10章#35 轟雷嘶く
その朝、一通の手紙が届いた。
手紙に封をしている桜のシールには見覚えがあった。今読まなきゃいけない気がして、俺は朝の支度をよそに手紙を開けた。
読んで、ぼろぼろ泣いた。窓はつとつとと雨に叩かれている。どうやら空も泣いているらしかった。読み終わって、俺は呟いた。
「大馬鹿野郎」
だけど、まだ終わってない。
終わらせて堪るかよ。
◇
しとしとぴっちゃん、って。
童謡みたいに片付けるには、ちょっとばかし激しい雨が降っていた。いつかの動物園を思い出す。馬鹿みたいに雨に降られたのは、後にも先にも、あれが最後であってほしいものだ。あのとき風邪を引かなかったのはほとんど奇跡みたいなものだしな。
朝食も大河含めた四人で済ませると、俺は先に家を出た。三人は一緒に行かないかと誘ってくれたが、断る。彼女たちの表情が曇る前に、勘違いがないように俺は続けた。
「三人と行くのが嫌なわけじゃない。ただ、昨日から美緒と連絡がつかないんだ。RINEは既読スルーされてるし、電話にも出ない。怒ってるにしろ、何かあったにしろ、なるべく会いたいんだよ」
三人のおかげで自分の物語を紡ごうと再び決意することができた。だけど、迷子になりかけていた俺の拠り所になってくれた美緒がいなければ、そもそも今日まで歩いて来られなかったような気がする。
そういう意味でも、美緒はかけがえのない存在なのだ。
そんなこんなで、俺は一人、いつもの待ち合わせ場所に向かっていた。
『いつも』って言うけれど、日数にすればギリギリ二桁に届くか否か、といったところだ。にもかかわらず何日も通ったように感じるのは、それだけ美緒との時間が俺にとって宝物だったからだろう。
まさか美緒にもう一度会えるなんて思ってなかった。
心臓移植の結果、心臓に宿っていた意識が表に出て――なんて、あまりにもファンタジーが過ぎる。でも俺と美緒だけが共有していた記憶を知っている以上、嘘だと疑う余地はない。美緒の言葉を借りるのなら、奇跡だったのだ。
――だから俺は、ちゃんと向き合えていなかった。
そうまざまざと突きつけられたのは、雨に打たれている彼女を見たときだった。
「美緒っ!? 何やってるんだよ、傘は!?」
「……ああ、兄さん。おはよう」
「おはよう、じゃない! びしょ濡れじゃんか!」
いつもの待ち合わせ場所。
ノイズのように降り注ぐ雨の中、その少女はきゅいっと目尻を下げて笑った。テレビの画面を覆う砂嵐みたいに、彼女の心が見えなくなってしまう。その瞳は真っ黒。焦げ茶の髪は濡れて、いつもよりも黒に近く、烏みたいだった。
慌てて駆け寄り、美緒を傘に入れる。
タオルは……なかった。でも、このままじゃ体が冷えてしまう。文化祭のときとは訳が違うのだ。雨は冷たくて、何かを洗い流すよりも先に心を凍えさせてしまうだろう。
「美緒、一瞬でいいから傘を持っててくれ」
「……うん」
傘を受け取った美緒の手は、本当に冷え切っていた。手が冷たい人は優しいなんて言うけど、この冷たさは優しさじゃなくて寂しさだと思う。せめて哀しさには変えたくないから、羽織っていたコートを美緒に被せる。
「着込みすぎてちょっと不格好になっちゃってるけど……ま、美緒はそれでも可愛いから問題ないな」
「……急に何言ってるの? というか、これじゃあ兄さんが冷えちゃうよ」
「大丈夫。何せ、今日はいいマフラーを巻いてるからな」
「――っ」
くい、と首に巻いた赤いマフラーを美緒に見えるよう引っ張る。俺が言うまで美緒の視界には入ってなかったようで、美緒は微かに驚いた様子を見せた。
「そ、そっか。随分と派手だね」
「まぁな。けど、気に入ってる」
「……そか」
傘の外から雨の音がしていた。一人で差していても防ぎきれないくらいの雨脚だから、当然、相合傘をしていれば二人とも濡れていく。
「どうする? いったん家に帰って着替えるか? 流石に遅刻するだろうけど、そのまま行っても困るだろ?」
「……それだと、兄さんも遅刻するよ」
「一日くらい、どうってことない。美緒が風邪を引く方が大変だろ」
電車に乗らなければ月瀬家には戻れない。手段があるとすればうちに寄って澪から着替えを借りることだが……どちらにせよ、遅刻にはなってしまうだろう。その程度が変わってくるだけだ。
「ほら、帰ろう? こんなところにいつまでも突っ立ってたら体壊すぞ」
「…………行きたくない」
「え?」
「……学校行きたくない」
美緒は俺の手にしがみつき、弱々しく呟いた。
ざーざー、ざーざー、せっかく美緒が話してくれてるのに、雨が掻き消そうとする。うるせぇよ、黙ってろ。
「ねぇ兄さん。私をどこかに連れてって」
「どこかって、どこに行きたいんだ?」
「どこかはどこか。なるべく遠く――そうだ。お母さんの実家はどう? 電車で行けるし、お祖母ちゃんにも久々に会いたい」
まるっきり思いつきらしい提案だった。
だからこそ美緒らしくない提案だった。
「今からか?」
「今からだよ」
「雨だぞ?」
「雨だから」
「学校を休んで?」
「学校をサボって」
「美緒は行きたいのか?」
「連れていってほしいの」
俺に縋る美緒の手が震えてるのは、冷えてるせいか? それとも別の理由があるのか?
