第二部『Good Youth』

第五章『百面相の白雪姫』

5章#01 のっぺらぼうの白雪姫

 優しくもないその手が私の頭を撫でる。

 記憶の中のパパは、顔の上にばってんが被さっていて、表情を上手く読み取ることができない。でも、考えてみれば昔からパパの表情が変わるのを見たことはなかった。顔を見れたところで、多分意味はない。


『いいか? お前は雫を守れ。そのために生きるんだ』


 黒い言の葉が紡がれる。

 無機質な声で、パパは続けた。


『澪だなんて名前は忘れろ。お前は雫の姉だ。綾辻澪になる必要なんて、ない』


 名前が塗り潰される。

 高い位置にあるパパの顔を見上げ、どうしてと尋ねた。

 パパは冷たく私を見下して答える。


『どうして? そんなの、雫の方がいい子だからに決まっているだろう? お前は昔からわがままで……あの女そっくりで反吐が出る』


 だから、パパは私を黒く染めた。


『雫を守るために生きなさい。それ以外は不要だ』


 ――今となってはどうでもいい過去。

 だってあの人に言われずとも、私は『綾辻澪』が大嫌いなのだから。



 ◇



 SIDE:澪


 8月13日、夏。

 朝顔が萎むみたいに花火の勢いは止んで、夏祭りも次第に終わりに近づいていく。これが終われば、明日には東京に戻って文化祭の準備になるから。

 雫も入江さんも、そして彼も。

 三人とも、楽しそうに夏を拾い集めていた。


 そんな三人と共に、私こと綾辻澪は思う。

 私だけが置き去りにされている、と。


 本当は、私は終わりたくなんてなかった。

 終わらせてしまえば、私が『綾辻澪』に戻ってしまうから。


 最初に出会ったとき、彼が私の奥に私以外を映していることに惹かれた。彼の前でなら、私は私でいなくて済むような気がしたのだ。

 けれど、彼が私を私以外として扱わない限り、私は私でしかない。だから彼と関わる中で、私は長らく“関係”に依存した。


 学級委員という“関係”はもちろんだけれど、セフレだって同じだ。

 “関係”に見合った、役名のつかないモブを演じればいい。学級委員Bとか、セフレHみたいな。それは凄く楽なことだったけど、同時に危うさも感じていた。


 そうして訪れたこの春、私はもっといい役を手に入れた。

 百瀬美緒。

 彼の初恋であり実の妹でもある彼女は、私に瓜二つらしいと知った。後に彼女が異母妹だと知り、更に私向けの役だと思った。


 私はこのまま一生、百瀬美緒を演じてみせるつもりだった。

 それなのに――。


 ねぇどうして、と彼の背中を見つめて思う。

 あなたはどうして、終わらせてしまったの? 

 私を美緒にしてくれないの?


「おねーちゃーん! ラムネ飲みきれないから飲んでぇ。炭酸でお腹がぱんぱん!」


 唇を噛んでいると、雫がそう明るく言った。

 片手には、3分の1ほど中身が残ったラムネ。その上の方でぷかんと沈んで転がる、一粒のビー玉がからからと世界を映し出していた。


 ふと、そこに映る自分を見つめそうになって……怖くなった。

 そこに映るのは一体だれ?

 綾辻澪は、どんな姿でビー玉に映るの?

 そう思ったら、ラムネ瓶を直視するのも持つのも恐ろしいことに思えて。


 ――けれど、と自分を叱咤した。


 私は雫を守るために生きている。

 美緒という役を失っても、雫の姉という役は守らなければならない。


「まったく……雫はしょうがないなぁ。百瀬に飲んでもらったら?」

「いや俺も飲んだからな? むしろ雫が全然飲んでないんだって」

「むぅ。私だって頑張ったんですけど? 先輩、そーやって人のせいにするのはどーかと思いますよ」

「自分の分を飲んだ後に雫の分も半分以上飲んでやった俺に言う言葉かねぇ、それ」


 彼は、くしゃっと笑う。

 あぁ、それはもう屈託のない笑みだった。罪悪感はちょっぴり残っているように見えるけれど、それは決して哀と呼べるようなものではなくて。ただ彼の胸に居残った、これから消えていくであろう申し訳なさでしかない。


