3章#08 先輩っ、私もぉ……
SIDE:澪
私が部屋に戻ってから暫くして、彼は戻ってきた。さっきまであんなことをしてきたくせに、ちっともそんな様子を見せない顔。私の顔を見ても大して動揺してくれない。当然だ、今の私は綾辻澪になってしまっているのだから。
体を冷やすために、ちゅるちゅるとアイスコーヒーを飲む。
ガムシロップをたっぷり入れた。
今日はとびっきり甘いのがよかったから。
「さてと。今日はそろそろ解散にするか」
暫く経って、定刻5分前を告げる電話がぴぴぴっと鳴った。それを受けた八雲くんの言葉に反対する人はいなくて、打ち上げはお開きになる。
後片付けをしていると、クラスの人が話しかけてきた。
「ねぇねぇ、綾辻さん。さっきの話さ、真剣に考えてみてね」
「さっき?」
「うん、文化祭のこと。綾辻さんがやってくれるならウチらも頑張るし」
そのことか、と納得する。
同時に少し驚いた。話の流れで出ただけの提案だと思っていたのだ。でも私が思っていた以上に本気だったらしい。
そういえば、と思い出す。
私は去年さほど興味を抱いていなかったけれど、うちの学校は三大祭と呼ばれる行事にかなり力を入れている。秋の文化祭と冬の冬星祭は、体育祭以上に準備に時間をかけることができるので、とても盛大なイベントになるのだ。
「えっと……ん。考えてみる」
「うん! もしやるなら夏休みから皆で準備しようね! 脚本とかも考えなきゃだし……演劇部に負けないように頑張らなくちゃ」
「もう、あんたは気が早いって。百瀬くんだって渋い顔してたでしょ?」
「それもそっかー」
やんわり拒絶……できてないな、今のは。
まぁ別にいい。まだやりたいわけでも、やりたくないわけでもない。目立つのは好きじゃないけれど、美緒ちゃんはイベントごとに積極的な子だったかもしれないし。
カラオケボックスを出て、会計を済ませた。
もう片方の部屋にいた人たちとも合流すると、この後はどうしようか、という空気になる。
「どうする? ちょっと遅いけど、なんか飯でも食いに行く?」
「あー、こっちはカラオケで食ってたからパス。もう結構いい時間だし」
「それもそっか。じゃあ解散?」
「それでいいんじゃないか。あとは各自、行きたいところとかが被ってれば一緒に行けばいいし」
彼を入れた何人かのやり取りに、他の皆も同意する。
私としてはどちらでもよかった。
ただ彼の傍にいられれば今日はそれでいい。学校では、彼女である雫に譲らなくちゃいけないから。
解散と言いつつも、やはり帰宅というわけではなさそうだった。
私に文化祭のことで声をかけてきた女子たちは、駅ビルにできたマンゴードリンクショップへ行くらしい。
「なぁなぁ、友斗たちはどーする? どうせだし、四人でどっか行こうぜ。なんなら友斗の彼女へのプレゼント探しでもいいぜ」
「プレゼントって……別に誕生日でもないのに渡すのか?」
「付き合いたてなら、なんか渡しておいた方がいいじゃん。何ならペアリンぐふっ」
話を進める八雲くんに彼がチョップをした。
彼は、はぁ、と肩を竦める。
「別にいいんだよ、そういうのは。付き合ったって言っても、何かが大きく変わるわけじゃない。というか姉の前で妹へのプレゼントを選ぶのはなかなかにハードル高いだろうが」
「ちぇっ」
「だから今日は解散だ。お前も、これから彼女とのデートを満喫してればいいんだよ」
そうだな、と八雲くんは満面の笑みで応じた。
そんな八雲くんに、如月さんは微笑ましそうな視線を向けている。てっきり八雲くんの方が上手なのかと思っていたけれど、どうやら二人はそれとは真逆の関係性らしい。
如月さんの圧を考えたら、分からなくもないけど。
だってほら。いつの間にか『澪ちゃん』って呼ぶこと許しちゃってるし。
「じゃあ、またな」
「えぇ。生徒会でよろしくね」
「また誘うからな! 今度は……勉強会か」
「澪ちゃんも、バイバイ」
「ん……また」
挨拶し終えると、二人はトコトコと歩いていく。あの先にあるのは……確かアニメや漫画のグッズが置いてある専門店だったはず。
少し可笑しくて、くすっ、と笑みが零れた。
「ふぅ。とりあえず終わったな」
「うん。また二人っきりになったね、兄さん」
「…………だな」
目を逸らしたのは、二人っきりであることを意識しちゃったから?
さっきのことを、思い出してくれたから?
