3章#17 貴重でしょ?

 お菓子究会へ審査にいってから数日後。

 どうやら梅雨が本格的になったらしく、ここ数日、雨は降りやんでいない。

 そうなると気分もどんどん億劫になるのが常なのだけど、世の中にはむしろ雨の方がテンションが上がる人種というのもいる。


「――と、今日はこんなもんか」

「ですね……なんか、疲れました」

「俺もだ。すごかったな、文芸部」


 木曜日。

 紙が散乱した文芸部の部室から出た俺と大河は、疲れきった声を漏らした。


 お察しの通り、今日も今日とて七夕フェスのための審査である。今日アポが取れていたのは文芸部だったので放課後すぐに訪れたところ、それから一時間近く、割とどうでもいいことをべらべらと語られてしまった。


「結局、文集を出すってことでよかったんでしょうか?」

「あぁ。例年、文芸部は前の年に余った文集を出すらしいからな。今回もそうっぽい」


 そう分かっていても審査しに来ないわけにもいかなかったので、渋々ながら来たらこれである。完全に余計な時間と気力をすり減らしてしまった。


「部数とかの確認はしておいたし、とりあえずは大丈夫だろ。チラっと見たけど、文集自体はそこそこ面白かったし」

「そうなんですか? なのに話すのは……と、こういう陰口はよくないですね。失礼しました」

「陰口ってより単なる愚痴だと思うけどな」


 そもそも、物書きが喋るのも上手いとは限らない。いい文章だって声に出したら退屈に感じる、ということだってあるし。もちろん読んでも声に出しても最高な文章もあるけどな。


