10章#05 遠い月

 彼と屋上で話した日からあたしたちの境界は曖昧になっていった。

 ふとした瞬間に入れ替わる。

 そんなことが起きるようになっていたのだ。


 といっても、あたしと美緒の人格に大きな乖離があるわけではない。あたしは美緒に影響を受けているし、逆に美緒もあたしに影響を受けている。あたしたちはいつの間にかそっくりな別人格になっていた、というわけだ。


 だから授業中に入れ替わる分には問題なかったし、彼の前でもボロを出さずに済んだと思う。ま、ボロを出したとしても『変だな』と思われるだけだろうけどね。


『このまま、いよいよ二重人格少女になっちゃうのかな?』

『来香はどうしてそんなに軽いの? 私に乗っ取られてる自覚、ある……?』

『えっ、あたしどうして叱られてるの?』

『危機感がないからでしょ!』

『危機感、持つ必要あるかなぁ……』


 美緒が言わんとしていることは分かる。確かに、あたしが表に出ない時間は長くなっていた。日増しに『あ、引っ込んでるのってこんな感じなんだ』って表に出ていないときの感覚に慣れてきてもいる。


 別にそれでいいじゃん、と思う。

 二重人格上等だ。心臓移植をすると人格が変わるって話を都市伝説のテレビで見たこともあるから、あたしにもそんな日が来るのかも?とは思ってたし。


『むしろ美緒はもっと表に出るべきだと思うよ? そうすれば百瀬くんとも話せるし、平等じゃない?』

『っ……兄さんと会えるのは嬉しいけど! でも私は――』

『あっ、1日ずつ代わりばんこで出るのは? 美緒の気持ち、あたしも分かるからさ。あたしだけが百瀬くんと一緒に過ごすなんて不公平だよ』


 美緒がおかしくなったのはそのときだった。

 あたしを乗っ取った美緒が、ギュィィィン、と痛々しいギターを鳴らす、指先が弦に傷つけられて、じんわりと涙が滲んだ。


『来香の馬鹿。私はもう、死んでるんだよ。私の心臓は来香のものになったの。私の声なんて、ただの幻聴なんだから』


 美緒があたしに告げた――その翌日だった。

 昼休みの喧噪から逃げるように生徒会室に向かうと、彼もまた、同じように逃げてきていた。変なところでお揃いになれたことが嬉しくて、あたしは二人っきりの時間を満喫する。