今の美緒の心が少しも見えない。心音を
ある雨の日、俺は少女を捜し回った。
別の雨の日、俺は先輩たちとドライブをした。
その時々で何かを見つけて、また、何かを見つける手伝いができたと思っている。じゃあこの雨の逃避行は、彼女のためになってくれるだろうか。
「ねぇ兄さん」
ダメ?とその瞳がこちらを映す。
俺は美緒のお願いを断れない。昔はそうだったけど、今の俺はそうじゃない。『美緒のお願いは断れない』なんて、断らない責任を美緒に押し付けているみたいだから。
美緒のお願いだから、ではなくて。
自分の意思で、美緒を連れていく。
「分かった。でもその前に、着替えよう。流石に冷えるし、制服でぶらつくわけにもいかないだろ?」
「……うん。けど、家にはお母さんが――」
「うちに寄ればいい。三人はもう家を出てる頃だから誰もいない」
進んだ先に何があるのかは分からない。何かがあるのかすら定かじゃない。逃避行の末に得るものが一日分の欠席と風邪っぴきだって可能性もある。
だけど、俺はこの手をもう離さないと決めた。
「行こう。どこまででも連れていくから」
轟々と雷が嘶く。
美緒の手を強く握った。
◇
百瀬友斗くんへ
初めて友斗くんに宛てて、手紙を書きます。本当は今までも相手が友斗くんかもしれないことは分かってました。知らんぷりしてて、ごめんなさい。
友斗くんって呼ぶのは変かな? でも最初は友斗くんって呼んでたんだよ。覚えてるかな。私のこと。昔、友斗くんに遊んでもらった臆病で体が弱い女の子。独りぼっちだった私に声をかけて、友斗くんは一緒に遊んでくれました。あのときからずっと友斗くんは私のヒーローなんです。
私は百瀬友斗くんが大好きです。
気付いてたかな? 気付いてないよね。友斗くんって凄く鈍いもん。私は幼稚園の頃から友斗くんのことが好きだったのに、気付かず美緒を紹介してくるし。私がヤキモチやくとか考えなかったのかなって感じ。友斗くんと疎遠になっちゃったのも、それが理由。今から考えると子供だなって思います。だけど友斗くんもちょっとは悪いと思う!
分かってると思うけど、小学校の頃、私は美緒の心臓を貰いました。私は本当に危ない状態で、もう死んじゃうかもしれないって何度も思ってね。もう一度友斗くんに会いたいってたくさん祈りました。美緒と出会えたのはそのおかげだったのかもしれません。だけど学校に帰ったとき、友斗くんは凄く哀しそうでした。美緒がいなくなって傷ついてたんだよね。何とか友斗くんを元気づけようって思ったけど、そのときには雫ちゃんが傍にいた。ショックだったなぁ。でも、友斗くんが笑ってくれるようになったのは嬉しかった。だから私はせめて隣にいようって決めました。
中学生になって澪が友斗くんの隣にいるのを見たとき、私は凄くムカムカしました。きっと美緒として、自分に似ている澪に嫉妬したんだと思う。そんなとき、美緒の声を聞きました。最初は驚いたけど、だんだん美緒とは仲良くなれた。同じ男の子を好きだからかな?
高校生になる頃、美緒が私の背中を押してくれました。それまでずっと暗かったし、あんまり見た目にも気を遣ってなかったんだ。でも美緒が私に勇気をくれた。友斗くんが知ってる今の私になれたのは、全部美緒のおかげです。
変かもしれないけど、私は美緒とずっと一緒にいたい。美緒と話す時間は凄く楽しい。美緒がどうかは分かんないけど、私は本当の姉妹みたいに思ってる。このまま二人で友斗くんの傍にいたい。友斗くんが困ったら私たち二人で支えてあげたい。やっと友斗くんの友達に戻れたんだもん。
だけど、美緒がいなくなっちゃいました。
何度呼んでも、美緒が出てきてくれないんだ。今まではギターを弾いてたら話せたのに、今はどれだけ弾いても出てきてくれない。私を乗っ取っちゃうのが怖いって言ってた。でも私は美緒がいない方が怖いよ。美緒が表で私が裏でも全然よかったのに、美緒はちっとも出てきてくれない。私、独りぼっちになっちゃった。
怖くて、情けなくて、こうして手紙を書いてます。友斗くん、私はどうしたらいいかな? 私は美緒と一緒にいたい。でもそれが許されないなら、せめて美緒に幸せになってほしいよ。だって私よりもずっと、美緒の方がもう一度会いたいって思ってたはずだから。
この手紙を読んだ友斗くんにお願いです。
私の中にいる美緒を呼んであげてください。抱きしめてあげてください。恋人になってあげてとは言わないから、兄妹として隣にいてあげてください。
その代わり、二人の未来は私が創ってみせるから。
この約束は必ず守ってね。もう忘れちゃダメだよ。
月瀬来香より
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