10章#06 散華

 クリスマスが近づいたその日。

 彼は本当に調子が悪そうで、ずっと上の空だった。

 まるでヒーローが負けてしまったときみたいに。


「百瀬くん、ちょっと調子悪い?」

「え? いや、体調は別に――」

「あたしが聞いたのは体調じゃなくて調子だよ。心の調子、あんまりよくないでしょ?」


 もしも彼が夜に迷い込んだなら。

 そのときは、あたしが導いてあげると決めた。顔を逸らす彼を追いかけて、あたしは彼をじっと見つめる。


「……なんだよ?」

「声がツンケンしてる。あたしが言ったことが図星だった証拠じゃないかなぁ」

「…………そんなことない。強いて言えば、ちょっと疲れてるんだよ。色々とやらなきゃいけないことがあるからな」


 何も言いたくなさそうに言葉を突き返した彼は、すぐさま自己嫌悪で苦しみ始める。そんな辛そうな顔をさせたくなくて、あたしは言葉を探した。

 ねえ、どうしたら彼を導いてあげられる?

 答えてよ、美緒、あたしだけじゃ、主人公にはなれないんだから。


 ――それでも美緒は目覚めない。


「はあ。もういいよ、百瀬くん。別に答えてくれなくてもいい。あたしたちなんて所詮、友達だもんね」

「だから、答えることなんてないんだって。ただちょっと疲れが溜まってるだけだ。……ほら、練習するんだろ?」


 答えてよ、と胸を押さえながら語りかける。

 でも、心臓はただ動くだけ。大切な想いをしまった宝箱だったはずのそれは、血を送り込む臓器に成り下がっていた。


「今の百瀬くんには絶対告白されたくない。告白されたってキュンキュンしないし、そんな演技もできないよ」

「っ……別に、それならそれでいいんだ。テキトーに流してくれればそれで――」

「そんなのでいいの? 大切な高校二年生の冬星祭なんだよ? 入江会長は色んなところを回って、頑張ってる。如月さんとか一年生の子たちもミスターコンを成功させるために準備してる。それに――霧崎先輩にとっては、最後の三大祭じゃん」


 何を言ってるんだろう。

 こんなことを言っても、彼を導いてはあげられないのに。


「いつが最後になるかなんて分からないんだよ。だからこの一瞬を大切に、いつだってベストを尽くさなきゃダメだって思う」

「……だったら演技してくれ。俺も大根なりに頑張るか――」

「それは無理だよ」


 彼に言ってるのか、それとも美緒に言ってるのか、自分でもあやふやだった。

 それからあたしは、やっとの思いで見つけた道標を頼りに彼への言葉を紡いだ。弱さを分けてよ、と。

 ずっと傍にいたあたしから言える、彼と美緒への言葉だったように思う。


「――以上、友達からのアドバイスでした。今日はもう告白って感じでもないし、お開きにしよっか。それとも、今の話を踏まえて、あたしに色々と相談してくれちゃったりする?」

「いや、もう充分相談に乗ってもらったよ。後のことは、また別に相談すべき相手がいるから。ありがとな」


 でも、やっぱり届かなかった。

 彼はあたしに弱さを分けてくれず、美緒も帰ってこないまま、冬星祭がやってきた。



 恙なくお祭りは進んで、呆気なくミスターコンが始まる。

 舞台で鮮烈なキスをする霧崎先輩と入江先輩の姿は、真っ赤な太陽みたいに眩しかった。


「あれに勝つの、無理じゃね?」


 うん、と頷いちゃいそうだった。

 あたしだって想いの長さでは入江先輩に負けない。だけど、想いの長さなんかに意味はないのだと思う。長さだけじゃない、強さも深さも意味はなくて。じゃあ、いったい何が恋の成就を決めるんだろうか?


