2章#30 確かめなきゃ
SIDE:大河
「やっぱり合宿と言ったら恋バナだよね!」
勉強合宿の夜。
ぽつぽつと天気雨の音が聞こえる真っ暗な部屋の中で、私の友達が言った。
ひそひそと秘め事を話すかのように囁いているのに、その声には紛れもなく興奮が滲んでいる。
彼女の名前は綾辻雫。
第一印象はちょっと眩しい人、だった。
華のJKという言い方は些か古いかもしれないけど、イメージとしてはそんな感じ。可愛くて、明るくて。
退屈で偏屈な私とは遠い存在だと思っていた。
そんな雫ちゃんと仲良くなったきっかけは、座席が前後だったこと。
入学式の日に雫ちゃんから声をかけてきて、入学式でした挨拶を褒めてくれた。それ以来なんだかんだいつも仲良くしている。
「恋バナって……私は言うことないよ?」
「えーっ、ほんと? 初恋とかしたことないの?」
「は、初恋……?」
恋バナって今のことじゃなくて過去の恋についても話すんだっけ?
雫ちゃんがあんまり綺麗に瞳をときめかせるので、私は首を捻った。まぁ雫ちゃんの言う通り初恋もまだなんだけど。
いいや、私のことはどうでもいい。
わざわざこんなことを言い出すってことは、雫ちゃんは恋バナをしたがっているんだ。なら私は聞き役に回るべきだろう。というか回りたい。雫ちゃんの好きな人とか、とても興味がある。
こほん、と小さく咳払いをしてから雫ちゃんに話の矛先を向けた。
「私のことはいいから。それより雫ちゃんは?」
「えへへっ、聞いてくれるっ?」
「う、うん」
こんなにもパァって笑うんだ……。
凄いなぁ、目がキラキラしてる。本当に好きなんだな、としみじみ思う。
聞かせて、と言うと、雫ちゃんは照れながらも胸がキュンキュンする声で話し始めた。
「私ね、好きな人がいるの。小学校の頃からずぅっと好きなんだ」
「小学校の頃から……」
「うんっ。かっこいいんだけど、ちょっと面倒くさかったり意地悪だったりしてね。そういうところがいいなって思うんだ」
「へぇ」
悪いところを口にしているはずなのに、雫ちゃんの声には愛おしさが溢れていた。
幸せなカップルがわざと相手の悪い部分を挙げて、そういうところ全部が好きなんだって言い切ってしまうみたいだ。
「小学校の頃からの片想いなの?」
ふと疑問に思う。
雫ちゃんは私の中で可愛い女の子の筆頭だ。姉は可愛いと言うより綺麗でかっこいいし、少しカテゴリーが違う。
そんな雫ちゃんがもう何年も片想いを続けてるなんて不思議だ。
うーんとね、と雫ちゃんが躊躇い気味に答える。
「一応、昨日告白したんだけど……」
「そ、そうなの?」
「うん。でもまだ片想いは続くと思うんだ」
だって、と切なげな微笑が夜風に流される。
「あの人はまだ、恋とか愛とか、そういうのに興味がないはずだから。どうでもいいって、そう思ってる気がするの」
なにそれ。
そんな私の言葉は、声になってはくれなかった。ただ、声にならないその気持ちは、私の胸でくすぶり続ける。
そんな勉強合宿の帰り、私は百瀬先輩に出会った。
「あー、よろしく。俺は……あれだ。雫と家が近くて、今日も荷物持ちに呼ばれた感じ」
「そうですか。仲がいいんですね」
「まぁ、多少は」
勉強合宿から帰ると、雫ちゃんの想い人だという先輩が雫ちゃんを迎えに来た。
先輩の名前は百瀬友斗。
男性の美醜には疎いので何とも言えないけれど、平均以上の容姿ではあるだろう。けれどそれ以上に、なんだか喉に小骨が引っかかるみたいな違和感のある顔だった。
「この子は私の友達の入江大河ちゃんです!」
「どうも。入江です」
軽口の言い合いの後、雫ちゃんが私を紹介してくれた。
心の中で妙に突っかかるものがあり、いつも以上に無愛想な反応をしてしまう。
私の名前を聞いて、百瀬先輩の眉がぴくりと動く。
目つきが悪い……というのとも違う、居心地の悪い目をしていた。何故だか居た堪れなくなる。
「あの……あまりジロジロ見ないでください」
「あっ、ああ。悪い」
「いえ、別に。私はもう失礼します」
「あ、そうか? 俺はいなくなるし、もう少し雫と話しててもいいんだぞ」
「雫とはいつでも話せますから。百瀬先輩のような方の目があると思うと気も休まりませんし。それとも……いえ、何でもありません」
「え、なんだそれ。逆に気になるんだけど」
「何でもないと言っていますよね? 安易に噂を鵜呑みにすべきでないと考えた私の良心をご理解いただけると幸いです」
「えぇ……」
百瀬先輩の噂は、友達がほとんどいない私の耳にも入っていた。
