4章#11 頑張ってください

 掃除を完全に終える頃には、少しだけ夏真っ盛りの暑さが消えていた。

 くたくたな体のまま後片付けをする気にはなれないから、俺と大河はプールにだらんと倒れ込む。

 いつもなら絶対にこんな風にはできないプールの底。

 見上げる青空を見て、プールみたいだな、と思うのはちょっとばかしアホっぽいかもしれん。


「はぁ……はぁ……まったく、もう。本当に疲れました」

「色々と言いたいことはあるが……同感だな。そもそもプール掃除だけでもキツかったし」

「本当ですよね。てっきり罰っていうのは方便なのかと思ってましたけど、本当に罰でした」

「それなぁ」


 徒労感に満ちているからだろうか。

 隣り合って寝転ぶことも今は嫌だとは思わない。時雨さんの愚痴を叩きながら俺は苦笑した。


「あーもう。ぐちょぐちょで気持ち悪いので体育着は脱いじゃいます」

「おう。そうしろそうしろ」

「……そこで勧められると、それはそれで複雑なんですが。セクハラはやめてもらっていいですか?」

「そんなつもりはねぇよ、あほ」


 言いながらチラっと見遣ると、大河はぶつぶつ何かを呟きながら体育着を脱ぐ。

 スクール水着だけになった大河は……思っていたより、刺激的だった。

 っていうか、なんだ、その……ちょっとサイズが合ってなくね? 雫ほどではないが人並み以上に大きい胸部を見ながら思う。なんか圧迫感が凄いような……。


「……百瀬先輩。やっぱりジロジロ見てるじゃないですか」

「ち、違うから。純粋に気になったんだよ。その水着、どうしたんだ。うちの学校って水泳の授業ないだろ」


 無理くり話を逸らすと、大河は、あぁ、とどことなく恥ずかしそうな声を漏らした。


「霧崎会長からプール掃除をすると聞いたので、中学校の頃の水着を引っ張り出してきたんです」

「ほーん……」

「だ、だからその。少しサイズに無理があるのは気にしないでください! 身長とか、色々とあるんです」

「あ、あぁ。別に気にしてはないし、気にする必要もねぇだろうけど」


 身長よりも『色々』の方にウェイトがありそうだが、今は気にしないでおこう。

 んんっ、と咳払いをしてから呟く。


「あー。俺も濡れて気持ち悪いし、脱ごうかな」

「百瀬先輩って、それ脱いだら裸ですよね?」

「ん? まぁな。けど別に上だけならいいだろ」

「普通にダメですから。それ以上やろうとするなら通報も考慮せざるをえませんよ」

「なんて極端な……分かった分かった。我慢するよ」


 そこまで強く拒否られて、それでも裸になりたいって思うような裸族ではない。

 素直に諦め、代わりに太陽の光を精一杯受け止める。

 これはこれで悪くないな。


「それで、百瀬先輩」


 恐る恐ると言った感じで大河が口を開く。その声は不似合いにアンニュイとしていて、何を話そうとしているのか嫌でも察せてしまった。


 ぴぃぃぃぃ、とどこかの部活がホイッスルを鳴らす。

 ぶーんぶーんという蚊の羽音に紛れて、大河は言った。


「この前はごめんなさい」

「…………」

「でもやっぱり、見逃せません。何度でも言います。今の百瀬先輩は間違ってますよ」


 謝っても、自分の信じることは決して曲げようとしない。

 危うさと正しさを孕む大河の在り様が俺にはやっぱり、眩しく見える。

 

 美緒にもそんなところがあった。

 だからこそ俺は守ろうとしたし、美緒を守る立場に依存した。

 その結果が――。


 だから大河と美緒を被せちゃいけない。似てはいても、大河と美緒は別人だ。だって美緒はもっと愛らしかったし、大河はずっと可愛げがあるのだから。


「あのさ」

「はい」

「あれから色々あって、俺も実感した。ううん、違うな。元から俺が間違ってるってことは分かってるんだ」

「なら――」


 その続きを言わせまいと、俺は寝転がりながら首を横に振った。

 そのままごろんと大河の方を向き、続ける。


「けど変われない。間違ってるって自覚があっても、変われないんだ」


 こんなことを話すべきじゃないんだと思う。

 けどこのまま大河と言葉を交わさないのは嫌だ。夏が始まったと実感したあの日から、きっと俺の時間は止まったままだった。それくらいに大河はもう、俺にとって大事な存在になっている。