「もし勝ちたいなら、百瀬くんも心を込めるしかないね」

「心を込めるって、好きになれってことか?」

「そうだよって言ったら、百瀬くんはどうする?」


 うっかりオウンゴールするみたいに、この恋が叶ってしまえばいい。

 なのに彼は、ぽかんと間抜けな顔をする。あーあ、まだあたしのことを女の子だって思ってくれないんだ。


「なーんて、冗談だよ。愛を込めて、とは言わないってば。あの三人が特別なのは知ってるし、あたしだって百瀬くんに好きになられても困っちゃうもん」


 でもむしろ、とあたしは思った。


「好きにならないで。もしそうなっても、気のせいだよ」

「またそのゲームかよ!? ほんっと好きだな!?」


 どうせあたしはいなくなるから。

 ようやくカサブタになった彼の傷を抉りたくはない。友達のまま、友愛を向けてもらえればそれでいい。


 そうして始まった特別パフォーマンスは――。

 あたしを、私を、変えた。


「来香、待ってくれ」

「……嫌だよ。友斗くんが他の女の子に好きになってもらうの、見てて辛い。あたしに気付いてくれないのが、辛い。『気付かないでって祈らなきゃいけないのが……苦しい』」

「来香……?」


 彼の作った原稿は、確信犯かと思うくらいにあたしの本音をなぞっていて。

 自然と、の本音も零れていった。


「友斗くんは、あたしのことを好きにならない。あんなに素敵な子に囲まれてるんだもん。あたしなんかを好きになる理由が見つからないよ」

「っ、違う。理由とか、そんなの関係ないだろ。ずっと傍にいた。一緒にいる時間の分だけ、俺は――」

「そんなの、これから友斗くんがあの子たちと過ごせる時間に比べたらほんのちょっとだもん」


 とくとく、と速まる鼓動。

 ずっと聞こえなかった私の声と、ずっと聞こえていたあたしの声が重なる。


「『だから――好きにならないで。そんなの、勘違いだよ』」


 あたしはすぐに死ぬから、好きにならないでほしかった。

 私はもう死んでいるから、好きにならないでほしかった。


「『きっと友斗くん兄さんは、あたし来香みたいに思ってるだけ』」


 ステレオな呟きは、きっとモノラルで出力される。


「――それの何が悪いんだよ!」

「『…………全部だよ。あたしは今のまま友斗くん兄さんといるのが辛い。ずっと傷ついてるって、気付いてる?』」

「気付いてないし、これからも気付けないと思う」

「『だったら――』」

「それでも俺は、来香に傍にいてほしい。妹でも彼女でも、何でもいい。俺は来香が好きなんだ!」


 ぎゅっ、と彼があたしたちを捕まえる。

 男の子になったんだな、と強く思った。あたしたちが知っている頃よりもずっと、ごつごつしていて、おっきいから。


「『っ、……友斗、くん』」

「俺と一緒にいて傷ついてくれ。傷ついた分だけ、俺に癒させてくれ」

「『――っっっ』」

「俺のせいで傷つく来香のヒーローになれるなら、人生だって差し出すよ」


 パフォーマンスだって分かってる。

 つーっ、と涙が頬を伝う。人魚姫が泡になってしまうみたいに鼓動が弾ける。

 彼の方を向く。顔の近さが、更に心音を速めた。


「今まで一緒にいてくれて、ありがとう」


 ずるい。

 ずるいよ。

 あたしたちは、ヒロインじゃないはずじゃん。あなたの周りにはもう三人もヒロインがいて、この物語にあたしたちの居場所はないでしょ?


 なのに…なのに……っ。

 そんな風に優しくされたら、


『――我慢したくなくなるよ満たされちゃうよ


 舞台袖に引っ込んでいく彼を見送りながら、私とあたしが食い違った。

 美緒の声が聞こえたことが堪らなく嬉しい。

 もうずっとお別れなのかもって思ってたから。

 

『ねぇ美緒。私はもう、満たされちゃった』

『え……?』


 冬星祭が進んでいく。

 ギターを準備しながら、私は美緒に話しかける。


『演技だって分かってるよ。だけど、さっきの告白であたしの恋は報われちゃったよ。好きって言ってもらえたから。抱きしめてもらえたから』

『……だから、どうしたの? ねぇ、変なこと考えてないよね?』

『あはは。やっぱりあたしたちって、もう二人で一人なのかもねー。考えてること、バレちゃってるか』

『来香!』


 来香が叱るみたいに言ってくる。

 あたしはギターの弦を指の腹で撫で、そっと祈るように目を瞑る。


『あたしは幸せ。本当は百瀬くんに何も言えずにお別れするはずだったのに、ずっと傍にいられた。あるはずのない時間を貰って、抱きしめてもらえた』

『だからっ、それがどうしたの!? 急におかしいよ……!』

『あたしの命、美緒が貰ってくれない?』


 生きたい、って思ってた。

 今も死にたいと思っているわけじゃない。


『考えてたんだ。こうして美緒と話せる意味。……ううん。あたしが美緒の心臓を貰った意味』

『そんなの、意味なんてあるわけない!』

『あるよ。あってほしい。あたしの命は、美緒と百瀬くんをもう一度結ぶためにあったんだな、って――そんな風に思いたいから』


 あたしの恋を叶えようと手伝ってくれた美緒は、今もなお、百瀬くんのことを第一に想ってる。だから時折、美緒はあたしを乗っ取るみたいに表に現れた。

 美緒はそのことを悪いように言うけれど、あたしはそうは思わない。死んでも続く恋だなんて、とても素敵なことだと思うから。


 でも美緒はいい子だから、あたしを乗っ取ってしまうことを恐れた。美緒が消えてしまったあの日からあたしの心にはぽっかり穴が空いて、苦しくて堪らなかった。


 そんな美緒の目を覚ましたのは百瀬くん。

 王子様のキスが眠り姫を起こしたのだ。

 だから、


『これからは美緒が月瀬来香になってほしい。美緒なら大丈夫。あの三人にだって負けないよ』

『っ、どうして? いなくなるべきは私なのに……っ』

『違うよ。いなくなるべきとか、そういうことじゃない! あたしは――幸せになってほしいんだ。美緒と百瀬くんに』


 この世界で一番大切な二人に結ばれてほしいって思うことの何が悪いの?

