3章#32 ほら、いい子だから

「――そーです。ちゃんと煮立ったなら卵を入れましょう」

「なるほど」

「あ、ゆっくりですよ。ゆーっくり入れてください」

「了解」

「まぁ一応片栗粉を混ぜてあるので酷いことにはならないでしょうけど。ダマにならないようにしてくださいね」

「うす」


 大河宅の台所にて。

 俺は電話越しに先生からかきたまうどんの作り方のレクチャーを受けていた。


 お粥とうどん、どちらを作ろうか迷ったが、米を買っていくよりうどんの玉を買っていった方が早いということで今回はうどんに。けどよく考えたらかきたまうどんって意外と難易度高いよね、ということでいつものお料理レッスンのように指導を受けている。


 元々ヘルプを頼むつもりではあったが、まさかここまで自分がポンコツだとは思わなかった。

 せいぜい分からない箇所を念のため確認する、くらいで済むと思ってたのにな。


「お、いい感じになったぞ。すげぇ……本当に線になってる」

「線になってるって言い方はどうかと思いますけど……まぁよかったです。浮き上がってきたらもう取り分けちゃって大丈夫ですからね」

「分かった」

「火傷しないよう気を付けてくださいよ。先輩、そういう変なところでミスしそうですし」

「あながち間違いじゃないから否定できないんだよなぁ……ちゃんと集中するよ」


 現にこれまで教えてもらったときにも、ちょいちょいくだらないミスで躓いている。料理とはどうも相性が悪いらしい。

 雫に言われた通り火傷に気を付けて盛りつける。

 無事終わったところで、薬味としてねぎを入れたら完成だ。


「よし、完成したぞ」

「よかったです。お疲れさまでした」

「こっちこそ。急に頼んだのにサンキューな」

「それはいーんですけど。私的には、お礼より謝罪が欲しいですね」

「それ、普通逆じゃないか? 『ごめん』って言われるより『ありがとう』って言われる方が嬉しい、的な」

「私には一切声をかけずに大河ちゃんのお見舞いに行った常識のない人がなんか言ってる」

「ごめんって!」


 料理の最中には言ってこなかったが、気にしていなかったわけじゃないらしい。

 まぁ、それもそうか。

 悪いな、と電話越しに謝る。


「まったくもう。私だって、先輩の気持ちは分かります。私が行ったら大河ちゃんは安静にしてくれないだろうなー、とも思ってますよ」

「あぁ」

「けど一声かけてくれたってよかったと思うんです」

「それは……ほら。雫なら来ようとするかなって思って」

「私、そんなに物分かり悪くないです」

「…………」


 何も言えなかった。

 だって――多分、心のどこかでは理解していたから。

 雫は聡い子だ。大河のことを分かってもいる。そんな子が自分の感情を優先して無理やりついてこようとするはずがないって、分かってたのに。


「――なんて、ごめんなさい。ちょっとだけ拗ねちゃいました」

「……いや謝ることないだろ。悪いのは俺だ」

「いいえ。先輩は悪くないですよ」


 そっか、とだけ俺は呟く。

 変に主張しても雫は困るだけだろう。


「さて、と。そろそろ様子見てくるわ」

「そですね。今日はずっと傍にいてあげてください。大河ちゃんは、私の大切な友達なんですから」

「……っ。そうだな」


 雫の言葉は、きちんと関係を正してくれた。

 俺と雫は彼女で、大河は雫の友達。俺が駆け付けたのは、大河が雫にとってかけがえのない友達だからだ。

 そういうことにする、と言ってくれてる。

 悪い子だと言いながら、雫はどこまでも良い子なのだ。


「ありがとな」

「そこでお礼を言われるのもよく分からないですけどね。さぁさぁ、早く行ってください! 私はお姉ちゃんと今日のお夕飯を何にしようか話し合うので! 先輩がいない分、今日は豪華にしちゃいますから」

「……ん? おい待て。夕食までには帰るつもりだぞ?」

「は? いや、おうちに入れるつもりないですけど」


 声、めっちゃ冷たいんですけど。やっぱり怒ってるのかしらん?

 そう思っていると、雫が呆れた口調で続けた。


「大河ちゃん、一人暮らしなんですよ。せめてご飯食べて、薬飲んで、それからぐっすり寝れるようになるまでは、先輩が傍にいるべきじゃないんですかね」

「あー。まぁそのつもりではあるけど。夕食までには帰らなきゃまずいだろ、色々と」

「まずいことになるんですか? 先輩の彼女は私なのに?」

「……ならないな」


 苦笑交じりに返す。

 言うまでもないことだった。まずいことになど、なるはずがない。


「すまん。帰りは遅くなるから夕食は二人で済ませておいてくれ」

「はい。そのつもりです。頑張ってくださいね」

「あぁ。ありがとう」


 通話が終わる。

 台所に残ったのは俺と、かきたまうどんと、静けさと暑さだけ。


「あっつ……」


 夏場にうどんは間違えたかもな、と少し思った。



 ◇



 SIDE:大河


 体調が悪いときに目を瞑ると、世界との距離が分からなくなる。

 まるで独りぼっちみたいに思えて、世界がずっと遠くに行っちゃったようで怖い。だから風邪をひいているときに目を覚ます瞬間は、息が詰まる。


「んっ……あ」


 今日もそれは例外ではなくて。

 でも目を覚ますと久々に見る天井だったから、怖さよりも驚きが勝っていた。


 どうしてここに……?

