるかな、と」


 そもそもの話をすれば、大河の言う『温かい家庭』みたいなモデルケースの方が珍しいのだと思う。多かれ少なかれどの家も何かしらの問題を抱えるだろうし、たとえ一時は幸せに見えても、呆気なく崩れてしまうこともある。


 それでも俺たちがそういう家族をどこか恋しく思うのは、そこが帰れる場所だからだろう。かっこつけることも気を張ることもなく、ありのままの自分で憩うことのできる場所。そういう場所を求めている。


 ――そういう場所になるはずだったんだ、〈水の家〉は。


 家族みたいな五人の帰る場所を作れたら、って。

 そう願ってしまったことは間違いだったのか――?


「だけど、私はまるっきりユウ先輩と同じわけでもありません」


 大河の呟きを受け、俺は視線でその続きを促す。

 やや照れ臭そうな顔をしながら大河は話した。


「私には姉さんがいます。澪先輩には雫ちゃん、雫ちゃんには澪先輩がいますね。月瀬先輩と美緒さんにとっても、お互いがそういう存在だったのかもしれません」

「そういう存在って?」


 うすうす分かってるくせに聞いてみる。


「憧れの対象だったり、逆に庇護の対象だったり、頑張る理由だったり、もう一人の自分のように思えたりするときもある――そんな姉妹のことです」

「……幅広過ぎないか?」

「人によって違うんだから当たり前です。……とにかく、そういう近くにいる家族がユウ先輩にはいなくて、私たちにはいたんですよ」


 俺にも美緒がいた。

 ってのが違うことは俺にも分かる。だって美緒は妹であり、妹じゃなかった。『近くにいる家族』と呼ぶには、色んなことが違いすぎたのだ。


「じゃあ尚更、俺が家族を知るためには母さんのことを思い出さなきゃいけないわけだ」

「それは……そうかもしれません。ただ――」

「ん?」


 今朝から迷いのなかった大河が僅かに言い淀む。

 どうしたのかと一瞥をすれば、ちょっと困った顔で言った。


「ここから先は完全に私の不躾な推測です。ユウ先輩のご家族を貶す意図はありません。念のため言っておきます」

「お、おう……?」

「ユウ先輩のお父さんと澪先輩たちのお母さんは幼馴染なんですよね? それで、澪先輩はもしかしたらユウ先輩のお父さんの子かもしれない、と」

「……そうだな」


 どうして急にそのことを言い出すのか、よく分からなかった。

 短く相槌を打って言葉を待つ。大河はやはり一瞬躊躇し、その後に口を開く。


「私にはユウ先輩のお母さんが、絵に描いたような『いいお母さん』だったとは思えません」

「――え?」

「もちろん、そういう面もあったんだと思います。だけど、それだけじゃない気がするんです」


 何故だろう。

 ちっとも思い出せなかった母さんの横顔が脳裏によぎった。

 優しかった。厳しくもあった。でもそれ以上に、時々かっこよく見えたような、そんなきがした。


 ……気のせい、か?

 その記憶はまだ朧げで、触れれば水面みたいに曖昧になってしまう。


「……どうしてそう思うんだ?」


 突拍子もない大河の考えを一蹴する気になれず、尋ねる。

 ずっと触れられなかった母さんにようやく届くかもしれないから。

 だって、と大河がおずおずと答える。


「澪先輩と美緒さんの名前が偶然同じになるだなんて、おかしいじゃないですか」

「…………あ」


 さも当然のように受け入れていた。

 皮肉な運命だ、と呑みこんでいた。

 だが、本当にそんな風に片付けていいのか?

 澪と美緒が似ていたことにさえ理由があったのに。


「ちゃんと知らなきゃいけないんだろうな、母さんのこと」


 あの頃の記憶じゃ、端から足りていないのだ。

 あの頃と今では目の高さが違うように、もっと深く母さんを知らなきゃいけない。

 過去に還るのではなく、今を生きるために。


「――はい。私もお供します」

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