 はぁ、と雫の姉わたしは溜息をついた。


「分かったよ。けど私一人じゃ無理だから雫も手伝ってね」

「うんっ! 先輩先輩! お姉ちゃんとの間接ちゅーですよ、羨ましいですか?」

「姉妹に間接キスとかねぇだろ……いや姉妹百合ならわんちゃ――って、澪?! そのツララみたいな目をやめてくれませんっ!?」

「別に。そんな目で見てないよ気のせいだよ。ね、入江さん」

「え……? 私はよく分からないですけど……百瀬先輩が明らかに変なことを考えていたのは顔を見て分かったので。自粛と猛省願います」

「ひどくねっ?!」


 どっと三人の中で笑いが起こるので、私もそれに合わせて笑う。

 けたけたと楽しそうな笑顔に紛れて、私は雫からラムネ瓶を受け取った。


「…………」

「ん……綾辻先輩。どうかなさったんですか?」


 ラムネの口を見つめていたら、入江さんが心配そうな顔で尋ねてきた。

 はぁ……この子はどうして、こうも人に気を掛けなければ気が済まないのだろう。そう苛立ちを思えるけれど、そんなことより、と思考の行き先を正した。


 なぜラムネの口を凝視するばかりで飲む気が起きないのか。

 試しに口を近づけてみて、その理由にすぐに気付く。


 背筋をぞわぞわと、違和感が這った。

 私は――彼と間接キスをするのを躊躇っているらしい。嫌悪感とまでは言わないけれども、これまでのようにすることには抵抗がある。

 そっか。だって彼は……美緒わたしを捨てた男だもんね。嫌いになって当然だ。


「ううん、どうもしてないんだけどね。よく考えたらもう、ラムネには飽きちゃってて。入江さん、飲まない?」

「私、ですか……。すみません。私はまだ自分の分を飲み終えてなくて」

「そっかぁ。謝らなくて大丈夫だよ。心配させちゃってごめんね」

「い、いえ」


 入江さんの視線は、どこか疑るようなものだったけれど。

 そんな疑念は私に届かない。


『二人とちゃんと向き合いたい。だって、二人はそれくらい俺にとって大切なんだよ』


 彼の言葉が脳裏によぎる。

 私は、向き合われたくなんかない。

 けれど、このままだと彼は絶対に私と向き合おうとする。そんな予感がふつふつとこみあげてきた。


 ちょうど通りかかったお面屋さんには、色んなお面が並んでいる。

 狐、おかめ、ひょっとこ、鬼、天狗。

 古きよきヒーローや最近流行りのアニメキャラクター、それから他にもたくさん。


 いいな、と思った。

 お面さえ被っていれば素顔を見られずに済む。


「どうした。お面、欲しいのか?」

「……別に」

「そっか。おじちゃん、その黒い狐のお面、貰ってもいいですか?」

「おー、いいぜ。500円な」


 別にと告げたはずなのに、彼は狐のお面と500円玉を交換した。

 そしてそのお面を、ほい、と私に手渡す。


「……要らないんだけど」

「でも見てただろ? それに」


 雫と入江さんに聞こえないかを確かめるように視線を移してから、


「さっきから酷い顔してる。俺のせいだろうし何にも言えないけど……雫にはその顔、見せたくないだろ」


 そっと呟いた。

 ――ッ!?

 私から美緒を取り上げたくせに、どの口で……ッ!

 ギリリ、と歯の奥を噛む。彼を睨みそうになるのをぐっと堪えて私は、 


「…………ん。なら貰っとく。けど一つ」


 


「私に馴れ馴れしくしないで」

「――……っ。分かったよ、


 くしゃっと顔を歪めると、彼は雫と入江さんの方に向けて歩き出す。

 あぁ、と私はようやく気付いた。

 遅ればせながらと言うべきだろう。もっと早く気付いていれば、雫のことを傷つけずに済んでいたかもしれないのだから。


 私は、彼のことを本当は愛していない。

 私が好きだったのは美緒に囚われる彼だけで。

 美緒から解放された彼は、もう私の想い人じゃない。 


「失恋、か」


 どうやら私の想い人はもうこの世にいないらしい。

 そんなところまで彼に似ているから、やっぱり同類なのかも、と考えてみて。


「まさかね」


 もうどうでもいい。

 皮肉にも彼と過ごした日々が、私に役名のつかないお面を与えてくれたから。

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