5章#34 恋がこんこん、黒狐
SIDE:澪
【しずく:お姉ちゃん、今大丈夫?】
彼がバスルームに向かう。ぶるるっと震えたスマホを見遣れば、雫からのメッセージが届いていた。
【MIO:いいよ】
【MIO:電話する?】
【しずく:お姉ちゃんがいいなら、電話がいい】
【MIO:分かった。掛けるからちょっと待って】
バスルームからシャワーの音が聞こえてくる。つい一瞥しそうになって、私は苦笑した。他の欲求と同じく性欲も人より強めだけれど、だからって誰彼構わず発情してはいけない。
百瀬のことを好きじゃないのは本当だから。
流石にこの部屋で電話をするわけにはいかないので、一度廊下に出てから発信した。
『もしもし、お姉ちゃん~?』
「もしもし。聞こえてるよ、雫」
『お姉ちゃんっ! よかったぁ……』
へなへなと心底安心するような声が聞こえた。
心配かけたな、と申し訳なさがこみあげてくる。でも暗い声を出せば余計に心配させるだけだから、努めて明るく応えた。
「心配しすぎだよ、雫」
『そうだけどっ! でも、心配だったんだもん。まあ先輩が見つけてくれるだろうなって信じてたけど』
「そっか」
その通りだよ、雫。
百瀬は私を見つけた。そのせいでとんでもない化け物が世に放たれちゃうけどね。
『それでね。私、お姉ちゃんに伝えたいことがあるんだ』
「伝えたいこと?」
『うん』
電話の向こうの声は、まるで頭を撫でるみたいに優しかった。
『お姉ちゃん、今まで私を守ろうとしてくれてありがとう。お姉ちゃんをしてくれて、ありがとう』
「えっと……雫?」
『私だって馬鹿じゃないもん。お父さんが私を贔屓してるって気付いてた。でも何も言えなくて……ずっと守ってくれるお姉ちゃんに甘えちゃってたんだ』
もうずっと昔の話だ。
パパとママが別れる頃にはパパが家族を顧みる時間はほとんどゼロになっていたから、私にも雫にも無関心だった。
けれど小学校の頃、何度も言われた。雫を守るためだけに生きなさい、と。
今となってはその理由にもおおよそ見当がつく。
きっとパパは薄っすら気付いていたのだ。私が自分の子じゃない、と。それでも気付かないふりをした。あの人にとってそこはさほど重要なことではなかったから。
考えている間にも、雫は言葉を続けていた。
『ごめんね、お姉ちゃん。けど……もう我慢しないでほしいんだ』
「我慢?」
『うん。私、お姉ちゃんと正々堂々戦いたい』
「えっと……戦うって? もしかして百瀬のことを言ってる?」
『うん、そーだよ』
戸惑いながら返すと、雫はあっけらかんと答えた。
うーん……なんだか勘違いされてるみたいだ。ぽりぽりと頬を掻きながら、あのね、と雫に告げる。
「私は百瀬のこと、別に好きじゃないよ? あんなことしてたくせに何をって思うかもしれないけど」
『――って、先輩に言われた?』
「え?」
言われたには言われたけど。え、なんで分かったの?
やっぱりなぁ、と呆れるように雫が笑う。
『先輩って、そーゆーとこだけ鈍いんだよね。まぁそれはお姉ちゃんもだけど』
「……? 雫、何を言ってるの?」
『お姉ちゃんって、自分のことを全然乙女じゃないって思ってるくせにほんとは一番乙女だよね。恋ってさ、そんな複雑じゃないよ?』
雫の言っていることは難しい。
何も言えずにいると、廊下を別の客が通り過ぎる。一瞬バスローブを着ていたことを思い出して警戒するけれど、私のことなんてシ秋にも入っていたいみたいだ。湿度を感じさせるその男女は、明らかに
不意に、百瀬と泊まるんだ、と意識する。
その瞬間、妙に体が熱くなった気がした。
……いやいや、勘違いだから。
『ま、いいやっ。どーせお姉ちゃんならすぐ気付くだろうしね』
「……そうだね。雫の勘違いは今度、ちゃんと顔を見ながら解くことにするよ」
『そだね。お姉ちゃんと恋バナしたいなぁ』
お互いに、じゃあね、と言い合って通話を切る。
既に百瀬は入浴を終えていたようで、青いパジャマを着ていた。
「おかえり。雫と電話か?」
「ん、まあね。……っていうか百瀬、バスローブじゃないんだ?」
「流石にな。さっきパジャマみたいなのを見つけたから使うことにした。澪も使うか?」
色違いの桃色パジャマを差し出され、私はムッと眉間に皴を寄せた。