 澪も悪い子じゃない。雫ちゃんだってそうだ。入江さんのことも、いい後輩だなって思っている。

 だけどそれでも、あたしは百瀬くんに美緒を選んでほしい。

 幼馴染として、付き合いが長い子を応援したくなるさがなのかもね。


『正直に言っちゃうと、最初は美緒のこと嫌いだった。だって幼稚園の頃、あたしから百瀬くんを盗ったのは美緒だったから』

『――っ』

『でも美緒はたくさんアドバイスしてくれたよね。臆病でいっつも一歩踏み出せないあたしの背中を何度も押してくれた』

『そんなことは……』

『あたしは美緒のこと、家族みたいに思ってる。妹っていうよりお姉ちゃんみたいだったけど、一応年齢的には妹ってことになるよね?』


 美緒の哀しい気持ちがたぷたぷと伝わってくる。

 ごめんね、ごめんね、と。背中をさするようにあたしは言った。


『お姉ちゃんからのお願いだよ。百瀬くんを幸せにしてあげて。……百瀬くんと一緒に、幸せになって』

『…………』

『そんな美緒なりのハッピーエンドに、あたしの初恋も連れて行ってくれたら嬉しいな』


 身勝手だろうか。うん、きっとそうだ。でも今じゃなきゃダメだって思う。これから二人でよく話し合って答えが出るわけじゃないし、今日を逃したら手遅れになる。そんな直感があたしを動かしていた。


『頑張れ、美緒』


 待って、と美緒が言う。

 あたしは待たず、代わりに美緒の背中をぽっと押した。


 ――やれるよ、美緒。

 美緒なら澪にも、雫ちゃんにも、入江会長にも負けない。


 あたしの命をあげるから、きっとハッピーエンドに辿り着いてね。



 ◇

 

 SIDE:美緒


 舞台袖には、ギターと私だけ。どれだけ耳を澄ませても、来香の声は聞こえなかった。泣きじゃくりたい寂しさがこみ上げてくるけれど、同時に『ああそうか』と納得もする。私が勝手にいなくなったとき、来香もこんな風に感じてたんだね。


『あたしの命、美緒が貰ってくれない?』


 来香は本気なのだろうか。演奏が終わったらひょっこり出てきて、いつもみたいに楽しく二人で話せたりしないんだろうか。

 ――分かってるよ、ありえないってことくらい。

 だけど、すぐには割り切れない。ぽっかり穴が空いた心を覗いていると、舞台からマイク越しの声が聞こえてきた。


「でも同時に明日は、私たちのライバルの誕生日でもあるんです。どんなライバルだと思います? ――って、聞くまでもないですね。そうです。恋の、ライバルです」


 そこにいるのは、三人の女の子ヒロイン


「そのライバルは、私たちの好きな人の心をぎゅって掴んでて。でも、諦めるつもりはちっともないんです。だから今日のこのステージは、好きな人へのプレゼントであると同時に、そのライバルへの挑戦状だったりもします」


 三人が見つめる先には、おそらく兄さんがいる。

 魔法をかけるように、プリンセスたちは言った。


「心を込めて『好き』を歌います。初恋になんて負けないって……そんな想いを込めて」


 音楽が流れ始める。

 照明の色が変わり、絵本みたいに世界が変わる。


 三人が歌うのはクリスマスソング。

 元気のいいソプラノボイスが、キラキラ星みたいに瞬いて。

 楽しげでひと際伸びのいい声が、踊るように夜を紡いで。

 生真面目なアルトが、きちんとペースを守って進む。


 ――負けられない。


 私は、三人の舞台を見ながら強く思った。

 私の恋は私だけのものじゃない。来香の恋も、ちゃんとハッピーエンドに持っていくんだ。だったら、いつまでも立ち止まってはいられない。まして振り返るなんて絶対ナシだ。


 彼女らと交代して舞台に立つと、そこは完全なるアウェーだった。

 丁寧に紡がれたラブレターに酔いしれて、甘い聖夜を興じている。


 ふざけるな。

 聖夜? クリスマス?

 そんなの、私が我慢する理由にならない。


 今日は来香の誕生日で、明日は私の誕生日。

 その“特別”、全部私たちに捧げてもらうから。


 ――ギュィィィィィン


 私を聴け、とギターを音を放つ。何せ長らく来香と一つだったから、意識せずとも指は華麗に踊ってくれた。

 速く、速く、もっと速く――。

 この一瞬を少しでも多く刻み付けるために。


 私を歓迎していない人だっている。そうだよね、知ってる。最高の余韻をぶち壊したのは私だ。

 だから代わりに、私が魅せてあげる。


 すぅ、と吸って。

 お姫様より美しい魔女の音色を響かせる。

 彼女たちのラブレターは、私への挑戦状でもある。なら、堂々と受け取るよ。まぁ、ハッピーエンド寸前の彼女たちは気付きもしないかもだけど。


 ねぇ兄さん。

 さっきのステージを見て、もう恋しちゃった?

 もしそうだとしても……そのドキドキ、私の心音で掻き消してみせるから。


「聴いてください――『Goodbye Youth』」

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