2書#25 おねだりするので
「先輩、お待たせしました」
土曜日。
朝やっているアニメをぼーっと見ていると、シャワーを浴び終えた雫が声をかけてきた。
「別に大して待ってないからいい」
「そう言ってくれると助かります。やっぱり休みの日はどうしても目が覚めなくて」
「あー、分かるわ」
俺もぶっちゃけ、まだちょっと眠い。
アニメのお供にしていたブラックコーヒーをくいっと呷り、立ち上がった。
「そんじゃ行くか。どっちの部屋でやる?」
「んーっと。じゃあ私の部屋で」
「了解」
雫が中学生の頃は、よくファミレスで勉強を教えていた。
それが今はどっちかの部屋でやることが確定しているんだから、随分と関係が変わったものだ。その変化は外的要因によって与えられたものでしかないわけだが。
と、そんな益体のないことを考えていてもしょうがない。
雫の部屋に入り、中サイズの丸テーブルに勉強道具を広げた。
「さて、と。基本的な流れは受験勉強のときと同じでいいか?」
「ですかねー」
「うい。俺も適当に勉強しとくから、分からないところがあったら遠慮せず聞けよ」
「はいっ! 遠慮なく頼ります」
「おう」
女子の部屋に入ったからといってドギマギすることは、もうない。
ゲームをやるために何度も部屋で二人きりになっているし、今日は勉強会だし。
不慣れな奴ほど奇を衒う。慣れた距離感での馴染んだ行為なら特別なことを考える必要なんてどこにもない。
雫の受験勉強のときにそうだったように、俺はスマホのタイマーをオンにしてテーブルに置いた。
「とりあえず肩慣らしに11時まで。いいな」
「はい」
時間を区切り、その間はちゃんと集中する。
その間、俺は雫が解いている問題に間違いがないかチェックしながら自分の勉強にも取り組む。この並列思考が地味に頭を使うのだが、もう一年以上やり続けて体に馴染んでしまった。
すぅ、と雫から明るい雰囲気が消える。
出会った当初のような、消え入りそうな文学少女の姿を幻視しそうだ。
するする、するするする。
シャー、しゅっしゅっ。サシュッ。ぺら。
生活音とも違う。
勉強特有の音が排泄される。
シャー芯がどんどん削れていき、時折雫はカチカチとシャーペンのお尻を親指でノックしている。
こちらを一瞥することはない。
するする、する、する……するするする。
さらさらさらさ。ふぅ。んっ?
「どこが分からない?」
「あっ……えと、ここです」
「ああそこな。そこは――」
「――なるほど」
雫が詰まりそうになるときのパターンはだいたい把握している。
最初は戸惑って、でもとりあえず自分が思いつくやり方でやってみようとペンがいつも以上に雄弁に走る。
けれどもやっぱり解けなくて、小さな吐息と共にこてっと左に首を傾げるのだ。
「ありがとうございます」
「ん」
解き方を教えたらもう会話は終わり。
またシャー芯と紙と息の音だけが聞こえる部屋に戻る。
ひらり、雫の前髪が落ちる。
目にかかって邪魔そうだ。
すっと手を伸ばし、邪魔にならないように掻きわける。
「んっ」
「……悪い」
雫と目が合って初めて、自分が過保護になりすぎていることに気付いた。
前髪くらい自分でよけられるよな。
それになんかこれ、距離近いし……。
「ありがと、です」
「お、おう」
どちらが先に視線を逸らしたのか。
それはきっと、数学でも国語でも解けない問題だろう。別に解けなくていいし、解きたくもないんだけど。
「先輩」
「……? あぁこの問題は――」
「――ふむふむ」
空気が切り替わる。あるいは、元に戻る。
解法を教え終えたら、雫は他の問題へと移った。
変な雰囲気が続かなくてよかった、と密かに安堵する。その安堵を代弁するみたいに、さらさらと淀みないペンの音が聞こえ続けた。
さらさらさら。
分からない問題はないらしい。雫はみるみるうちに正解を叩き出していく。あんまり速いので、暗算では追いつかなくなりそうなほど。
苦手な英語と並列でやるのはキツかったかなぁ。
俺の些細な後悔なんてお構いなしに、二人きりの勉強会は続いていく。
◇
「はい、休憩」