あなたがそうやって目を逸らすのも好き。
顎のラインとか、喉仏とか、実は毎朝きちんと手入れをしている肌とか。
そういうのが太陽の光に照らされて、瑞々しく見える。
「帰る?」
「のもいいけど……微妙な時間だしな。食事当番だし、雫への授業料を買っていきたい」
「またいつものケーキ?」
「いつもの、とか思ってたの? 料理教わるたびにめちゃくちゃ考えてたんだけど」
くしゃっ、と困ったように皴を寄せて笑う。
「困ったことがあるとケーキを買っていくって、結婚生活3年目の旦那みたいだよね」
「それを彼女の姉に言われる俺の気持ちを考えてくれ」
「私、誰かさんより国語は苦手だから」
「あ、地味にテストの結果引きずってたのね」
もちろんだ。
彼に並ばれたときは、ほんのりと怒れた。雫との勉強会のおかげだって言われているみたいだったから。
「で、どうする? 今日もケーキ?」
「……適当な雑貨でも見ていくかなぁ」
「それがいいよ。行こう、兄さん」
手を差し出す。
彼はふっと微笑んでから握ってくれた。
指を絡める繋ぎ方。
大丈夫。こっそり、私たちは恋人になる。
「選ぶの手伝ってくれよ?」
「私にあの子へのプレゼントを選ばせるなんて最低だね」
「……嫌か?」
「ううん、全然。だってあの子は、兄さんが私にできないことをされてくれてるんだよ? ちょっとくらい、私からもお礼しておかないとね」
今の私にとって、雫は妹じゃない。兄さんの表向きの彼女だ。
綾辻澪は要らない。
そのことが心地よくて、私は美緒ちゃんに沈んでいった。
◇
SIDE:雫
眠れないのはきっと、心がふわふわしているせいだった。
もう日付が変わってしまい、真夜中と呼んじゃっていいくらい遅い時間になっている。部屋の電気は消した。ちょっとだけ月明かりが入ってきて、私の意識はぼーっとなる。見つめるのは、先輩から貰ったばかりのヘアミストの瓶だった。
『これ、雫にな。いつも料理教えてもらってるし、その礼ってことで』
普段から、先輩は私にちょっとしたデザートを買ってきてくれる。コンビニで買うような手頃な価格のケーキばかりだけど、そのご褒美がいつもすっごく嬉しかった。
だから今日のプレゼントが食べ物じゃなかったとき、かなり驚いた。
『……ヘアミスト、ですか?』
『あぁ。悪ぃ、ケーキとかの方がよかったか?』
『そ、そんなことないですっ! てゆーか、いつもケーキ買ってこられちゃうと、乙女的には体重が気になりますし!』
ほんとに嬉しいです、と先輩に伝える。
この気持ちは嘘じゃない。関係が変わったんだな、先輩の彼女になれたんだな、って。そんな感じがするから。
気がかりは一つだけ。
これを選んだのは誰なんだろう、ってこと。
『あの、先輩……』
『ん?』
先輩がヘアミストなんて選ぶとは思えない。もっと激重なアクセサリーとか、斜め下に行ったアニメグッズとか、そういうのをプレゼントしてくる人だ。
だからきっと……。
でも、聞くのは怖い。お姉ちゃんと選んだんですか?って。そんな風に聞いちゃって、肯定されたら惨めだ。
だから代わりに、小悪魔な後輩らしく言ってのける。
『俺の匂いで染まってくれ、って意味ですよねっ?』
『は? あ、いや別に――』
『いいですよ、先輩の匂いに染まります。先輩色になります。だって私、先輩の彼女ですから。いっっっぱい見せびらかしちゃいます』
何故かは知らないけど、お姉ちゃんと先輩は関係を秘密にしている。“そういうこと”をしてる以上は何かしらの関係があるはずなのに……決して誰にも見せず、それどころか先輩は私と付き合った。
分からないことは分からない。私にできることは、彼女の特権を振りかざすことだけ。
『ありがとうございます、ダーリン♡』
だからね、私。
今眠れないのは、初めて彼氏からプレゼントを貰って心がふわふわしてるからなの。それ以外に、理由なんてないの。
お姉ちゃんが先輩の部屋に入っていったこととか、言葉を判別できないくらいに薄っすら聞こえる壁越しの喘ぎ声とか、そういうのは関係ないんだよ。
ないったらない。ないの。ないないないない――。
「先輩っ、私もぉ……」
私は体の疼きを感じて、ヘアミストの瓶を取った。しゅっしゅっ、と手に振りまく。金木犀の匂い。先輩がくれた、匂い。すぅぅぅぅっと吸い込みながら、もう片方の手で自分の体をなぞる。
先輩に揉んでもらいたい胸、撫ででもらいたいお腹、そして……。
「んっ!? っ、これっ、んぁ」
こういうことをするのは初めてだった。でも、やり方は手に取るように分かる。私は枕にヘアミストを振りかけて、ぎゅっっ、と顔を埋めた。これで声は漏れないはず。
「へんふぁい、へんふぁいへんふぁいへんふぁい」
先輩、と何度も呼ぶ。想う。恋う。
ああ、私ってほんと汚い女。そして惨めな女。でもシてほしいの。先輩にいっぱい、いっぱいいっぱい……彼女だって知らしめてほしい。
「あっ、あっあっ、あ~~~~っ!」
体中に電流が走った。
空の向こうに飛んで行っちゃったみたいに頭が真っ白になって、何も考えずに済んだ。一瞬の、気持ちいい感覚。体もくたくたになって、眠気が押し寄せてくる。
「せん、ぱい」
目が覚めたら、ちゃんと綺麗な彼女をするの。
先輩の隣にいて、皆に認められて祝福される彼女。正しいラブコメヒロインになるんだ。
うと、うと、と眠りに落ちていく。
結構下着って濡れちゃうんだな、とぼやけた頭で思った。
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