9章#14 遊びに

 女子は支度に時間がかかると言うが、それなりの思春期に入った男子だって時間はかかる。まして起床してすぐならば、こなすべき身支度は山ほどあると言っていい。

 目をしゃっきり覚ますためのシャワーに2分、最近は神経質にやっているスキンケアに同じく2分、着替えとヘアセットと修正程度の化粧をするのに10分程かけ、なんとか言われた時間の5分前に支度を整えることができた。


 我ながら頑張ったと思う。

 そもそも今日は家で過ごすのがメインなんだから気合を入れる必要がないんだろうけど、それでもやっぱり見た目は気になる。外身だって中身の一部だ。良し悪し以前に、気を配るか否かが大切なのだ――ってのは、本心ではなくて。


 俺の本心がどこにあるかなんて、もう分かり切っている。

 澪に、雫に、大河に、かっこよく思われたいのだ。常にここまで気合を入れるのは変だけれども、せめて他の奴がいる前では気合の入った自分でいたい。

 そんな考えもあり、支度が整って家を出発してもなお、雑に済ませたヘアセットが気になって前髪を弄ってしまっていた。


「ふっ、友斗あれじゃん。前髪をやたらと弄る意識高い系みたい」

「意識高い系への偏見が凄まじいなってツッコミはさておいて……しょうがないだろ。急に家出ろって言われたから、時間を掛けられなかったんだ」


 澪に笑いながら指摘されてしまい、俺はばつが悪くなって顔を逸らす。澪の言う通りだなって自覚はある。いちいち髪型を気にするのはむしろダサいし、そもそも気持ちを隠すと決めたのなら意識するのはおかしい。

 ほんと、詰めが甘いよな、俺。

 ぐっ、と拳を握り、もう弄るのはやめようと決める。人に見せられないような出来ではないだろうし、これで充分だ。


「友斗がそこまで気にするのも珍しいじゃん。乙女?」

「乙女違うわ。マナーとして気になってるだけだっつうの」

「ふぅん……」


 澪は薄らと笑みを浮かべ、でも、と口を開いた。


「今日もかっこいいよ。面食いの私が言うんだから信じていい」

「……っ、さいですか」

「さいですよ」


 そういうの、本当にずるいんだよなぁ……。

 誰だって褒められるのには弱い。好きな子に褒められて嬉しくないわけがないのだ。俺は苦笑し、そっちも、と返す。


「可愛いし、奇麗だし、いいんじゃないか?」

「……ん。まーね」


 照れたのだろうか、澪の頬に僅かな朱が差す。

 かと思うと俺をチラ見し、ニヤリと悪戯っぽく笑んだ。


「特にこれとか、お気に入り」


 言って、ピンと立てた左手の小指を見せてくる。

 つい先日渡したピンキーリングが、キラリと反射で輝く。

 ……っ、そういうのは更にずるくないですかねぇ。


「ならよかった。プレゼントした甲斐があるよ」

「ん。一生、大切にするから」

「それ、今言う台詞か?」

「何度でも思うから、何度でも言う。思ったことを口にできないなんて豊かじゃないと思わない?」

「急に時雨さんっぽいこと言うのな」

「うわ、ちょっと注意しよ……」

「その反応はあの人に酷いからなっ!?」


 時雨さんっぽいって形容は別に悪口じゃないからね?

