3章#02 本当の彼女は私だもんね?
誕生日。
それは年に一度の記念日だ。
大人になれば喜ぶべき日ではなくなるのかもしれない。また一つ年を取った、と嘆きたくなる人だっているだろう。
友達がいなかった俺はせいぜい家族ぐらいにしか祝われたことがないのだけど、やっぱり記念日という感覚が強い。
5月31日。今日は俺の17歳の誕生日だったりする。
月の最後に生まれたというのがなんだかかっこよく思えて、美緒に自慢したことがあったっけ。
寝起きの俺は、ぼやけた頭でそんなことを思い出してい――
「――おはようございますっ、先輩!」
気持ちのいいモノローグを打ち切ったのは、眩しいくらいに弾けた『おはよう』だった。いつも俺を起こしてくれる美緒は、こんな無邪気で燦々とした声を出さない。
ドアの方に目を向けると、あれっ、と残念そうにしている雫がいた。
「なんだ、もう起きてたんですね。私が起こしてあげようと思ったのに」
「んあ……今起きたばっかだ」
「それは分かります。髪ぼさぼさですし、顔もヤバいですもん」
「自覚してるからあんまり言わないでね? 傷付いちゃうから」
顔を洗わないとシャキッとしないタチなのだ。昨日は特に疲れたから尚更。
「ふふっ。よだれの跡もついてますよ。だらしないなぁ」
「……悪かった。顔洗ってくるから」
「いいですよ、謝らなくて。こーいうのいいなって思ってたので」
「さいですか」
まだイマイチ頭がぽわぽわしている。
気の利いた台詞が思いつかなかったので素直に諦め、ベッドから起き上がった。
「ふふっ。先輩、おはようございます」
「ん。おはようさん」
「それと……誕生日、おめでとうございます。今日はお祝いしなくちゃですね」
「そう、だな」
少しだけ訂正。
家族以外でも一人だけ、毎年のように祝ってくれる奴がいた。その子は今俺の彼女になって、こうして起こしに来てくれている。
「ありがとさん。じゃあ今日を始めますかね」
何と言っても、今日は土曜日。
天気もいいし、まさに誕生日日和って感じだ。
「あっ、はい♪ でもその前に――」
「うん?」
急に近づいてくる雫。どうしたんだ?と尋ねる間もなく、ちゅぷり、と耳のすぐそばでリップ音が鳴った。
頬が濡れる。
遅れて、ああなるほど、と今された行為を実感した。
「えへへ。おはようのキスはマストかな~って思ったんです。げ、ゲームだとおはようついでにエッチなこともしてましたけど……まだ準備ができてなくて」
「雫がやってるのは全年齢版って言ってたよな!?」
「そこは雰囲気で察するんですっ! べ、別に私がそーゆうのに興味津々とかじゃないので!」
「いや、そうは言ってないけどな……」
というか、この話題を続けると墓穴を掘りかねない。なのにツッコミを入れてしまったのは、どう考えても目が覚めていないせいだった。
んんっ、と咳払いをし、気まずくなった空気を断ち切る。
「ほら、とりあえず着替えるからとっとと出ていけって」
「むぅ。彼女を追い出すなんて酷くないですー?」
「酷くありません。ほら、いいから」
不服そうにむくれながらも、雫は大人しく部屋を出ていく。
頬から消えつつあったキスの感覚を指でなぞり、はぁ、と吐息を零した。
◇
「兄さん」
と、俺を呼ぶ声がした。
誰なのかは考えずとも分かる。振り返れば、部屋着姿の美緒がいた。美緒は土日でもかなり規則正しい生活を送っている。今日も俺より先に起きていたみたいだ。
「雫は?」
「もう出かけたな。なるべく早く帰ってくるって意気込んでた」
「あの子らしいなぁ」
くす、と微笑を漏らす。
何でも、雫は体育祭で忙しくてプレゼントを買えていなかったらしい。別にプレゼントなんてなくてもいいのだけど、雫はそれを良しとしなかった。
わざわざ本人に宣言して買いに行くところとか、早く帰ってこようとするところとか、呆れるくらいに雫らしいと思う。
そっか、と呟いて、美緒は俺の隣に腰かけた。
革張りのソファーが僅かに沈む。
「それで……兄さん。私に報告することは?」
悪戯をするように言われて、そりゃそうか、と俺は苦笑した。
入江妹に対してそうであるように、美緒に対してもまた、話すべきことがたくさんある。雫を振ると言っておきながら、あんな結果になったんだ。裏切りだと捉えられてもおかしくないし、そのことについての謝罪は必要だろう。
「雫と付き合うことになった」
「うん」
「付き合わないだとか、美緒だけだとか言ったくせに……すまん」
今は綾辻としてではなく美緒として、報告をする。自分の声がどう届いているかが不安になって美緒を見遣れば、ふんありと道端のたんぽぽみたいな微笑みが返ってきた。
「兄さんの嘘つき――」
「っ!?」
「――なんて、言わないよ。何となく分かってたもん。兄さんはあの子を無視できないだろうな、って」
じっと美緒が俺を見つめる。太ももに置いていた左手に、美緒の右手が重ねられた。指の隙間に細い指を挿入し、恋人繋ぎのなりそこないみたいな繋ぎ目ができる。
