10章#08 氷漬けの時計

 雪やこんこん、あられやこんこん。

 降っても降っても、まだ降りやまぬ。

 降りしきる雪の白さで真っ黒な弱さを隠して、灰被り姫みたいにあなたを攫ってしまいたいと思う。

 星も月も見えはしない、真っ白な舞踏会。冬の深い夜に紛れて、哀しみとか劣等感とか寂しさとか、兄さんが抱える全てが儚く消えればいいのに。


 そのとき、ぱっ、と魔法が解けて。

 ガラスの靴を拾うのが、私でなくてだったらいい。

 そんな風に思ってしまう時点で、私は兄さんのヒロインにはなれないんだろうな。だから恋人ではなく妹として、傍にいようと思うんだ。


 私は兄さんの手を引いて、カラオケショップを出た。

 傘を差して屋根のないところへ踏み出そうとして、ぼーっとしている兄さんに気付く。何か物思いに耽っているような顔だった。

 そうだよね、と自分の鈍さに唇を噛む。

 私はさっき、兄さんに選択を強いた。恋人としてのあの三人と妹としての私。卑怯な二者択一は、兄さんに罪悪感を与えたはずだ。


「兄さん?」

「っ…わ、悪い」

「ううん、何も悪くないよ。……三人のこと、考えてた?」

「――っ」


 図星だ。

 兄さんの嘘なんて見れば顔を見なくたって声を聞くだけで分かるけど、今回は聞く必要さえなかった。だって、兄さんはそういう人だから。

 困ったように顔をしかめる。それから申し訳なさそうに視線が揺れて、やがて俯いた。


「そんな申し訳なさそうな顔されると、むしろこっちが困っちゃうよ。兄さんの好きな人なんでしょ? だったら、私も大好きだよ。むしろ兄さんの恋バナ聞きたいって思っちゃうな」

「……へ?」

「もう! 兄さんってば、私の話、聞いてなかったの? 今の私は妹だよ。兄さんのことを、お兄ちゃんとして好きな妹。あの頃とは違うんだから!」

「そ、そう、だよな?」


 言葉とは裏腹に、兄さんはあんまり理解していない様子だった。目をぱちくりとさせて、ちょっぴり間抜けな顔をする。

 そういう顔、かわいいな。大好き。


 私はぴょんっと兄さんの隣に寄って、屋根の下で相合傘をする。

 まだ雪に降られない傘はまるっきり晴れ空みたいだった。


「いつまでも『将来はお兄ちゃんのお嫁さん!』なんて妹が言い続けると思ってるなら、それは幻想なんだからね」

「~~っ、そ、そうだよな……はは」


 恥ずかしそうに兄さんが顔をそむけた。熟れたトマトみたいに頬が赤いのは、寒さだけのせいじゃないだろう。

 ばっと傘から抜け出そうとする兄さんの腕を、私は茨姫みたいに絡めとる。


「って、だけじゃないけどね」

「は?」

「え~? 兄さん、私の気持ちをその程度だと思ってたの?」

「い、いや、それは……だって美緒が――」

「ふふっ、冗談」

「へっ?」


 腑抜けた可愛い声が兄さんの口から零れる。

 私はきゅんってしながら上目遣いで続けた。


「ちゃんと好きだよ。キス、したでしょ?」

「お、おう……」

「だけど、妹としての好きの方がおっきいんだ。兄さんに他の好きな人ができたなら、その子たちの話を聞きたい。今の兄さんのこと、たくさん知りたい」


 だからね、と相合傘の下で言う。


「私といるときに他の子のこと考えちゃっても、自分を責めたり申し訳ないなって思ったりする必要はないよ」

「……美緒」


 ここまで言っても、自分を責めることをやめはしないだろう。たとえ頭では理解しても、心の奥底でうじうじと責め続けるに決まってる。

 私にできるのは兄さんの傍にいることだけだ。

 ――少なくとも、兄さんに対しては。


「ま、そういうわけだからさ。とりあえず行こ?」

「……だな。傘、持つよ」

「相合傘は続けてくれるんだ……?」

「仲良し兄妹なら普通だろ?」


 にっ、と作り笑いの兄弟みたいな笑顔を繕う兄さん。

 空元気でも、元気になってくれれば今はそれでいい。「うん」と私は弾けるように返して、兄さんに傘の柄を渡す。


「凄い雪だよね。寒いなぁ」

「そうだな。マフラーとか手袋とか、色々持ってきてないのか?」

「うん。これが重くて」


 言って、私はギターケースを兄さんに見せる。


「あー、なるほど。確かに重そうだ」

「そうなんだよ。アコギ持ってきちゃったから余計に重くって」

「冬星祭のときはエレキだったよな? どっちも弾けるのか?」

「うん。といっても、来香のおかげだけどね」


 ギターの練習をしていたのは私ではなく来香だ。

 あの子は私と話すために、ううん、純粋に音楽が好きだからギターを弾き続けた。


『ねぇ来香。せっかくこんなに上手なんだし、どこかで披露してみたら?』

『えー? これくらい、ちょっとやってればできることだもん。『こんなことできるんだぞドヤァ』って威張るには足りないよ』

『そこまでは言ってないからね!? ……でも、私はそれくらい凄いことだと思うんだけどなぁ』


 こんなやり取りをしたことがある。本心から、来香はすごい女の子だと思った。才能は間違いなくあっただろう。だけどそれ以上に、来香は誰よりも全力で生きている。生きていることを思いっきり楽しんでる。