 ここは私の部屋だ。基本的には和室ばかりのこの家の中で、唯一ベッドが置かれたり、フローリングだったりする特殊な部屋。

 どうしてかを説明しようとすると私の家の複雑な事情があるのだけど。

 一つ言えることは、私が最近、ここで眠っていないということだった。


 だってベッドで眠ると、寝すぎてしまうから。

 居間に布団を敷いて眠れば目覚まし時計で起きることができるけど、ベッドで寝るとそうはいかない。

 勉強に生徒会のお手伝いに家事。加えてもうすぐ文化祭のことを考える時期だから、そっちにも時間を割きたくて、無駄な睡眠時間をなるべく減らそうとしていた。


 そのはずなのに、どうして……。


「おはよう。目、覚めたみたいだな」

「へっ?」


 突然聞こえた声のせいで、私は間抜けな反応をしてしまう。

 そちらを振り向こ――あ、ダメだ。体がだるくてそちらを向けない。だらん、とベッドに沈み込む。


「あっ、ったく……急に声をかけた俺も悪いけどさ。もうちょっと安静にする努力をしろよ」

「ん……安静には、して、ましたし」


 嘘ではない。

 私が起きたのはついさっき。目覚めてお昼過ぎだったことに焦って動こうとしたところで鉛のように体が重いことに気付いてからは、学校と百瀬先輩に連絡をして眠ったはずだ。


 いや、けどそういえば玄関に向かった覚えがある。

 壁に手をつきながら必死で玄関まで行ったはずだけど、それがどうしてだったのかはイマイチ思い出せない。


「って、せん、ぱい……? どうして、いる、ん、ですか」

「あ、ようやく気付いたのか」


 その人は、くしゃっと笑う。

 声を聞けば、相手が誰なのかはすぐに分かった。

 百瀬先輩だ。

 まさか、風邪のせいで幻を見てる?


 ただでさえガンガン頭が痛むのに、考えなきゃいけないことが――


「あぁ、悪い悪い。今は難しいことは考えずに寝てろ。ほら、いい子だから」


 重い頭に優しい手が触れた。

 よし、よし、と百瀬先輩が私を撫でている。

 色々と言いたいことはあるのに、その日だまりのような温もりにほぐされていった。頭痛がほんの少しだけ和らぐ。

 ふっ、と百瀬先輩が微笑んだ。


「飯、食えるか?」

「……無理です」

「だよな。その体勢だと食えないだろうし……けどこの薬、食後用なんだよなぁ」


 ぶつぶつと呟く百瀬先輩。

 声を聞いていると落ち着いてしまうのが、何だかとても不服だった。


 どうして来てくれたことが、こんなにも嬉しいんだろう。

 夢なら覚めないで、なんて思っているんだろう。


「そうだ。ゼリーなら食えないか?」

「……ゼリー、ですか」

「そう。この前、上手そうに食ってただろ」

「…………それなら、なんとか」


 よかった、と百瀬先輩のほっとした声。

 がさごそと何かを漁り始めた百瀬先輩は、やがてゼリーとスプーンを取り出した。


「自分では……食えなさそうだな。しょうがない。食べさせるけど、我慢しろよ」


 スプーンで掬われたゼリーが私の口元まで運ばれる。

 俗に言う、あーん……なんて。そんな風に意識していられるほど、体に余裕がない。気怠いまま何とか口を開けると、その僅かな隙間にスプーンが差し込まれた。


「ん……おいしい」


 ゼリーは、サイダーの味だった。

 爽やかで、ちょっとだけしゅわっとしている。夏ならではって感じがするし、私はサイダー味のゼリーに少し思い出がある。

 一口、二口と私は食べ進めた。


「おぉ、完食か。凄いな」

「別に。量、ちょっとでしたし」

「食えただけでいいんだよ。ほら、後は薬飲んでもう一回寝ろ。話は目が覚めてからだ」


 三錠の風邪薬と、コップに入った水が渡される。

 言われるがまま飲んで、口の端から伝う水を指で拭った。


「ポカリ、ここ置いておく。俺はちょっと色々準備してくるから、なんかあったら呼んでくれ。どんなに小声でも駆けつけるから」

「……っ。はい」


 鼓動の速度が上がったのは、風邪のせいだろうか。

 何か余計な言葉まで零れてしまう気がして、私はきゅっと唇を結んだ。


「おやすみ、大河」

「……おやすみなさい」


 そんな風に誰かに言ってほしかった、なんて。

 口が裂けても言えないから。

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