3章#05 兄さん、あの子にデレデレだった……

 誕生日の翌日。

 体育祭の疲れがすっかり抜けているのは、まだ若い証なのだろう。朝飯を昨日残ったケーキで済ませた俺は、シャワーを浴びてから出かける準備をした。

 打ち上げの集合は11時。

 今のところ、三十人ほどがくるらしい。あんまり多いのでカラオケの部屋が確保できるのか心配になったが、その辺りは八雲がきっちり手配してあるとのこと。流石に抜かりがない。


「つーわけで、行ってくるわ」

「行ってらっしゃい、です。楽しんできてくださいね」

「おう」

「お姉ちゃんも! 楽しんでねっ!」

「うん。程ほどに楽しんでくるよ」


 玄関先で見送られるのは俺と綾辻だ。妹の彼氏との距離を弁えているとばかりに数歩俺から離れている。

 こうして見送られるのはくすぐったくて堪らない。もしも雫と俺の二人だけだったなら、新婚みたいだ、なんてからかわれていたことだろう。


 けれど、実際はそうならなかった。

 俺と綾辻は二人で同時に出ることにした。そもそも同じ場所から同じ場所へ向かうのだから、バラバラに出る方が不自然で意味深な行動になってしまうだろう。

 ……ただそれだけのこと、と言ってしまえば嘘になるのだが。


 改めて、じゃあな、と雫に告げてから綾辻とともに家を出る。

 暫く、俺たちは何も喋らずに歩いた。家から距離を取り、もう大丈夫だろう、とどちらともなく安堵の息を漏らす。


 そして綾辻は、美緒に戻る。


「兄さん、あの子にデレデレだった……」

「彼女、だからな」

「……分かってるけど! むっとしちゃうのはしょうがないことだと思う!」


 どこか浮ついた口調で美緒が抗議してくる。それは俺を責めるというよりも、拗ねて見せているような感じがした。

 可愛いな、と思う。だからというわけでもないけれど、俺はデートのマナーとして、美緒の服装に目を向けた。


 今日の美緒は、ミントグリーンのパーカーを着ていた。背中側についている三つのリボンがガーリーで、白いロングスカートとよく合っている。

 おしゃれには疎いので、多分という但し書きをつけなきゃいけないのが情けないところだが。


 ま、俺の感想だけが俺の正解だ。俺はわずかな逡巡を払いのけ、口を開く。


「似合ってるな、その服」

「でしょ。この前買ったんだ。兄さんはこういうのが好きかなって思って」

「……っ、そ、そうか」


 どくん、と素直に心臓が跳ねる。

 美緒はそんな俺にふっと微笑んだかと思うと、俺を先導するように言った。


「こんなところで話してたら電車に遅れるし、そろそろ行こ」


 そうだな、と頷く。

 改札へと向かう美緒の背中を見つめていたら、途端に俺は頭が真っ白になった。なんだかぐんぐんと、どこまでも遠くに行ってしまう気がしたのだ。

 しくしくと誰かが泣いている。誰かは分からない。俺、なんてシンプルな答えじゃないだろう?