 ――だから、生きることそのものみたいな演奏ができる。


 冬星祭の有志発表に申し込んだのだって、私がしつこく提案したからだった。

 なのに、来香はいなくなっちゃって。

 来香の身体に染みついた技術は、まるでオルゴールみたいにひとりでにギターを鳴らす。


「俺が持ってもいいんだけど……大切なものだよな、きっと」

「……うん。これは私が自分で持ちたいな」

「だよな。じゃあ、なるべく冷えないうちに帰ろう」

「うん」


 ああ、と心をわれた気分になる。

 容易く私の気持ちを見抜いて、気遣ってくれる優しさが好き。どうしてあなたにはそういうさりげない優しさが見えないんだろう?


 屋根の外に出れば、じゃり、と雪の積もったアスファルトが変な感触を返してくる。

 ときどき肩がぴったんこする。ぶつかりはしなかった。

 街はどこか忙しない。傘の下にいる私たちだけが暢気で、お菓子の家に帰ろうとしてる兄妹みたいだった。


「なぁ美緒」

「んー?」

「さっきは妹としてって話してたけど、これからはどうするんだ? 俺たちが兄妹だった、なんて話してもしょうがないだろ?」

「そうだね。兄さんに変な性癖が芽生えたって思われちゃいそう」

「……美緒の口からそういう台詞が出るとびっくりするな」

「えー、なんでー? 『性癖』って別にえっちな言葉じゃないよね?」

「そうなんだけど……」

「自分はセフレがいたくせに、妹には清楚を求めるの?」

「うぐっ」


 兄さんが澪さんとそういうことをする関係だったことは、さっきカラオケで聞いた。流石にびっくりして上手く呑み込めなかったけど、澪さんに私を重ねてたと言われて納得もした。確かに、澪さんはあの頃の私の面影がある。兄さんが言うには、澪さんも半分だけ血が繋がってるのだとか。


 って、今は澪さんのことはいい。

 ばつが悪そうな兄さんを見て、くすくすっと私は笑みを零す。


「兄さんと話すの、やっぱり楽しいなぁ……ついつい、からかいたくなっちゃう」

「美緒ってこんな感じだったっけ!?」

「知らないよーだ。兄さんが勝手に思い出の中で私を美化してたんじゃない?」

「それは……まぁ、否めないだろうけど。それにしたってテンションが高いっていうか、ふわふわしてないか?」


 ……すぐ気付いちゃうんだよなぁ。

 私が何も言えずにいるのを怒ったと思ったのか、兄さんは慌てて言葉を続ける。


「あ、でも最近はこんな感じだったし、全然嫌ってわけじゃないぞ。ただ、今の俺は美緒のことも月瀬のこともちゃんと知れてない。知らないまま傷つけるのは嫌だから――」

「知りたいんだ? 私たちのこと」

「聞かせてくれるなら、知りたいって思ってる」

「平気な顔でそういう変なことを言えちゃうのが兄さんらしいよね」

「しょ、しょうがないだろ」

「うん、しょうがないよね」


 兄さんに知ってほしい。

 だけど、あの子は全てを知られることを望まないだろう。悲しませちゃうから、って。そんな風に言うはずだ。

 それでも、ほんの少しは話したい。

 ちょっとくらいはいいよね?


 そんなことを考えている間に、私たちは駅に到着していた。

 人がごった返す改札の上の電光掲示板には、周囲の騒がしさの理由が書いてある。


 ――運行休止


 兄さんもその四文字を見つけたのだろう。

 困ったようなその横顔を見ながら、これも来香の掛けた魔法なのかな、なんて思った。


 そうだよね、来香。

 舞踏会はまだ、終わってない。


「……美緒の家って、ここから歩ける範囲だよな。送ってくよ」

「私はそうだけど。兄さんはどうするの?」

「歩いて帰――」

「るのは無理だよ。風邪ひいちゃう。本気で言ってるなら怒るからね?」

「…………ネカフェにでも泊まる。一晩ぐらいならいけるだろ」

「って考えるの人、たくさんいそうだけどなぁ。部屋とれると思う?」

「き、気合で」

「兄さん、そういうのよくないよ」


 昔みたいに叱ると、兄さんの背中が小さく丸まった。

 しょうがないなぁと笑いながら、私は兄さんの冷たい手を握る。


「ねぇ、うち来ない?」

「なっ……」

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