10章#09 あいさつ
「ねぇ、うち来ない?」
「なっ……」
兄さんは目を見開き、私の真意を探るようにこちらを向いた。私がにこっとはにかむと、兄さんの顔が困惑の色に染まる。もっと意地悪に焦らしたい衝動に駆られながらも、努めて澄ました顔で言った。
「だって、それが一番いいでしょ? 歩いて帰れない。だけど、泊まる場所のあてもない。私の家まで送ってくれるつもりなら、そのまま泊まっていくのが無難じゃないかな」
「美緒の家に泊まること自体が無難じゃないよな!?」
「妹なのに?」
「少なくとも、傍から見たら妹じゃないだろ!? ……それとも、周りに話すつもりなのか?」
なあなあで流れた話題が発掘される。
私は首を横に振った。
「ううん、流石にお父さんとお母さんに話すつもりはないよ。家族の前では『月瀬来香』で在り続けるつもり」
これは、冬休み中に悩んだことでもある。来香の家族はいい人だ。事情を丁寧に話せば、きっと分かってくれるだろう。
だけど、ううん、だからこそ。
あの人たちから大切な娘を奪うような真似はしたくなかった。
「そうか……だったら、泊まりに行けるわけないだろ。妹じゃなくて女の子の家ってことになるんだから」
「ヘタレ?」
「正常な判断だよね!?」
くつくつと笑えば、兄さんが困ったような呆れたような溜息を零す。
「あのな。美緒はまだ子供だから分かんないかもしれないけど、普通は異性の家には――」
「子供扱いしすぎだから! 私だってちゃんと成長してるもん!」
と慌てて返してから、これが兄さんの反撃だと気が付く。
むぅ……せっかくずっと主導権を握れてたのに。不服の意を睨んで伝えると、兄さんは得意げに肩を竦めた。
「ま、そういうわけだから。流石に泊まるのは――」
「ううん、泊まってもらう」
「っ、頑固だな……」
「やっと再会できたんだよ? こんなちょっと話しただけでお別れなんて、私は嫌だな」
「…………」
「それに、話したいこともあるの。これまでのこととかこれからのこととか、いろいろ」
真っ直ぐに兄さんを見上げる。
冗談を言っているわけじゃないことは流石に分かってくれたみたいだ。視線が宙を彷徨い、どうすべきか分からない子供のように頼りのない顔をする。
考えていることは何となく分かる。あの三人のことを考えているんだろう。もしも自分が私の家に泊まれば、あの三人を傷つけてしまうんじゃないか、って。その逡巡の中に、来香や私のこともほんの少し入っていてくれたらいいな、と思う。
このまま兄さんを迷わせてしまうのは本意ではない。
いつか兄さん自身で答えを出さなきゃいけないときが来るだろうけど、今はそうじゃないんだ。あの頃あなたが私の手を引いてくれたみたいに、私はあなたの手を握ってあげたい。
「兄さん、お願い。……私のわがまま聞いて?」
「――っ」
上目遣いで甘えるように言う。
あの頃、旅行や帰省をした夜はいつもこんな風に甘えていたような気がする。慣れない土地の夜を過ごすのが不安で堪らなくて、一緒に寝てもらった。
兄さんは私のお願いを断れない。
――少なくとも、『兄』でいる限りは。
「ったく、分かったよ! 泊まる、泊まらせてもらう!」
「やった。兄さんありがとう」
「あーもう。逞しく育ったよなぁ……」
「もともと私はこんな感じじゃない?」
「それはそう」
「迷いなく肯定されるのはなんだかなぁって感じ」
くしゃくしゃと後頭部を掻いた兄さんは、私の提案に乗ってくれる。
屈託が少しもないかと言えば嘘になるだろう。でも、今は私に付き合ってくれることにしたみたいだ。
うん、それでいい。
「じゃあ行くか。……あ、手土産だけ買って行きたいんだけど」
「ねぇ兄さん。そんなもの買って行ったらますます無難じゃなくならない?」
「そうは言ってもなぁ……流石に手ぶらってわけにもいかないし」
「どうしてそこだけ覚悟決まってるの? 彼氏として紹介してほしいならそう言ってくれていいんだよ?」
「そんなこと言ってなくない!? 妹がお世話になってる人たちなんだぞ? 挨拶するからにはやっぱり――」
「このシスコン!」
妹が弱点すぎないかな、この人。
我が兄ながらちょっと心配になりつつ、手土産を持っていきたいという兄さんを宥めるのだった。
……宥めきれずに駅ビルのケーキ屋さんでケーキを買うことになったけど。
◇
家に着くまでの道のりはずっと雪が降っていて、思っていたよりも体が冷えた。寒くて身を縮こまらせていると、大丈夫か?なんて兄さんが聞いてくる。
「過保護だなぁ」
「普通だろ。……体、そんなに強くないって聞いたし」
「大丈夫だよ。ここ数年はちっとも酷くなったことないから」
「それでも心配するのが兄ってものだからな」
「このシスコン! 大好き!」
「――っ」
そんなに心配するならさ、と無邪気なおねだりを口にしそうになる。
かさり、兄さんが持つケーキの袋が軽い音を立てた。
『手を繋いでよ』
言いかけた言葉を丁寧に飲み込んで、ほっ、と代わりに白い息を吐く。
少し浮かれすぎていたかもしれない。兄さんとこんな風に話せるのは夢みたいだし、来香だって私が遠慮して後ろめたく生きることは望んでいないだろう。