雫ちゃんを始めとし、雫ちゃんのお姉さんや生徒会長とただならぬ関係にある、と聞く。けれど、一目見た段階では、その噂の真偽は分からなかった。
チャラチャラしているようには見えない。むしろ感じるのは不思議な雰囲気だ。そのときの私には、その雰囲気を上手く形容することができなかった。
「私がお話したいのは、モモ先輩の三股についてです」
どう考えても不躾にしか思えない詰問をしに行ったことは、今も後悔していない。
第三者が介入するべき話題じゃないのは分かっている。
お節介どころの騒ぎではない。ありがた迷惑だ。
でも、と思考にノイズが走った。
百瀬先輩の表情はどこかチグハグで、どうにも捉えにくくて。
だから『放っておけない』なんて身勝手で意味の分からない感情が湧いてしまった。
雫ちゃんのためにも、百瀬先輩のためにも。
「私には分かりませんが、恋心というのは釣り合っているか否かで決まるものではないじゃないですか」
「…………」
「それに、少なくとも雫ちゃんがモモ先輩に恋心を抱いていることは見れば分かります。大変不服ですが……モモ先輩といるときの雫ちゃんはとても幸せそうです」
「それ、は……」
私の裸の正義が何かを変えることができるならそれでいい。
やっかまれても、憎まれても、傷つけてしまっても。
「雫ちゃんは私にとって大切な友達なんです。入学して一か月で何を言っているんだと思われてしまうかもしれないですが……。それでも、雫ちゃんを傷つけるような真似をしてほしくありません」
私がそう言い放ったとき、百瀬先輩は……どういうわけか、嬉しそうな顔をしていた。
ふざけているのかと一瞬思ったけれど、目は真剣だ。自罰感情に満ちた眼はどこか哀しげで、ずくん、と胸が痛む。
「それは分からない。けど、もうすぐ答えを出すつもりだ。その答えが雫を傷つけるのかは今の俺には分からないけど……もし傷つける答えだったとき、俺は雫を守れない。だから妹子が守ってほしい」
百瀬先輩は思いもよらぬことを言った。その顔を見たとき、どうして?と私は思う。分からなかった。
どうして百瀬先輩は、こんな哀しそうな顔をしているんだろう?
あなたは……誰を見ているの?
このとき私は、百瀬先輩に強い興味を抱いた。知りたいと思ってしまった。雫ちゃんの好きな人だからとかではなく、一人の先輩として……ううん、男の人として。
否応なしに、百瀬先輩の哀しみの理由を知りたくなってしまった。
「モモ先輩の悪行は私が止めてみせます。誰のことも、泣かせません」
だからこそ私は決意した。
私は百瀬先輩に酷いことをさせない。きっとそれは、百瀬先輩自身をも傷つけることになるはずだから。
それなのに……っ。
「んっ、好き…大好きだよ……」
「俺もだよ、澪。今日は頑張ろうな」
「うん、頑張る。一等賞とるから」
開会式が始まる前。
百瀬先輩を探しに来た私は、もうショート寸前だった。
百瀬先輩が誰かとキスをしている。いや、誰かと、じゃない。『澪』と呼んでいるのだ。雫ちゃんのお姉さんの名前は『綾辻澪』であることは、とっくに承知している。誤魔化されるような私じゃなかった。
ちゅ、ちゅ、タッチするようなフレンチキス。
初めて生で見るそういう行為だ。無意識のうちに鼓動が早くなり、不覚にも目を奪われてしまう。
やがて百瀬先輩はキスをやめたかと思うと、綾辻先輩の髪に顔を埋めた。綾辻先輩が恥ずかしそうな、くすぐったそうな、色っぽい声を漏らす。
これ以上はダメだ。
もう、引き返せなくなる。
そう思った私は咄嗟にその場から逃げた。足音に注意しながら駆ける私の頭の中では、幾つもの『なんで?』が浮かんでいた。
『だったら、妹子が雫を守ってやってくれ』
あの言葉は、こういう意味だったの?
雫ちゃんを選ばないから。綾辻先輩を選ぶから。だから、雫ちゃんの失恋を慰めろ、って……そんな風に思ってたの?
「分かんないっ、分かんないよ…っ」
知りたいと思った。
しばらく隣で見てきて、少しは分かったと思っていた。
でも、全部勘違いだった……?
「確かめなきゃ」
こんなところで立ち止まるわけにはいかない。私は約束したんだ、あの人の悪行を止める、って。
『俺は君のこと、かっけぇって思うよ。正義のヒーローみたいだ』
いつか、ヒーローみたいな男の子が言ってくれたように。
私はヒーローになってみせる。
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