「聞いてくれるか、俺の話」


 おずおずと俺が言うと、大河はきょとんと間の抜けた顔をした。


「いいんですか? だって私は――」


 部外者ですよ、と言おうとしたのだろう。けれど言葉にするのを躊躇ったのか、きゅっと口の端を引き結ぶ。


「関わってくれるんだろ?」

「っ、はい」

「だったら聞いてほしい。……情けなくてどうしようもない話だけど」


 この話をするのは大河が二人目だ。一人目は綾辻。4月のあの日に秘密を看破され、贖罪とも懺悔ともつかない告解をした。

 でも今は違う。

 贖罪でも懺悔でもなくて――たぶんこれは相談だ。


「俺には妹がいたんだ」


 その言葉を皮切りに話すのは、おおよそ綾辻に打ち明けたことと同じ内容だ。

 俺と美緒が兄妹なのに好き合ったこと。

 美緒と秘密の恋人になったこと。

 美緒が死んだこと。

 そして雫や綾辻を美緒と重ねていたこと。


「――と。これが4月までの話だ」

「はい」

「そのうえで、改めて説明しなおす。俺と雫と綾辻の関係をな」

「……はい」


 そこまで知ってもらわなければ意味がないのだ。

 情けなさで震えそうだった。水浸しの髪をきゅっと絞りながら、俺は春から今日に至るまでの過ちを語る。


 綾辻に美緒を演じてもらうようになったこと。

 にもかかわらず、雫にも美緒を重ねたこと。

 大河にまで美緒を見出していたこと。


「大河に言ったとおりだ。人は誰かの代わりになんかなれない。俺自身、限界が来てることは自覚してた」

「…………」

「それでも俺はさ、会いたかったんだよ。ううん、過去形じゃない。美緒に会いたいんだ。それ以外は何もかも要らないって思えるくらいに」


 前髪から水滴が零れる。

 夏の太陽がちりちりと肌を焼き、だんだんとプールサイドを乾かしていく。横を見れば、俺と同じように寝転んでいる大河と目が合った。


「ごめんな。大河に叱ってもらえたのに……俺は変われないんだよ。あの日止まった時計は、絶対に動いてくれないんだ」


 大河を真っ直ぐに見ていられなくて、俺は反対側を向いた。

 それでもやっぱり、大河は俺を逃がさない。背中にぺたりとぬるい感触がした。首を動かして後ろを見遣れば、彼女は祈るような表情で俺の背に手を伸ばしていた。

 濡れた服越しの温もりは、泣きたくなるくらいに優しい。


「それは違いますよ。百瀬先輩は変われます」

「…っ、どうして――」

「だって百瀬先輩は私を見つけてくれたヒーローですから」

「は?」


 いったい何を言ってるんだろうか。

 俺は大河に、そんな風に言ってもらえる人間じゃない。なのに、それが事実だと知っている風に大河は言い切った。


「今日までは、そうだったらいいのにっていう期待でしかありませんでした。でもついさっき、確信したんです」

「大河? 何を言ってるのか分からないんだが」

「ごめんなさい、今は言えません。どう言えば伝わるのか分からなくて」

「それは……」

「それでも、信じてほしいんです。百瀬先輩のヒーローわたしを信じてください」


 何故だろう。その瞬間、脳裏には遠い夏の日の記憶がよぎった。

 でもその不思議な感覚は打ち寄せた波が戻っていくみたいに、脳の奥に引っ込んでしまう。手繰り寄せようにもどこに手を伸ばせばいいのかが分からなくて、諦めてしまう。


「私は百瀬先輩の傍にいます。何かあったら必ず守ります。だから……もう一度、きちんと美緒さんと向き合ってください。そういう夏にしてください」


 ――美緒と向き合う。

 それはとても難しいことのように思えた。

 それでも、大河がいてくれるなら。


「……分かった。向き合ってみるよ」

「はい」


 俺たちは暫くの間そのままでいた。

 やがて、からんころん、と空っぽなバケツが風に押されて動く。

 それが合図になって、俺と大河は後片付けに取り掛かった。



 ◇



「ねぇ百瀬先輩」


 帰り道、大河はいつもよりしおらしい声で言った。


「この前はありがとうございました」

「この前?」

「看病してもらったことです。ずっと言えてなかったので」

「あぁ……」


 そういえば、あれ以来大河との会話は最低限にしていた。大河にとっては当然言うべきことですら、俺は言うべき機会を与えていなかったのだ。


「あれだけ私が言ってしまったのに、泊まって看病してくれました。そのことが凄く嬉しかった。私は、あの日の百瀬先輩が本当の百瀬先輩なんじゃないか、って思うんです」 

 

 だから、と大河は言った。


「頑張ってください。……これだけは言っておきたかったので」


 貰ってばかりだなと思う。

 大河はどこまでもヒーローで、俺は大河に何も返せていない。いつか返さなくちゃと思うけれど、その『いつか』にたどり着ける日が来るのか自信がなかった。


 でもそれでいい。俺が信じるのは自分ではなく大河。どれだけ自信がなくたって、大河を信じられるのならそれでよかった。


 ちりちりと夏の暑さのように、虫がしつこく鳴いている。

 夏みたいな夏だと思った。

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