 結局のところ、どんなにものにでも様々な面がある。

 そういうことなのだ……って、俺は何を考えてるんだろう? 頭が疲れすぎて変な方向にいっている。


「ま、とりあえず今日はここで解散だな」

「はい。それではモモ先輩、お気をつけて」

「そっちもな」


 雨脚は強いが、だからって送る義務も権利も理由もない。

 大河と別れた俺は、その足で教室に戻る。今朝買った飲み物を机に忘れてきてしまったのだ。


 ざー、ざー。

 シャワーの如く降り注ぐ雨は、痛いくらいに窓を叩く。針のようだな、と思った。さっさと帰れと叱られているような感じがして、こっそり苦笑する。


「あっ」


 二年A組の教室には、誰もいなかった。

 もとい、正しく表現するならば――ただ一人を除いて、誰もいなかった。

 それなのに『誰もいない』と表現したのは、ひとえに机から窓を眺めるその少女が儚くて雨に流されてしまいそうだったからだろう。


 感傷的な脳裏にチラついたのは、以前古文で学んだ和歌だった。


『詫びぬれば 今はた同じ 難波なる

 みをつくしても あはむとぞ思ふ』


 澪標って言葉があるんだな。そうぼんやりと思ったんだっけ。


「知らないかもしれないから教えてやるよ。机は座るものじゃないんだぞ?」

「んっ……あぁ、兄さんか」


 学校で口にすべきでない呼称にドキリとする。

 まぁ、教室には俺たち以外に誰もいないのだ。万一のときにも、幾らでも誤魔化しようはある。

 そう納得しているのは、少しでも長く美緒を感じたいからなのかもしれなかった。


「いいんだよ。妹は兄すら椅子にするものなんでしょ?」

「どこから仕入れてきた、その歪んだ妹観」

「ライトノベル」

「最近はツンデレ妹も減ったよなぁ……俺的には戻ってきてほしいって思ってるんだけど」


 俺がしみじみと言うと、美緒はひょいっと俺の机から降りて、こちらに近寄ってきた。


「兄さんは……私にツンデレをしてほしいの?」


 からかうような口調。

 けれど本気なんだろうな、とも悟る。


 この数か月を通して分かったことだが、彼女は天性の演技力を持っている。

 或いは、適応能力、だろうか。

 これは百瀬美緒ではなく、綾辻澪の話。きっと彼女は、美緒以外にでも容易くなれてしまう。自分以外になることに、一切の躊躇いがないのだ。


 だから、俺が望めばその通りに変わってくれる。

 俺の望む美緒になってくれるんだ。


「違ぇよ。あれは二次元だから輝くんだ。というか美緒の場合、ツンデレよりはクーデレじゃないか?」

「私、そこまでクールかな」

「どうだろうな。傍から見れば無口だし、クールに見えてるかもしれないぞ」

「ふぅん」


 興味があるのかないのか分からない態度を取りながら、美緒は、はい、と俺にペットボトルを手渡してくる。


「気付いてたのか」

「まぁね。取りに来ると思ってたから待ってた」

「……っ、そか」


 熱を帯びた言葉のせいでペットボトルを落としそうになる。

 ふぅ、と溜息に色んなものを混ぜて吐いた。


「待ってたならメッセージくれよ。そしたら生徒会の仕事だって早く切り上げた」

「別に、そこまでのことでもないから。来ないなら私が持って帰ればよかったし……それに、兄さんを待つ時間も私は好きなの」

「…………変わった趣味だな」

「そうでもないよ。だって……二人っきりになれる時間、貴重でしょ?」


 こてんと首を傾げる美緒。全くその通りだな、と思う。

 美緒と夜を共にしたのは、あのカラオケの日が最後だ。あれ以来、俺たちは雫がお風呂に入っている間だけ、秘密の恋人として触れ合っている。

 それが正しい在り方なのだ。

 そう頭では分かっていても、求める気持ちは消えない。


 春に比べると長くなった髪がさらりと揺れる。もううなじは僅かな隙間からしか覗けない。何気なく、俺は美緒の髪を摘まんだ。


「……どしたの?」

「え、あぁ。髪伸びたなって」


 そうだね、と美緒が言う。


「私、髪伸びるの早いんだ。だからここ数年はちょくちょく美容院行ってたんだけど……」

「けど?」

「たまには伸ばすのもいいかなって。兄さんに洗ってもらい甲斐がありそうだし?」


 ね、と悪戯っぽく付け加える美緒。

 夜を仕舞い込んだ宝箱みたいな瞳を正視していられなくて、俺は目を逸らした。


「なーんて、冗談。流石に高校生にもなって兄さんと一緒にお風呂には入らないよ。少なくとも特別なとき以外は」

「……そう思うなら、兄をからかうな。雫に似たのか?」

「かも。下の子歴で言えばあの子の方が先輩だし」

「先輩の概念がゲシュタルト崩壊してるな」


 ぷっ、と二人で吹き出す。

 笑い止んだところで、俺は教室の時計を見遣った。今すぐ帰らないといけないほど遅くはないが、そこそこいい時間だ。


「俺はもう帰るけど、美緒はどうする?」

「私も帰るよ。元々そのつもりだったし」

「そうか。じゃあ――」


 帰るか、と言いかけて止める。

 ぎりぎりのところで理性が働いたと言うべきか。


「悪い、流石に二人で家帰るのはよくないな。他の奴ならともかく、相手が美緒だと変な噂が立ちかねないから」


 俺の彼女は雫だ。

 こういう言い方はあれだが、雫と比べて明らかに劣るような相手であれば、あらぬ噂が立つ可能性も低いと思う。

 でも綾辻は雫かそれ以上に美少女だし、姉妹だ。俺と関わる機会も多いし、噂になってしまう危険性は高いだろう。


 それに、俺が綾辻と付き合ってる、という噂も以前流れていた。下手に動いてそれを悪化させてしまえば、俺のプランにもノイズが生じかねない。

 しかし美緒はふるふると首を横に振った。


「大丈夫だよ。そこは私がどうにかするから」

「……どうにか?」

「そ。眼鏡持ってきてたら貸してくれる?」

「え、別にそれはいいけど。それでどうするんだよ」


 俺の問いに、美緒は口の形だけで答える。


『ないしょ』、と。


 そう言われてしまうと、もうこれ以上は何も言えない。

 妹に振り回されるのが兄って生き物だしな。


「先に玄関行ってて。準備したら私も行くから」

「…………分かった。待ってる」


 美緒に眼鏡を渡した俺は、一足先に教室を後にした。

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