終章#05 絶対にキスするデート
かさついた唇をぺろりと舌で舐めかけて、いや、流石にキモイなと思い直す。誰かと話しているときにわざと舌なめずりするならともかく、野郎が一人で舌を舐めるのはな……。そういえば昔、乾いた唇を舐めていた俺に母さんが叱ってきたことがあった。
『ちゃんとリップを使わないとダメ。余計にかさかさして痛くなっちゃうわよ』
幼い頃は濡らしてるんだから渇くわけないだろと思っていたが、今なら母さんが言っていた意味が理解できる。経験則として、唇が切れて痛い思いをしたことが幾度とあるからだ。
コートのポケットに手を突っ込めば、入れっぱなしにしていたリップクリームが出てくる。一度立ち止まって唇に塗れば、ひりひりと浅く痛んだ。
が、その痛みを上書きするように、昨日の微熱が蘇る。
唇の先から溶けていくような気がして、かはっ、と白い息を吐き出した。
【大河:時間通りになりそうなので、先に待っていたりしないでください】
【大河:ユウ先輩に風邪を引かれてしまうと困るのは私なので】
ぶるると震えたスマホが、大河からのメッセージを報せている。
一晩明けて月曜日。
二日目となる今日は、大河の番だった。
「……流石すぎるんだよなぁ」
待ち合わせ時間の30分前。うっかり家を出てきてしまった俺は、RINEのトーク画面に苦笑せざるを得なかった。
別に家にいづらいわけでもないのに早く来てしまうのは、もう完全に俺の悪癖だ。
もしも大河が早く来ていたら、きっと体が冷えるから。
そんな過保護な心がこびりついて、ついつい先に来ようとしてしまう。
……ま、シンプルに大河と出かけるのが楽しみだからってのもあるんだけど。
「はぁ……ユウ先輩は本当に私の話を聞かないんですね」
ぼーっと駅で待っていると、呆れたような声が聞こえた。
振り向けば、むすっと不機嫌な顔の大河がいる。
「い、いや、今来たばっかりだから。誤差の範囲だって」
「そこで嘘ついても意味ないって分かりますよね? ほら、手を触れば――冷たいじゃないですか」
「……っ」
大河がポケットに突っ込んでいた俺の手を取る。両の手で右手を包み込むと、ほら、と咎めるような視線を向けてきた。
「ユウ先輩に風邪を引かれたら生徒会活動に支障が出ます。当然、私も困ります。というかそれ以前に、ユウ先輩が心配で仕事が手に付かなくなるかもしれません」
「お、おう……」
「……流石に最後のはユウ先輩の後輩として情けないのでありえませんが。とにかく、ユウ先輩は自分を気遣う心が足りなさすぎです」
分かりましたか?と詰め寄ってくる大河。
こういう真っ直ぐで頑固なところが可愛いんだよなぁ、と感じつつ。
俺は俺で、きちんと主張しておくべきだと思った。
「それは分かった。けど大河、俺からも言いたいことがある」
「……なんですか?」
「大河は最近、天然であざとすぎる。雫と大差ないくらい小悪魔な行動に出てるときがあるからな?」
「なっ……そ、そんなことありません!」
「あるからね? 流れるように手を包むのとか、そこら辺の男子にやったら即勘違いするからなっ!?」
先輩として言っておかねばならぬこともある。何せ大河の周りには大胆な奴ばっかりだからな。澪と言い雫と言い、男子高校生には劇毒すぎる。挙句、実の姉は冬星祭で恋人とキスするくらい肝が据わってるし……。
大河は出会った頃のように鋭く睨んできたかと思うと、ぷいっとそっぽを向いた。
「別に他の男の人にはこんなことしません。勘違いしないでください」
「……その一言が俺にめっちゃ効いてるってことも自覚してくれると嬉しいんだけどな」
「それこそ勘違いしないでいただきたいです。ユウ先輩への態度の全てが天然なわけないじゃないですか」
「え……?」
大河の口から飛び出した言葉にドキリとさせられる。
思わずまじまじと見つめてしまうと、顔を背ける大河の耳がほんのり赤く染まった。やがて観念したように俺の方に向き直る。
「私だって少しは計算してます。雫ちゃんほど上手くはできないですし、澪先輩みたいに自然体でドキドキさせられませんが――ユウ先輩を好きだって気持ちは負けてるつもり、ないので」
「~~っ」
「そういうわけなので、ユウ先輩。出かける前に私から宣言しておきます」
ぼそぼそとした口調から一転、大河は覚悟のこもった眼差しを向けてきた。
びしっと人差し指でこちらを指すと、顔を真っ赤にしながら絞り出すように言う。
「今日帰るまでにユウ先輩ともキスします」
「なっ……」
「どうしてもしたくないのであれば、マスクを買って付けてください。それがない限りはしてもいいってことだと……判断します」
あまりにも真っ直ぐな宣言に、とくん、と鼓動が跳ねる。
昨日の澪とのキスが頭によぎる。しかし、同時に大河とのキスに意識が引っ張られてもいた。
実のところ、昨日のあのキスのインパクトが強くて頭から消えないままだった。そんな状態で大河と向き合っていいのだろうかという不安もないわけではなかったのだ。
だが、大河の宣言によってひっくり返る。
――今日この後どこかで大河とキスをする。
そう言われるだけで、大河への意識が集中していく。彼女の唇に、身じろぎに、吐息に、キスの兆しを探してしまうのだ。
「ほんっと……雫とは別ベクトルであざといなぁ!?」
「し、強かだと言ってください! 元はと言えば私に少しも手を出そうとしないユウ先輩が悪いんですからねっ?」
「逆ギレ風味なのは酷くない!?」
大河があざといのは事実だと思うんだよなぁ。この子、ほんと可愛くてずるい。
顔の周りの火照りを自覚しつつ、んんっ、と咳払いをする。
「……と、とりあえず行こうぜ。大河がどこに行くのか楽しみだ」
「は、はい。……あの。コンビニか薬局、寄りますか?」
ちらちらと大河が上目遣いで様子を伺ってくる。
マスクを買うか、ってことだろう。にやけそうになる自分の頬に力を入れようとするが、どうしても緩んでしまう。
……可愛すぎる。
「な、なんですかその顔!」
「悪い悪い。大河が可愛くてつい、な」
「~~っ! どうして私の好きな人は意地悪な人ばっかりなんですかっ?」
「それを俺に言われてもな……」
と返して、まるで他の人がいるみたいな言い方だな、と思う。
雫や澪のことだろうか? 好きって言葉には友愛だって含まれる。二人とも大河をからかいそうだしな。
って思うのに、やっぱりモヤっとしてしまう。それはつまらない嫉妬に似ていた。
「……? ユウ先輩、どうかしましたか?」
「えっ、いや。なんでもないぞ」
「そう、ですか……?」
一日が始まる前からこんなかっこ悪い気持ちを吐露したくはない。
あくまで、俺が向き合うべき感情だ。
そもそも、俺も大河だけを想っているわけではない。たとえ大河が俺以外の誰かを想っていても責めるのは筋違いだ。つーか、付き合ってるわけじゃない今、大河の気持ちについてとやかう言う権利なんてあろうはずがない。
或いは、この感情は妹を想う兄の気持ちなのか。妹の恋愛感情にいちいち嫉妬する、ありふれたブラコン感情。この気持ちをえり分けるのは、まだ難しい。
「マスクはいらないよ。――さ、行こうぜ」
「…………はい」
色んな気持ちと向き合い、今日俺は――大河とキスをする。
この鼓動の加速は、正しく恋で在ってほしいと思った。
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