「ん、いやいい。ペアルックみたいになるのも癪だし」
ふるふると首を横に振りながら言うと、そっか、と百瀬は呟いた。
こっそりと胸元に視線が向いたのを感じて、少し心が満たされる。どうやらまだ、私のこを性的な対象として見れるらしい。
「バスローブ、緩いから気をつけろよ。ちゃんと布団かけて寝ろ」
「言われなくてもそうする。過保護だね、百瀬」
「……っ。澪が危なっかしいのがいけないんだろうが。細いし、肌も白いし……」
気まずそうな百瀬に指摘されて、私はふと自分の体に視線を落とす。
火照りがとれた肌は、手前みそになるけれど、『陶器のように』という言葉がぴったりなきめ細かで乳白色だ。
って、誰にPRしているのか。我ながらテンションがおかしい。
「日焼け止め塗ってたし、まだ日が出てないくらい朝だったから」
「ほーん……頑張ってるのな」
「まぁね」
冷たく突き返すと、百瀬はくしゃっと笑う。
僅かに垂れた目尻が優しいたんぽぽみたいに見えて、何を考えてるんだか、と肩を竦めた。本当にテンションがおかしい。雫に変なことを言われて、意識しちゃってるのかもしれない。
「そろそろ寝るか。ベッドは……一つしかないし、一緒でいいよな?」
「そこは自分が床に、とか言うべきじゃないの?」
「俺は家に帰りたかったのにここまで付き合ってるんだぞ。むしろ譲るべきなのは澪の方だろ」
俺だって疲れてるんだから、と百瀬はベッドに潜り込んだ。冗談や話の流れではなく、本当に譲る気はないらしい。
まぁ私が本気で頼めば幾らでも融通してくれそうだけれど……なんだか、そういう気分にはならなかった。
百瀬に来てなんてちっとも頼んでいないけれど。
百瀬は勝手に疲れただけで、私は悪くないけれど。
それでも百瀬に感謝してるのは、紛れもない事実だから。
「分かった。なら、こっち向かないでね」
「は? 澪も、入ってくんのかよ」
「当たり前じゃん。風邪引かないようにしなきゃダメなのは分かってるでしょ」
「まぁ……そうか」
素直に百瀬は受け入れたので、私は彼と背中合わせでベッドに入る。
私と百瀬の上にのしかかる布団はホテルって感じの匂いがして、不思議と頭がふわふわした。非日常感のせいで、疲れているのに眠気がちっとも訪れてくれない。
「電気、消すぞ」
「うん」
電気が消えて、真っ暗な部屋。
妖しい雰囲気もすっかり消え去り、秋の夜長そのもののように思えてくる。
「…………」
「………………」
沈黙は、しかし『沈んで黙する』という字にはふさわしくないくらいに軽やかだった。
百瀬の吐息、私の吐息、身動ぎ、布擦れ、風、無音。
シチューみたいに綯い交ぜなって、くだらない夜の最後をご馳走みたいに彩っていく。
「ねぇ百瀬」
「ん?」
「寝れない」
「寝ないと隈できるぞ」
「それは百瀬でしょ」
「否定できないこと言うのやめろ。最近、気を付けてるんだから」
頑張りすぎなんだよ、という言葉は歯の先っちょで止めておいた。
「間とか繋ぐの、得意でしょ。なんか話してよ」
「何を根拠にそんなことを……ったく、何を話せばいい?」
「別に何でも――あっ」
何でもいい、そう言おうとして、ふと聞きたいことが頭に浮かんだ。
「『百面相の白雪姫』と、最後の劇中歌。百瀬は……何を思って、あれを書いたの?」
「え?」
「明日で終わりなんだから、最後に答えを教えてよ。作者の気持ちを答えなさい、ってやつ」
「解説とか、地味にハズいやつだぞ」
「御託はいいから。教えてくれたら、今日は寝てあげる」
「…………分かったよ。つっても、大層なメッセージをこめたわけじゃないし、笑うなよ」
「笑うかどうかは、話して決めるから」
ちぇっ、と拗ねるような舌打ち。
それから彼百瀬は、ゆっくりと話し始めた。
「単純にさ、気付いてほしかったんだよ」
「気付いてほしかった?」
「ああ。澪には強欲な澪しか見えてなかったのかもしれない。でも、皆に望まれた『いいクラスメイト』も、シスコン気味な『雫の姉』も、全部が澪だろ?」
それは、さっき百瀬が言っていたことだった。
『だって澪はわがままな自分しか見えてないだろ? でも俺は違う。わがままなところも、それ以外も、全部の澪を好きなんだ』
私はずっと、醜い私以外は偽物だと思っていた。