春からだいぶ伸びた髪を耳にかけると、美緒は俺の顔を覗き込むようにしながら言った。
「あの子は可愛い後輩だもんね」
「そりゃあ、小学校から一緒だしな」
「守ってあげたい相手で、放っておけない女の子」
「……まあな」
「初代私の代わり、だもんね」
「…っ」
美緒には、どうして俺が雫と関わるようになったのかを話した。だから当然、俺の気持ちだって分かってしまう。
雫のことも美緒の代わりにしている。
そんな事実に、気付くのだ。
「浮気者」
「…………」
「『なんて、言わないよ』を待ってた? だとしたら残念。今度は私の本音だよ。兄さんったら、すごく浮気者。私じゃ満足できないなんて」
と口にするくせに、美緒の口調には俺を責めるような色はない。肘と肘が重なった。夏の足音が聞こえ、だんだんと蒸し暑くなっているはずなのに、美緒にベタベタされても嫌だとは思わない。
美緒は体を捩り、俺の耳元へと口を近づける。
「本当の彼女は私だもんね?」
「それは…っ」
「皆に知られてる、皆が認めてる彼女はあの子かもしれない。でも本当の彼女は私だよね?」
そうだ、とはっきり答えることが躊躇われた。すぐさま否定したりしない時点で、YESと言っているようなものなのに。
俺が何も言えずにいると、美緒は続けて言う。
「私にできないこと、あの子で代わりにしてきていいよ。私は秘密の彼女だから。兄さんの妹だから。誰にも言えない特別でいいの」
「……美緒」
美緒の言っていることは間違いじゃない。何一つ間違っていないから、ただの一つも正しいことがないのだ。
だからなんだ、と開き直る。
分かったよと告げると、美緒は満足げに頷いた。
「話は変わるけどさ。明日は兄さんも行く?」
「明日……?」
はて、明日は何かあっただろうか。
首を傾げる俺に、澪がムッとした様子を見せた。
「クラスライン。兄さんが入れって言うから入ったのに」
「あ゛」
不機嫌なその声が、体育祭準備期間での会話を思い出させる。
クラス内で体育祭のことを話すことも意外と多く、練習のスケジュール確認などをするためにも澪をクラスラインに勧誘していたのだ。
そして昨晩、クラスラインにはとあるメッセージが投下されていた。
【HARUHIKO:前から話してたけど、打ち上げって明日でいいよな?】
【HARUHIKO:打ち上げって言ってもカラオケになりそうだけど】
こういうとき、八雲は如才ない。
彼女がいて妬まれていても嫌われはしないのは、こんな明るさというか気の良さのおかげなのだろう。
学級委員二名はどっちも幹事には適正がないからな。実に助かる。
「って、明日行くつもりなのか?」
美緒は『兄さんは』じゃなく『兄さんも』と言っていた。
俺が聞けば、美緒は不服げに目を細める。
「私が行くの、変だと思う?」
「変っつうか……だってほら。クラスの奴らとそこまで仲良くないじゃん」
「そこまでじゃないよ。最近はちょっとだけ話すようになったから」
嘘のようには聞こえなかった。事実、始業式の日よりはだいぶマシになっているのだろう。体育祭の練習を経て、クラスと多少なりとも話すようになっていた。
問題は体育祭って名目がなくなり、一気に関係がリセットされること。俺にも言えることだが、ぼっち体質の奴はイベント後に関係がリセットされてしまいがちなのだ。
「美緒が行くなら、俺も行くかなぁ」
「よかった。……じゃあ、一緒に行こうね」
「そう…だな」
強いて断る理由もない。どころか、わざわざバラけていく方が『やましいことがある』と言っているようなものだろう。
もっとも、クラスの奴らは俺たちが同居していることを知らない。その辺りは上手いこと言い訳をする必要があるだろうが……ま、それはさほど大変じゃない。
「兄さんとのデート、楽しみ」
「デートじゃなくて打ち上げだし、メンツも俺だけじゃないけどな?」
「でも現地に着くまではデートだよ。だから楽しみなの」
「そっか」
俺と美緒は秘密の恋人。
だから大っぴらにはデートができない。しちゃいけない。赤の他人なんかじゃなくて、兄妹なんだから。
だから……貴重なデートの機会なのだ、これは。
「楽しみだな」
「うん。それと……兄さん、誕生日おめでとう」
「その言葉はもう、貰ったよ。キスとセットでな」
「………………バレてたんだ」
「夢かとも思ったけどな」
俺は雫が来る前に起きていた。だって、美緒がキスをしていったから。おおかた俺を起こす権利は雫に譲ったのだろう。
リビングで会って、真っ先に『誕生日おめでとう』と言ってこなかったので、きっとキスをしにきたときに言ってたんだろうな、と察した。おかげで夢じゃないと気付けたわけだ。
「上書きだよ、兄さん」
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