終章#06 タイガオトナ
――絶対にキスをする
そんな風に意識すると、電車に乗っている間さえもソワソワしてしまう自分がいた。唇を舐めかけて、いやいや、と大河と合流する前に考えていたことを思い出して苦笑する。
だからといって大河の方をじろじろ見ていたら、
「……ユウ先輩、目がいやらしいです」
と怒られてしまった。
自分の小悪魔的な発言が原因だってことを自覚してほしいなぁ、と思いつつ。実際、意識しすぎているのは事実なので気を引き締める。
かくして一人でソワソワしまくりの俺が大河に連れていかれたのは、少し離れた駅の近くにある眼鏡ショップだった。
「眼鏡? 大河、眼鏡買いたいのか?」
「ユウ先輩っていつもパソコン使うとき、ブルーライトカットの眼鏡つけているじゃないですか」
「あー、澪から貰ったやつな」
「あれが羨ましいなとは常々思っていたんですが……ユウ先輩がバレンタインイベントの準備から抜けてパソコンを今まで以上に使うようになってから、いよいよ目の疲れを実感しまして」
「そうか……」
大河が目元を抑えながら疲れを滲ませる。あんまり女子高校生の口から聞きたい言葉じゃねぇな……いや、気持ちは分かるんだけどね? 時雨さんもOGとしてあんまり出しゃばらないようにしているみたいだし、大河が担うべき仕事は増えているはず。ずっとパソコンを見ていると目はどうしたって疲れるのだ。
「それで、心機一転の意味も込めて、ブルーライトカットの眼鏡を買おうと思ったんです」
「なるほどな」
「というわけで、ユウ先輩には一緒に眼鏡を選んでいただきたいんですが……いいですよね?」
もちろん、と肩を竦めて返す。
「つっても、俺も眼鏡に詳しいわけじゃないし、店の人に聞いた方がいいと思うけどな」
「当たり前じゃないですか。ユウ先輩に眼鏡知識は求めていません。だいたい、澪先輩から貰ったものを着けてる時点でユウ先輩が無知なのは分かり切ってます」
「無知とまで言わなくてもいいと思うよ? 先輩、ちょっと傷付いちゃうよ?」
「そうじゃなくて」
俺のツッコミは華麗にスルーされる。まぁ大河の言う通りだからいいんだけどさ。
じゃあ俺に何を求めてるのか。
そんな疑問には、続く大河の言葉が答えてくれる。
「……私に似合う眼鏡を、一緒に見つけていただきたいんです」
「似合うって……」
「それくらい分かりますよね!? ユウ先輩に可愛いって思ってもらいたいのは当たり前ですよねっ? 生徒会室で仕事してるときも好きになってほしいんです! ……だから協力してください」
「…………」
正直なら何でもいいと思ってんのかこいつ。新手のツンデレすぎるだろ。正直デレ、流行るんじゃないでしょうか。全国のラブコメ作家さん、力作お待ちしてます。
などとよく分からないことを考えてしまうくらいには、大河の言葉に心が揺さぶられた。が、いつまでも照れていては先輩らしくない。頼りになる先輩だとも思ってもらいたいので、ここは切り替えることにする。
「よし任せとけ。数多の眼鏡ヒロインを好きになったことのある俺にかかれば、大河も今日から最強の眼鏡ヒロインだ」
「……そのテンションはちょっとどう対処したらいいか困りますね」
「急に冷静になるのはやめような!」
落差で俺が馬鹿みたいになるだろうが。
内心でツッコミつつ、俺は大河と共にブルーライト眼鏡が並んでいるコーナーに向かう。これまで眼鏡ショップに入ったことは一度もなかったが、思っていたよりも遥かに眼鏡は種類が多いみたいだ。この中から選んで身に着けるとなると、眼鏡はもう立派なアクセサリーなのだと思えてくる。
考えてみれば、晴彦にしろ如月にしろ、眼鏡込みでオシャレな奴らだ。決して地味だとは感じない。