 俺が言うと、澪はムッと唇を尖らせる。


「っていうか、今私のデレタイムなんだから素直にデレられてればいいんだよ。そうやって抵抗しないの」

「素直にデレられてればいいってどんな命令だよ……」


 そのデレをダイレクトで受け取ると心臓が持たねぇんだよ、と思うが口にはしない。代わりにくいっとマフラーで口もとを隠す。

 澪は、くすっ、と嬉しそうに肩を竦めた。

 きゅっと優しく下がった目尻に目を奪われる。


「あと、目の前の誰かさんがプレゼントを使ってくれてるのを見たら、お礼が言いたくなってね」

「っ……そうかよ」

「そうだよ。……それ、似合ってる」

「お、おう」


 俺は強く、強く、マフラーをくれたことに感謝する。

 口もとを隠す何かがあってよかった。何にもなければ、俺の緩んだ頬を澪は見逃しはしなかっただろうから。


 ぐぉぉぉん、と横を自動車が通り抜ける。

 大きなトラックもその後に続いたけれど、今はもう、美緒が死んだ日を思い出すことはない。ただあのときのように誰かを失うのは嫌だな、と思うだけだ。

 ふと、澪の手に目が行く。

 存在感を主張するピンキーリングも、細やかな指も、とっても奇麗だった。


 掴んでいれば、離さなくて済むのだろうか。

 今この手を握れば、あの日のように――。


「友斗、どうかした?」

「……いや、なんでもない」


 手を繋ごうとして、やめた。

 澪の手を握る資格も、結び目を作る権利もない。俺は澪の手を取ってはいけないのだ。

 一人の女の子を好きになるのが当たり前だから。

 きっとこの手を取れば、彼女たちは輪を作ろうとしてくれてしまうだろうから。


「澪って、今も朝走ってるんだよな?」

「うん。休みの日は距離伸ばしてる」

「走ったら……すっきりするか?」


 澪が走る姿は、息を呑むほどに美しい。

 何もかもを置いて、ビリビリと貫く稲妻みたいなのだ。昔は美緒と違うその姿を見るのが苦しかったけれど、今はそうではない。

 そうだね、と澪は即答する。


「走って、走って、頭クラクラになるくらい走って――その後に浴びるシャワーは、最高に気持ちいいよ。シた後に浴びる熱湯シャワーに似てる」

「っ、また下ネタを……」

「下ネタじゃなくて実体験から話してるだけだし。今思い出してみると、あの時間は最高に贅沢で好きだったから」


 魅力的な澪の横顔を、ついに直視できなくなる。

 逃げるように仰ぎ見た空は、どこまでも青い。雲はほとんどないけれど、ただ一筋の飛行機雲がビューンと引かれていた。

 空色パレットに画かれたストレイトライン。

 あんな風になれたらいいのに。


「お兄ちゃんは、こんなこと言う女は嫌い?」

「妹の下ネタを歓迎する兄がいると思うか?」

「相手が元セフレで、しかもとびきりの美少女だったなら、或いは」

「……そっか」


 かっぽん、とんとん。

 小生意気なスニーカーが鳴く。

 答えなんか、言えるはずがなかった。



 ◇



「やっほー二人とも! 澪ちゃん、今日も可愛いわねっっ!」

「あはは……白雪ちゃん、相変わらず元気だね。ちょっと鬱陶しいけど」

「や~ん、鬱陶しいって言われちゃったわっ♡」


 いつもの多摩川駅ではなく、その隣の田園調布駅にて。

 改札から出てきた如月は、いつも通り如月だった。時雨さんよりも如月の方がよっぽど悪口認定されていいと思う。

 ハグしてこようとする如月を、澪が苦笑しながら腕で突っ返す。犬と猫のじゃれ合いを見ているような気分だ。


「よっ、友斗。目はばっちり覚めたか?」

「ああ、さっきは悪いな。っと、話す前にそっちの変態をどうにかしてくれ」

「人の可愛い彼女を変態扱いすることに文句を言いたいところだけど……あのテンションの上がり方はしょうがねぇ気もするから任せとけ」


 晴彦はサムズアップし、如月のもとへ向かう。

 フルスロットルな如月に軽いチョップを食らわせ、どーどー、と囁いた。


「ふぅ……助かったわ晴彦。あと一歩で通報されるところだった」

「あ、充分通報案件だから安心していいよ」「手遅れだろ……」

「二人とも手厳しいわねっ!?」


 だってしょうがないじゃん。

 俺と澪がこくこくと頷き合う。最近の如月は後輩思いな先輩だったり、実はできる生徒会副会長だったりしたけど、本質はこの変態さだもんな。

 『可愛い女子ランキング』も、如月の要望に晴彦が応えたものなわけだしな。ちなみに、直近のランキングの結果は知らない。何故なら、まだグループに招待されていないからだ。哀しいよぼくは。


「しょうがないでしょ? 百瀬くんはともかく、澪ちゃんと雫ちゃんの家に行けるだもの。それに大河ちゃんだって来るんだし。豪華すぎで捗るわ」

「人をともかく扱いすんなってツッコミはいったん隅に置いておくけど、それはそれとして、うちで変なことしたら速攻叩き出すからな。もちろん責任をとって晴彦には坊主になってもらう」

「唐突!」


 何を言うか。俺だってこの前、めちゃくちゃ急に坊主の危機に瀕したんだぞ。物事はいつだって唐突なものだ。

 ってか、杉山クンは三学期から坊主にすんのかな……ちょっと気になる。

 考えていると、こほん、と晴彦が咳払いをした。


「ま、もちろん、人んちで変なことする気はねーよ。それよか、ここでウダウダしててもしょうがないし、さっさと行こうぜ。友斗たちの家に行く前に、スーパーでお菓子とかだけ買ってくし」

「了解。んじゃまぁ、行きますか」


 急な話ではあったが、友達と遊ぶこと自体は俺も嬉しい。

 家に行く前に買い出しか……なんか、友達と家で遊ぶ感があっていいな。


「そういや、伊藤は今日来ないのか? 前の約束、伊藤ともしたと思ってたんだが」

「誘ったけど、年末は忙しいんだって」


 俺がふと湧いた疑問を口にすると、澪が答えをくれる。


「なんか、友達と同人ゲームとか作ってるらしいよ」

「やっぱ伊藤だけ世界観違うよな……」


 いや、時雨さんと入江先輩もクリエイターモノに足を突っ込んでる気がするけど。

 俺は堪らず苦笑した。

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