それでもやっぱり、普通の乙女みたいに無邪気な恋はできない。
今の私がすべきなのは、来香に代わって兄さんを守ること――それだけなんだ。
「もうすぐだよ」
「おう」
一駅分歩いたら、後はもうちょっとだけ。
空は厚い雪雲で覆われているから時間帯が分からない。駅前にある雪の積もり始めた時計を見て、もう夕方だと気が付いた。
やがて家に到着する。
それなりに大きい一軒家。赤い屋根は薄っすらと白く染まっていて、玄関の前の階段に雪が積もっている・
「ここか」
「うん。ちなみに、前に話してたおじいちゃんの喫茶店もすぐ近くだよ。歩いて1、2分くらい」
「ほーん」
以前、来香は兄さんにバイトを紹介する約束をした。
あの約束も私が代わりに果たそうと思う。まぁ、それは今じゃないけど。
「ただいまー」
とドアを開けてから少し大きめの声で言うと、お母さんが出迎えてくれる。おかえりなさい、と柔和に笑った後で私の隣に立つ兄さんに視線を遣った。
「ええっと、そちらは……?」
「はじめまして。百瀬友斗と申します。来香さんといつも仲良くさせてもらってます」
私が何かを言うよりも先に、兄さんが丁寧な口調で言う。
思わずそちらに目を向けると、真摯な表情でピンと背筋を伸ばしていた。紳士的な所作が様になっていて、ああ大人になったんだな、って不意の寂しさがこみあげてくる。
「ご丁寧にありがとうございます。来香の母です。……いつもありがとうございます」
「こちらこそ、娘さんにはいつも助けられてばかりで……」
お母さんは幼稚園の頃の兄さんを知っている。だからだろうか。兄さんへ向けられる視線にはどこか寂寥の色が滲んでいた。
だけど、その頃の話をされるのは困る。
私は二人の間に入り、事情を説明することにした。
「お母さん。今日蒲田で百瀬くんと遊んでたんだけど、雪で電車が止まっちゃったんだ。流石に歩いて帰れる距離じゃなくて……今晩、泊まっていってもらっちゃダメかな?」
もっとも、一応RINEで事情は説明している。お母さんは、もちろん、と首を縦に振った。
「来香のお友達ですもの。百瀬くん、ぜひ泊まっていってくださいね」
「……ありがとうございます。申し訳ないです」
「ううん、そんな風に思わなくていいんですよ。今日は旦那も職場から帰ってこられないみたいで。おじいちゃんも今は旅行中だから、夜ご飯が余っちゃうなって思っていたくらいなんです」
そうなんですね、と兄さんがはにかむ。
「それじゃあ、お言葉に甘えさせてもらってもいいですか?」
「ええ、もちろん! 男の子に食べてもらうの、初めてだからすごく嬉しいです。腕によりをかけますね」
「ははっ、ありがとうございます。すごく楽しみです」
お母さんと打ち解ける兄さん。私は嬉しくなった。
同時に胸に広がるのはこそばゆさと寂しさ。前者はまるで結婚の挨拶に来たみたいだなって意識しちゃったせいで、後者はこういうシチュエーションに慣れているように見えたからだった。
しれっとケーキも渡してるし、そういうのが様になってる兄さんはすっかり大人だった。生徒会で頑張ってる姿は来香越しに見てたし、分かってはいたんだけどなぁ……ちょっぴりソワソワしちゃう。
「あっ、そうだ。冷えるだろうと思って、お風呂の準備をしてあるんです。よかったらぜひ入ってください」
「ありがたいです。それなら……来香さんの後に――」
「私は後でいいよ、百瀬くん。着替えとかいろいろ用意しておくから先に入っちゃってくれる?」
「えっ、いや。でも……冷えただろ?」
「いいからいいから! 今日の百瀬くんはお客さんなんだし、遠慮しないで!」
私が言うと、兄さんは少し困ったようにくしゃっと笑う。
それじゃあ、と頬を掻きながら言った。
「先に入らせてもらう。……そういうことでいいですかね?」
「ええ、もちろん。じゃあ……来香、お風呂まで案内してあげてくれる? お母さんは夜ご飯の準備をしなくちゃだから」
「うん、分かった!」
お母さんがキッチンへ戻ろうとする。
そんな背中に、あの、と兄さんが一声かけた。
「こんなことを僕が言うのも変だと思うんですけど、どうしても言っておきたくて」
「…………」
「来香さんを大切に育ててくれて、ありがとうございます」
「「――っ」」
誠実で、だけど、だいぶ変で。
どう考えてもこのタイミングで言うべきことじゃないのに、兄さんの声には確固たる意志が乗っていた。
「……こちらこそ」
「…………」
「娘の傍にいてくれて、ありがとう。これからも娘をよろしくお願いします」
涙ぐんだお母さんの声は、温かいピアノみたいな響きを伴っていた。
ねぇ来香、見てる?
これじゃあ本当に結婚の挨拶みたいだよね。兄さんにはこういうところがある――ことくらい、来香なら知ってるよね。私と同じくらい昔から見てきたんだから。
「――はい、もちろんです」
私は今、妹としてこの人の隣にいる。
そのことを忘れてしまいそうになって、私は小さく首を振った。
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