「如月先輩に色々と教えていただいたんです。フレームの形や素材……とリム。この三つが大きく印象を変えるそうです」
「ほーん」
「……気の抜けた返事ですね」
「横文字は苦手でな」
「普段の仕事できるユウ先輩はどこに行ったんですか」
「スタイリッシュに眼鏡を着こなすビジネスマンにはなれないみたいだな。……眼鏡って『着こなす』で合ってんの?」
「知りませんよ。ボケは自分で完結させてください」
「たまにはツッコミ役をやってくれてもいいんだぞ?」
でもまぁ、細かいことを言われても分からないのは本当だ。本当は顔の形とかから合うものを選ぶのが一番手っ取り早いんだろうが、そこまで理論的にやっても仕方ない。
俺は並んでいる眼鏡の中から、とりあえずブルーライトカット率が高めのものを選ぶことにした。
「これとかはどうだ? なんかオシャレそう」
「感想が雑ですね。……えっと、メタルフレームのアンダーリムですか」
「たぶん? 知らんけど、明るい色だし似合いそうじゃないか?」
フレームがグラスの下側にだけある眼鏡だった。ちなみにフレームは赤。とはいえ細めのフレームなので、あまり派手ではない。
おずおずと受け取った大河は、その眼鏡をかける。近くにあった鏡で位置を調整してからこちらに向き直った。
「どうですか?」
「――あ」
咄嗟に言葉が出てこなかったのは想像以上に印象が変わっていたからだ。
赤いフレームは彼女のブロンドヘアーとよく馴染んでいる。いつもにも増して知的に映り、一歳の年齢差が逆さまになるように錯覚した。
そのガラスの向こうにある瞳はどこか不安げで。
俺は慌てて、
「似合ってるよ」
と感想を口にする。
「……うん、めっちゃ似合ってる。大人っぽいし生徒会長っぽい。いいと思うぞ」
「あ、ありがとうございます」
大河は気恥ずかしそうに笑う。その笑顔もどこか大人びて見えて――ドキッとするのと同じくらい、寂しさも感じた。
面倒を見てきた後輩が成長することへの寂寥。
そんなもの、感じるのも烏滸がましいのだと思う。大河は出会った頃から今みたいにかっこよかったし、可愛かった。俺が育てたわけじゃない。
それでも、大人になった大河を前借りしているような気がして。
前借りした
「どうする? 最終的には大河の好みだと思うけど」
「これにします。ユウ先輩の顔を見たら、自信を持てたので」
「そうかよ」
眼鏡を外し、大河が少しあどけない笑みを零す。
その刹那に見惚れかけ、こほん、と咳払いをする。見惚れること自体は悪いことじゃない。でもそれで腑抜けた顔をするのは俺の沽券に関わる。
「じゃあ、買ってきます。少し待っていてください」
「おう」
めいっぱい先輩ぶって、レジへと向かう大河を見送った。
◇
眼鏡を買った後、俺たちは普通に買い物をして回った。本屋を見たり、服やアクセサリーを見たり……割とありふれたデートだったと思う。
特筆すべきことがあるとすれば、昼食のときだろう。どこに入るか迷っていたとき、大河がこんなことを言ってきた。
『あ、あの。できたらあまり臭いが気にならないところがいいと言いますか……』
言葉の意図は流石に理解できた。若干忘れかけていたキスの話を思い出してきょどった俺は悪くないと思う。
とはいえ神経質になりすぎても入れる店がない。結局俺たちは手頃なファミレスに入り、それぞれ適当に注文して昼食を済ませた。……食後、しれっとミンティアを食べているのを見てドキドキしちゃったのは内緒だ。
そうして日が暮れ始めると、
「……帰りに公園に寄ってもいいですか? うちの近くのあそこです」
と言い出した。
おそらくはそこで――。
大河の意図を察した俺は、ドギマギしながらも頷く。電車に揺られて田園調布の街に戻り、大河を家に送り届ける途中の公園に寄る。