「ふぅぅぅ……つっかれましたぁ」
何度目かのバイブレーションが、今日の勉強会の終わりを告げた。
時刻は午後10時。
夕食と入浴を済ませた雫は、気の抜けた部屋着のままだらんと横になった。
腰のあたりにクッションがあるせいで微妙にブリッジになっているんだけど、その体勢は辛くないんだろか。少なくとも見ている側は辛いんだけど。
目のやり場に困った俺は、雫と同じ天井を見上げることにした。隣にごろりと横たわると、ふふっ、と雫が楽しそうに笑む。
「お疲れさん。思ってたより疲れたな」
「ほんとですよ。ま、集中できましたけどね」
「それはなにより」
今日の雫の集中力は凄まじかった。何度声を掛けるのを躊躇ったのか分からないくらいだ。
「やっぱりあれですね。理数系は疲れます」
「あぁ……それは分からなくもないな」
「とか言って、入試レベルの難問もスルスル解いてたくせに」
「まぁ、そんくらいはな」
うちは附属高校だから、成績が悪くない限り大学には持ちあがりで合格できる。とはいえ成績や内申で進める学部は限られてくるからな。俺は根っからの文系だけど、理数系を捨てるような真似はしていない。
「私が先輩に勝てるとしたら……なんでしょう。現代文くらいですかね?」
「かもな。でもお前の場合、古文と漢文がボロボロだろ。さっきだって何度も間違えてた」
「うっ」
雫がばつの悪そうな顔をする。
自覚はあるらしい。だからこそ夕食終わってからはずっと古文のワークを広げてたんだろう。
「そ、そんなことより! ねぇ先輩。私頑張りましたよ?」
「そうだな。頑張ってた。偉い偉い」
「むぅ~! ノークッションで褒められると嬉しくなっちゃうのでやめてください!」
「っ……嬉しくなるならいいのでは?」
「ダメです! 私はこれから先輩にご褒美をおねだりするので」
は?
そんな風に聞き返すより先に、んんっ、と雫が喉の調子を確かめるような声を漏らした。
「先輩。頑張った私に、ご褒美をくれませんか?」
「…………勉強は学生の本分だ」
「勉強だけじゃなくてもいいです。学級委員でのこととかも込みで。私、頑張りました。これからも頑張ります」
――だからご褒美、ほしいです。
雫はそう、蕩けた後のハチミツみたいな声で囁いた。
ふわっ、とシャンプーの甘い香りが鼻孔をくすぐる。
吐息の熱を感じているということは、雫は今、俺の方を向いているのだろうか。天井と睨めっこしている俺には分からない。
分かってしまったら、間違える気がするから。
「何が欲しいんだ? ものか? それともまた出かければいいのか?」
「後夜祭。一緒に過ごしてほしいです」
「……っ」
そうくるか、と思った。
やっぱりな、とも思う。
どうしても頭によぎるのは『3分の2の縁結び伝説』のことだ。
この話は雫から聞いた。雫が忘れているとも考えにくい。
「あ、あの……別に先輩の答えを急かそうとかそういう気はないんです。儀式をしてほしいとも言いません。ただ一緒にいたいなって。二人きりがいいなって」
「そっ、か」
雫の気持ちは充分に伝わってくる。
まるで純白の雪みたいに、夢見る少女のように、雫は綺麗だった。
ああやっぱり、と俺は思う。
俺には雫を穢す勇気はない。俺たちの間違いに巻き込んで、傷つけてはいけない。
雫がどこまで俺に期待しているのかは分からない。言葉通り『3分の2の縁結び伝説』なんて気にしていないのかもしれないし、その逆って可能性もありうる。
けれど、俺はいま答えを決めた。
俺は雫の告白を断る。体育祭の後夜祭で。
「分かったよ。と言っても、生徒会の助っ人とかで忙しいから最後だけになるかもしれないけどな」
「はいっ! 約束ですよ、先輩」
「あぁ。任せとけ。約束はちゃんと守る。そうしないと誰かさんがうるさそうだしな」
「むむっ。それ誰のことですかっ?」
「さてな。誰でしょう」
どうか、その後も先輩と後輩ではいられますように、と祈って。
俺は雫とともに破顔した。
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