 ……はずだったんだけど。

 気付けば彼は、くぅ、くぅ、と眠ってしまっていた。


「子供みたいな顔だなぁ」


 ふありと頬が綻んで、暖炉がある部屋みたいな柔らかい記憶が蘇る。

 あれは――幼稚園の年中さんのときに行った『お泊り教室』。その頃は男の子と女の子で部屋が一緒だったから、あたしは彼と隣同士のお布団で眠った。


 そして、


 ――ちゅぷり


 眠った彼にあたしはキスをした。

 あんな一方的なキスが彼の初めてになるわけないから、これはあたしだけのファーストキス。


「お菓子、今渡しちゃおっかな」


 寝顔をずっと見ているのも気が引ける。

 あたしは放課後に渡そうと思っていたお菓子を取りに教室へ行き、またすぐ生徒会室に戻った。まだ彼は眠ってる。つんつん、とほっぺをつつくけど、なかなか彼は起きない。


『ねえ美緒。今なら寝顔、見放題だよ? ちょっとくらい悪戯してもバレないんだよ?』


 話しかけるけど、美緒からの返事はない。

 まるで眠ってるみたいだ。

 もしそうなら……夢で彼と会えてるといいな。せっかくのハロウィンなんだ。それくらいの奇跡があってくれてもいいはずだ。


「ん、んぁ……」

「あっ、やっと起きた! そろそろ昼休み終わっちゃうよ」

「月瀬? ……昼休み?」


 やがて彼は目を覚ました。

 どこか呆けた様子の彼と話して、お菓子も渡せて――その日のあたしは、浮かれていた。前日の美緒の言葉をすっかり忘れて。


『ねぇ来香』


 家に帰ると、美緒があたしに話しかけてきた。

 今日は全然美緒が出てこなかったから心配だったけど、こうして話せるなら大丈夫だ。ほっと胸を撫で下ろしかけていたあたしに、美緒はあっさり告げた。


『私、いなくなるね』

『え……?』

『本当は、私はもうずっと前に死んでるんだよ。それなのに来香の中で生き続けてる。こんなの間違ってるから、今日で終わりするって決めたの』


 美緒は一方的に言う。

 一本一本、ギターの弦が切れていくみたいだった。


『待ってよ。あたし、美緒と一緒がいい! だって、あたしたち二人で恋してきたじゃん。どうして今さら……』

『勘違いしないで、来香。今の来香が生きているのは、私の心臓を受け取ったからかもしれない。でも、来香の気持ちは私のおさがりじゃないでしょ? 来香がずっと、宝箱にしまってきた気持ちじゃないの?』

『――っ』

『来香のおかげで、私は兄さんにもう一度会えた。それだけでよかったのに……欲を出しすぎちゃったんだね。ここまでズルズル来てた』


 だからね、と言いながら美緒はあたしから遠ざかる。


『今までありがとう。ばいばい』


 その日、あたしはまた独りぼっちになった。



 美緒がいてもいなくても、あたしはさほど変わらない。当然と言えば当然だった。皆はあたしの中に美緒がいることなんて知らないし、入れ替わってても気付かないくらいなのだ。


 くるくる、くるくる、自転車を空漕ぎするみたいに日々が進む。

 生徒会の仕事を覚えて、修学旅行の準備をして、彼と過ごせる時間が増えたことを喜んで……。


 変わったことは二つあった。

 一つはゲームをしなくなったこと。時間がないというのもあるけれど、それ以上に面白く思えなくなっていた。もともとは美緒の趣味がうつったみたいだしな、と考え始めたら悲しくなって、コントローラーを持つのをやめた。


 もう一つはギターを弾かなくなったこと。どれだけ弾いても美緒と話せなくて、独りぼっちを余計に痛感するだけだったから、弾きたくなくなった。


 そうして訪れた修学旅行の日。

 彼が休んだと聞いてショックだった。おまけに『話があるから』と呼び出されたりもして、気分が沈んだ。いつもなら美緒と二人で愚痴って発散するその感情は、濁って沈殿していく。


 綾辻さん……ううん、澪とも仲良くなれた。

 きっかけは告白されてるのを見られちゃったことだけど、澪は想像よりも面白くて、普通に友達になりたいと思った。

 でも、同時にすごく寂しさがこみ上げてきた。

 澪に対して抱いていた嫉妬はあたしじゃなくて美緒のものだったんだな、と思い知らされている気がしたから。



 美緒がいないまま、12月がやってきた。

 ミスターコンの特別パフォーマンスの相手役に選ばれたとき、届かないな、と思った。雫ちゃんも澪も、それから入江会長も、すごく遠い。

 だけど、


「いいに決まってるよ! 百瀬くんの力になりたいもん」


 それでいいんだ、と気付いた。

 彼に届かなくてもいい。彼の傍にいられればいい。

 だって――美緒がいなくなったことで、あたしはすっかり現実に引き戻されたから。


 心臓移植患者の20年後生存率は50%程度だという。美緒がいるあたしはそんな確率論の輪から外れた特別だと思っていたけど……もう美緒はいない。あたしは特別じゃなかった。


 20年後、あたしは半分の確率で死んでいる。

 一度大切な人を喪った彼にもう一度似た思いをさせるわけにはいかない。高校生活だけを一緒に過ごして、後はアルバムで大切にされる。それくらいの関係で充分だ。アルバイトを紹介するって言い出したのも、ちょっとした落書きくらいになればいいな、と思ったから。


 そうやって諦めようとしていたときに限って――彼は弱った顔を見せてくれるのだった。

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