3章#34 君しかいなくなればよかった。
SIDE:友斗
「あの二人との関係を終わりにしてくれないなら、帰ってください。あなたに触れられたくないので」
それはあまりにも唐突な言葉だった。
大河の正義感は理解できる。俺たちの関係が間違っていることも再三指摘された。大河が意固地な奴だってことも分かってるはずだ。
でも……だからって、今言うことか?
あまりにも不自然すぎる。
「ど、どうしたんだよ大河。やっぱりまだ、体調がおかしいのか?」
「話を逸らさないでください。体調は……百瀬先輩が看病してくださったおかげでだいぶ調子がいいです。ありがとうございます」
「あ、お、おう……」
すごい剣幕なのにきっちりとお礼を言うあたり、やっぱり目の前にいるのは入江大河その人としか思えなくて。
大河と美緒の姿が重なる。思わず彼女に手を伸ばすが、ぱちん、とはたかれてしまった。
「触らないでください。私を看病したいなら、言ってください。あの二人と別れる、って」
「…っ。状況、分かってんのかっ!? お前、風邪引いてるんだぞ? 倒れたんだぞ? そんなくだらない意地を張ってるときじゃ、ねぇだろ!」
「意地を張るときなんですよッ! こうでもしないと……百瀬先輩、真面目に取り合ってくれないじゃないですか! 関係ないって、部外者だって切り捨てて……肝心なところに踏み込ませてくれないからっ!」
まだ少し体が怠そうなのに、大河は力強く吠えている。
痛いほどに眩しい瞳だ、と思う。こんなの直視できるわけがない。虫眼鏡でダンゴムシを焼く虐待みたいじゃないか。
大河の言う通りだ。
俺は大河に叱られることは望んでいても、その結果として行動に変化をもたらそうとは考えていない。
秘密の恋人としての美緒。
公認の恋人としての美緒。
俺を叱る妹としての美緒。
彼女はあくまで、三人目の美緒だっただけ。
俺の悪を追及して、現状を打破してほしいだなんて望んではいない。
けれど――美緒だからこそ、俺は大河を見捨てられない。ただの風邪だと分かってる。それでも、大河が元気になるまでは見捨てることができない。
「なぁ大河、教えてくれ。どうして二人との関係を終わりにしなくちゃいけない? 社会的に浮気が間違ってるからか? 法律が正義なのか? みんなって奴が正義なのか? そんなくだらない世界の言いなりにならなきゃいけないのか?」
「っ、違います」
「じゃあなんでだよっ? 雫と綾辻も、今のままで満足してる! 終わりにする理由なんて、どこにあるんだよ」
自ずと声を荒げてしまう。
かはっ、と喉が痛んで咳き込む。そんな俺を見つめながら、だって、と大河は絞り出すように言った。
「
それは、誰にも悟られていないはずの事実。
たとえば俺の誕生パーティーの日。
たとえば大河とファミレスで話した日。
たとえば打ち上げに行った日。
たとえば雫が部屋に訪れた日。
俺は何度も、トイレで嘔吐していた。
「どうしてそれを……」
「見張るって言いましたから」
大河はまるで太陽みたいに笑う。その笑顔が辛くて、今すぐ逃げたかった。でも、彼女はそんな俺の弱さを離さない。
「三人が本当に幸せなら、私も文句は言いません。私に割り込む隙はなかったんだな、って。ただそう思うだけで済むなら、いいんです」
でもね先輩、と大河が続ける。
「雫ちゃんは壊れ始めています。綾辻先輩は分かりませんけど……百瀬先輩にも限界がきてることは分かります」
「それは……」
「ねぇ百瀬先輩。あなたは――誰を見てるんですか?」
いつも、いつでも、大河はグサリと確信を突き刺す。
大河はがしっと俺の手首を掴んだ。振りほどこうとすればできるけれど、触れた手の熱さを認識してしまったら、もうそんなことはできるはずがなかった。
まだ全然熱いじゃんか。
よく見れば、汗も凄い。冷却シートだってべろんと剥がれてきている。
それなのに目の焦点だけはちっともブレていない。
「百瀬先輩、おかしいですよ。雫ちゃんといるときも綾辻先輩といるときも、私といるときでさえ、百瀬先輩は誰か別の人のことを見ているような気がします」
「っ!?」
「吐いてるのもそれが理由じゃないんですかっ?」
どうしようもない真実が白日の下に曝される。
この一か月、ずっと三人に美緒を重ねていた。けれど、三人は美緒とは別の女の子だ。当然ながら、関われば関わるほどに美緒との違いに気が付いてしまう。気が付いたら許せなくなっていく。
美緒はこんなことしない。
美緒はもっと良い子だ。
美緒は――。
考えれば考えるほど、気持ち悪くなっていった。自分が何をしたいのかが分からなくなって、グチャグチャになった頭ごと吐き捨ててきた。
「もうやめましょうよ。『誰かの代わりになんて、誰もなれはしないんだよ』って言ってくれたのは百瀬先輩じゃないですか!」
「……っ」
やめてくれ。俺だって本当は分かってる。誰かを美緒の代わりにすることなんてできない、って。もう美緒はいないんだ、って。本当は分かってるんだ。
それでも…それでも……ッ!
「うるさいな。大河には関係ない話だろ」
この期に及んで、最低で最悪な突き放し方をした。
そのはずなのに――
「嫌です」
「っ……なんでだよっ?」
「好きだからですよ! 好きだから、無関係でなんていたくないんです! 好きな人が苦しそうな顔をしてるのを、これ以上見たくないんです!」
「……はっ?」
別の意味で熱を帯びた大河の声が、部屋中に響いた。
は……?
頭が真っ白になった。今、大河は何を言ったんだ?
好き、とか。まさかそんなことを言ってはないよな……?
「え、と。一体何を」
「好きだ、と言いました。これ以上のことを私に話させる必要、ありますか?」
「い、いや、それはないけど」
「じゃあ納得してください。私は好きだから、百瀬先輩にお節介を焼きたいんです。好きだから、百瀬先輩に傷つかないでほしいんです。私の気持ち、ちょっとは分かってくださいよ……!」
大河の声は震えている。それが緊張のせいなのか、それとも別の理由のせいなのかは、今の俺には分からない。
言えることがあるとすれば、それは一つだけ。
大河のその言葉は、俺にとって決定的なものだった、ということ。
俺を想う大河は、妹としての美緒と食い違う。
大河を美緒の代わりとして見れなくなってしまった。
ぽた、ぽた、ぽた、と大河が涙を流していた。
あの入江大河が泣いている。
誰のせいで? 俺のせいで。
「無理、だよ。俺には無理だ。……頼む、もうこの話はやめてくれ。そうしないと、俺は今の大河を置いていかなきゃいけなくなるから」
「……っ。どうしてっ」
「頼むからッッッ!」
間違っていると分かっていても、その間違いを正すことができない奴だっている。
誤答だと分かっていたところで正答が分かるとは限らないのだから。
大河の手を振りほどいて、俺は部屋を出る。
廊下に出たらもう、限界だった。俺はその場に蹲って、わんわんと泣きじゃくってしまう。涙を流す資格なんてありはしないのに。
誰も美緒の代わりにはなれない。
美緒はもう、この世界にいない。
それでも――。
「美緒に、会いたい……」
泣きながら自覚する。
俺のやっていることは冒涜だ。百瀬美緒という綺麗な女の子を穢して、あの子の死を好き勝手に利用しているだけ。墓荒らしと大差ない。
夏を迎えようとする暑さが、冷え切った心の凍死を辛うじて防いでしまっていた。
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