 ぼーっとしていた俺に気付いた美緒はこちらを振り返り、はてと首を傾げた。


「何やってるの、兄さん」

「いや、なんでもない。ちょっとぼぅっとしてただけだ」

「ふぅん」


 それならいいけど。

 そう呟いた美緒は、手を差し出してきた。耳の先だけがほんのサーモンピンクに染まっている。


「兄妹でも手くらい繋ぐでしょ?」

「……そうだな」


 仲のいい兄妹なら、俺たちくらいの年になっても手を繋いだりするはずだ。きっとそうに違いないから、美緒は誘ってくる。


「じゃあ、繋いで?」

「喜んで。……打ち上げをばっくれようとしても困るしな」

「それならちゃんと握っとかなきゃ、だね」


 ぎゅっ、と握った。

 普通の繋ぎ方じゃ足りないから、指を絡める方で。兄妹がしちゃいけない繋ぎ方。悪いことだけど……きっと、この程度は遠目じゃ見えないから大丈夫。勝手にそう思い込む。


「美緒って体温低いよな」

「……セクハラ?」

「過去の経験から言ってるわけじゃないからな?!」


 冬になったら手袋をあげよう。

 なんとなく、そんな考えが湧いた。



 ◇



「電車ってさ、なんだか緊張しない?」

「分からなくはないな。電車通学じゃないし」

「小学校の頃から徒歩通学続けてきた弊害だよ。みんな、中学校で電車通学に慣れてるみたいだけど」


 俺たちの家は多摩川駅と田園調布駅の間にある。

 この辺の地理に詳しくない人に言っても伝わらないだろうけど、多摩川駅は小さい割に便利な駅だ。

 数分で武蔵小杉に行けるし、渋谷や目黒に行くのもさほど手間ではない。俺は田園調布という街は好きじゃないが、この利便性だけはやはり捨てがたいと感じている。


 今日の目的地は蒲田だ。

 多摩川線に乗ったら、あとはガタゴトと揺られるだけ。乗り換えの手間がないので戸惑う要素なんてないはずなんだけど、電車慣れしていない美緒は不安になっているらしかった。


 かくいう俺も電車通学じゃないから電車に慣れてないんだけどな。

 英検を受けに行ったとき、めちゃくちゃソワソワしたのは記憶に新しい。


「…………」

「…………」

「……ん」


 沈黙が続く。

 そもそも俺と美緒は会話の応酬で時間を潰すより、ゆったり流れる沈黙を味わうタイプだ。家で二人でいるときも、ぽつぽつと途切れながら会話することが多い。とりわけ電車のような密室空間では、周囲の目が気になって全く話さなくなってしまう。

 こういうところも慣れてない証拠なんだろうな。

 電車だけじゃなくて、人との関わり方とかにも、俺たちは慣れてない。


【ゆーと:カラオケ、美緒も歌うのか?】


 一度黙り込むと再び口を開くのにすら躊躇してしまうから、子供っぽいと理解しつつもRINEでメッセージを送る。

 美緒は通知に気付くと、こちらを一瞥した。なるほど、とすぐに俺の考えを汲んでくれる。


【MIO:歌ってほしい?】

【ゆーと:さぁ。そもそも上手いかどうか知らないからな】

【MIO:ふぅん】


 美緒は、にぃと挑発的に口の端を上げた。


【MIO:兄さん、覚えてないんだ】

【ゆーと:何を?】

【MIO:合唱コン。中学のときの】


 一瞬、頭にノイズが走る。当然だ。美緒が言っているのは綾辻の中学時代であって、美緒の話ではない。だけど、すぐにバグを脳内で修正する。そうだ、そういう過去もあった。美緒と綾辻の境界をかき混ぜて、思い出す。


 そういえばうちのクラス、誰かさんのソロパートが無茶苦茶人気だったんだよな。一年生の頃に三年生を差し置いて最優秀賞と取ってたから、一時期そこそこ話題になっていた。


【ゆーと:思い出した。めっちゃ上手かったよな】


 少し誇らしげなインコのスタンプが返ってきた。


【MIO:まぁ二年生からはセーブしたんだけどね。面倒だったし】


 合唱コンのことを俺が忘れていたのも、それが原因かもしれない。単にあの頃は精神的に余裕がなかっただけかもしれないけど。


【ゆーと:ま、安心しろ。今日は人数が多いから歌わずに済ませられそうだし】

【MIO:別に歌わないなんて言ってないけど】

【ゆーと:面倒なことになるかもしれないぞ?】


 あくまでクラスの打ち上げでしかないが、美緒は今や入江恵海に並ぶ校内2位の美少女になっている。

 そんな俺の懸念を知ってか知らずか、美緒はふっと微笑んだ。


【MIO:大丈夫】

【MIO:そのときは兄さんがどうにかしてくれるはずだから】


 そのメッセージを読んで、きゅっと胸が締め付けられた。

 美緒に頼られることの心地よさにクラクラしそうだ。気持ち悪い笑みを浮かべてしまっていると自覚しながら、誤魔化すように俺は口を開く。


「むしろ俺は美緒の歌、聞きたいけどなぁ」

「……兄さんの裏切者」

「そんな恨めしい目で見るほどか……!?」


 ぷっ、と二人で吹き出す。

 周囲の目は、もう気にならなくなっていた。

 冗談冗談、と美緒が言う。


「せっかくのカラオケだもん。私も歌うつもりだよ」

「そっか……それは楽しみだな」

「うん、上手く歌えるかは分からないけど」


 まるで方舟みたいに電車が進む。

 窓に薄っすらと映る美緒の顔が、俺にはとても柔らかく見えた。

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