名前の付かないモブを演じてるだけ。そんな風に思ってたけれど……。
「わがままな自分を抑えるためだったとしても、皆の期待に応えようとしたことは素敵だと思うし、雫を守ろうとしたことも本物だと思う。だから、そういうところに気付いてもらえそうな脚本にした」
「…………」
「ま、澪が本当は自分のことが大好きだって気付いたのはさっきだからな。それまではわがままな自分なんて嫌いなんだろう、って思ってたから、他のいいところがあるんだぜ、って推そうとしてたわけだ」
そう考えると空振ってるな、と百瀬が苦笑する。
でも、私はちっとも笑えなかった。
だって――彼の言葉が嬉しかったから。
仮面をつけていた『いい子』な私のことも、ちょっとだけ好きになっていたから。
「仮面をつけてる私も、私なんだ?」
「……当たり前だろ」
と、百瀬は私の手を握る。
そしてあの夏祭りの夜に欲しかったお月様のように、言った。
「澪が『美緒』の仮面をつけてくれたから、俺はちゃんと初恋と向き合えたんだ。澪は自分でいなくて済むなら、何でもよかったのかもしれない。でも……あのとき美緒になってくれた澪を、俺は偽物だなんて言いたくないよ」
自己嫌悪で焼け爛れた頬に温もりが。
優しく、愛おしく、染みていく――。
「もっともっと、澪に知ってほしい。澪が知らない澪のいいところを。それを知ってるのは俺だけじゃないだ。雫はもちろんそうだし、伊藤とか八雲とか、クラスの奴らだってきっとたくさん知ってる。皆、綾辻澪って女の子が好きなんだ」
それでさ、秋のラムネ瓶を開けるみたいに囁く。
「そういう皆が好きな綾辻澪は、全部澪のものなんだ。好きに演じていいし、幾らでも変わっていい。ただ自分を好きな気持ちを隠さないでいてくれれば、それでいいんだ」
まるで頼りがいのあるお兄ちゃんみたいな声だった。
とく、とく、とく、とく。
おかしい、なんだろ、これ。
体の奥が疼く。温かくて、ぽかぽかして、女の子そのものみたいに、もどかしくて。
とく、とく、とく、とく。
とくとくとく、とくとくとく――。
心臓の鼓動がありふれた答えを出そうとしていた。
「……っ。百瀬、今すぐイヤホンはめて大音量で音楽流して」
「はっ……? イヤホンとか持ってきてるわけないだろ」
「っ、耳栓は?」
「なおさらあるわけないだろ!? 急にどうした?!」
「っっ。分かんない! 分かんないけど、今から一人で
「はぁ!? マジで何言ってんのお前。今、割と真面目なこと言ったぞ? なんなら言ってた俺だって軽く涙が――」
「こっち向くな馬鹿。
「は、はぁぁ? 教えたら寝るんじゃなかったのかよ……落ち着けって。その言動はマジで痴――」
「それ以上言ったら、それこそ末代にするから。或いは次代を無理やり作ってやるから」
「……ッ? マジで、何言ってんだよ」
こんなの、知らない。
理由も、脈路も、ないじゃないか。
顔が好きで、声が好きで、体も好きで、匂いも好きで、頭がいいところも好きで、周囲の人の感情に機微なところも好きで、本気で向き合ってくれようとしたところが好きで。
『好きな人はいますか?』
生意気な後輩の質問が脳裏によぎる。
『どーせお姉ちゃんならすぐ気付くだろうしね』
さっき言われたばかりの予言が蘇る。
そんなこと、ありえないはずだ。
きっとただ性欲が溜まってるだけで、発散さえすれば消える。
けれど、もしそうじゃないのなら――。
「よく分からんけど、分かった。もういいよ、何でも。わがままなのは今に始まったことじゃないしな。枕と布団で耳塞いどくから、なるべく静かにやってくれ」
「……ん。じゃあバスルームでシてくるから、見るのも聞くのも許さない」
「善処する。でもちゃんと睡眠時間はとれよ。折角の可愛い顔が台無しになるからな」
「~~っ」
秋も冬も蹴飛ばして、春が波みたいに押し寄せてくる。
引き出しから色んな道具を出した私は、バスルームへと駆けこんだ。
――数えきれないくらい果てるのにすら、たいした時間は要らなくて。
改めてベッドで眠ろうとしたとき、この感情が性欲ではないと思い知った。
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