茜色よりもやや暗さを帯びた公園。
駅前の公園にはよく人が集まっているけれど、ここはそうではない。大して遊具もないのだから当たり前だろう。つーかこの辺、やたらと公園ばっかりありすぎなんだよな。首都圏のコンビニかよ。
「あの、ユウ先輩。お話しておきたいことがあります」
「話?」
「弱かった私の話です」
斜陽に照らされたその頬には、やっぱり俺の知らない色が滲んでいる。
浮ついていた心はきゅっと掴まれて、ああ、と曖昧に頷いた。
「私はずっと、心のどこかで信じられていなかったんです。どれだけ今は一緒にいられても、私だけは皆と家族じゃないですから」
「…………」
「だからユウ先輩と結婚したいと思ってました。私も『百瀬』になりたい、と」
でも、と大河がどこか愛おしそうに言う。
「澪先輩が信じさせてくれました」
「澪が?」
「悩みを打ち明けた私にキスしたんですよ、あの人。無茶苦茶ですよね。……初めてだったのに」
「――っ」
かち、と今朝抱いた
大河は……俺だけじゃなくて、澪のことも好きになったんだ。友愛ではなく恋愛的な意味で。
「ユウ先輩のことも澪先輩のことも、私は大好きです。雫ちゃんだって、友達として大好き。その気持ちに優劣なんかありません。私は皆の特別になりたいです」
「そっ、か」
「私はもう大丈夫です。だから――今の私がキスしたいのは、不安になったからではありません」
とくん、と鼓動が鳴る。
真っ直ぐにこちらを見つめる瞳の奇麗さに息が止まった。
「好きだから、したいんですです。まだ答えを出してほしいなんて言いません。だけど、私だって年頃の女です。ユウ先輩がキスをしたって聞いたら――欲しくなっちゃいます」
熱を帯びた声。
それは、正しく恋する乙女のものだった。
きっと澪に影響を受けて。
更に雫にも影響を受けて。
大河は大河なりの恋を育てている。
俺が好きで、澪も好き。同じくらい雫も友達として好き。その全ての『好き』を同列に愛おしむような在り方は、普通ではない。
それでも俺は、大河の恋を奇麗だと思った。
「目、瞑ってください。今日は私からします」
「えっ……」
「ユウ先輩が答えを出せたら――そのとき、ユウ先輩からしてほしいんです。だから目を瞑ってください」
大河に望まれるまま、俺は目を瞑る。
だけど自分の気持ちとか、彼女たちの気持ちとか、そういうものからは目を瞑ったつもりはない。今だって向き合っている最中だ。そんな中でキスを受け止めるのは不誠実かもしれないけれど――今はその不誠実を呑みこもう。
その果てに俺なりの答えがあると信じて。
「いきます」
「おう、わか――んっ」
「っ、ご、ごめんなさい! 話してる途中に……」
分かった、と言いかけて唇が塞がれた。慌てて大河が言うものだから瞼を開けると、トマトみたいに真っ赤な顔がある。言うまでもなく、西日だけのせいじゃないだろう。
「う、うぅぅぅ……見ないでください恥ずかしいです」
「恥ずかしがる必要なんかないと思うぞ? 今のは俺が喋りすぎたのも悪いしな」
「で、でも! 私ががっついてるみたいじゃないですか!」
「それは……実際そうなんだろ? さっきの話を聞く限り」
「~~っ」
きっと、今の俺たちの鼓動は
恥ずかしくて胸がいっぱいなのと同じくらい、そのことが嬉しかった。
もしも大河と一緒に生きていくことになったなら。
こんな風に、二人で並んで歩いていくのかもしれない。横顔が大人びたり子供に戻ったりするのを見つめながら、一歩一歩不器用に進んでいくのだ。
その未来は、放課後みたいに素敵だと思った。
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