1章#23 にゃんにゃん

「あれ、百瀬くんと雫じゃん。二人ともどうしたの?」


 雫から料理を教わっている最中。

 人参から切ろうとしていたところ、綾辻が声をかけてきた。手にカップを持っているのを見るに、飲み物を補充しに来たのだろう。


「えっとね、先輩に料理を教えてあげてるの。先輩、料理できないらしくて」

「あぁ……そういえば」

「そういえば?」


 綾辻は俺が普段から料理をしていないことを知っていた。事後なんかには、ちょこちょこ注意されていたくらいだ。セフレに気遣う俺に色々言ってたが、綾辻も割と大概だよな。

 その呟きに、雫は首を傾げる。俺はハッとするが、綾辻は何ら動揺することなく答えた。


「前に飯盒炊飯で同じ班だったなぁって思い出したんだよ。そういえばそのときはやたらと洗い物みたいな雑用をやってたなって」

「あははっ、なんかそれ先輩っぽい! できないけどサボりはしないってところとか」

「俺っぽさが残念なことになってないか、それ」

「なっていないですよ。ね、お姉ちゃん」

「そうだね。多分、百瀬くんの美点だよ」

「釈然としねぇ……」


 というか、そのときは一緒の班じゃなかったし。洗い物とかに熱中しすぎて食えるカレーが残ってなかった俺に、隣の班だった綾辻がカレーを分けてくれたのだ。

 懐いなぁ……こうして考えてみると、中学校もそれなりに楽しかった。心から友達と呼べる奴はいなかったけど、綾辻と出会えたしな。


「まぁいい。そこまで言うならよーく見てろ。飯盒炊飯のときには見せられなかった包丁さばきを見せてやるから」

「とか言ってると絶対ケガするので調子に乗らないでくださいね。私がしっかり教えるので、丁寧にいきましょう」

「……うす」


 冷たい雫のツッコミというか単なるお叱りを、甘んじて受け入れる。

 くすくす笑うな、綾辻。美味いカレーを作って見返してやるからな。


「じゃあ私も見てようかな。見たいテレビまでまだ時間があるし、ちょうどいいかも」

「俺は客寄せパンダじゃないぞ」

「どちらかと言うと、百瀬くんに料理を教えてる雫を鑑賞してるから大丈夫」

「あっそう……」


 俺の扱いの火度かは今に始まったことではないので、大人しく料理に戻る。

 カップにコーヒーを入れた綾辻は、頬杖をつきながらこちらを見始めた。


「で、切るんだったよな」

「はい! いいですか、先輩。人参とかを切るときには、左手は」

「猫の手だったか。知ってるぞ」


 小学校の家庭科の授業で聞いたレベルの知識だ。俺が答えると……雫はむむむっと眉間に皴を寄せた。


「どうしてそうやってアピールタイムを奪うんですか!」

「何がっ?!」

「今のはどう考えても、私がにゃんにゃんするところだったじゃないですか!」

「知らねぇよ!」


 怒られる理由が意味不明すぎる。なんだ、にゃんにゃんするところって。押さえる左手が猫の手だからってこと? 安易すぎるでしょ。

 呆れを視線で伝えると、雫は、んんっ、と何かをスタンバイするように息を整える。


 そして――


「せーんぱいっ。左手は、にゃんにゃんっ、ですよ?」


 雫は、招き猫のように手をくりくりと動かした。

 ぺろりと艶めかしく舌なめずりをする雫の瞳は、まるで獲物を狩る女豹のよう。蕩けるほどの甘ったる声は、紛うことなきハニートラップだった。


「……っ、ば、馬鹿か。そんな安易な萌えで萌えてたら今頃は萌え死んでるっつうの」

「それにしてはお顔が赤い気がしますよ?」

「――ッ」


 思考ごと吹っ飛びそうになるのを、深く息を吐いて引き止める。

 吐き出した息の熱さからは目を背け、俺は雫のおでこに手を伸ばして、


「痛っ」


 ぱちゅん、とデコピンをした。


「酷いです! 暴力反対!」

「やかましい。料理の最中なのに変なことを言うから罰が当たったんだよ」

「むむむむむ……ドキドキしたくせに」

「してねぇ」


 いつまでも調子に乗られても困るので欠かさずチョップをしておく。

 痛っ、とさっきと同じように声を上げた雫は、おでこをすりすりと擦った。


「はぁ……もういいです。見たい反応は見れたので」

「お前が見たくなるような反応はしてないけどな」

「先輩は強情ですねー」

「はいはい、そうだな」


 いつまでもこの会話をしていては夕食がいつになるか分からない。

 雫の戯言はスルーし、人参から切っていくことにした。


 さっきの雫の行動を思い出してしまいそうになりながらも、言われた通りに左手を猫にして人参を押さえる。

 とん、とん、とん、とん、とん。

 なるべく等間隔になるように、半月切りにしていく。

 とん、とんとん、ととん、とんとん。

 意識すればするほど手元が狂い、ぷるぷると震えた。


「ふぅ……とりあえずはこれでいいか」

「意外といい感じになりましたね。ジャガイモと玉ねぎもやっちゃいましょう! それが終わったらお肉です!」

「うい。任せろ」


 俺たちの料理はまだ始まったばかりだ。

 ……いや、マジで。



 ◇



「「「ごちそうさまでした!」」」


 俺、綾辻、雫。三人の声が被った。

 食卓には、空になったカレーライスとサラダの皿が並んでいる。キッチンまで運び終えると、雫はお風呂の準備をするということで浴室に向かった。

 俺はどうしようか……と手持無沙汰になる。その間にもキッチンには綾辻が立ち、食器を洗い始めていた。


「洗い物手伝おうか?」

「急にどうしたの。私に優しくしても得ないよ?」

「得したくて言ってるわけじゃない。ただ、なんだ……食事当番を充分果たせたとは思えないから申し訳なくてな」


 あの後、俺は雫に指導されながらカレーとサラダを作った。そういう意味では一応料理はできているが、胸を張って『ちゃんとやった』と言えるほどではないだろう。

 綾辻は、何それ、とくすくす笑った。


「大丈夫だよ。百瀬が料理してるとこ、何だかんだ面白かったし。はじめてのおつかいを楽しむ人の気持ちが分かったかも」

「いや、そういう楽しまれ方を想定してないんですけど……? っていうか、俺に教えてる雫が見たいだけだって言ってなかったっけ?」

「うちの妹にデレデレしてた人がなんか言ってる」


 キンキンに冷たいジト目で見られ、俺は苦笑した。

 さっきの猫のくだりとかばっちり見られてたんだよな……。急に恥ずかしくなってきた。好きな子と話して舞い上がっているところを授業参観に来ていた家族に見られてしまった、みたいな気分だ。


「あれは雫にも非があるからな? あいつ、やたらと小悪魔ぶるし」

「それは知ってる。まぁ、あそこまで分かりやすいのは百瀬の前だけだろうけど」


 綾辻の呟きの意味を、今はまだ考えたくなかった。

 にへらっ、と作り笑って話を変える。


「それはそうと。綾辻、俺の料理はどうだった?」

「雫に指導されまくっていたくせに自分の料理とか言うのはおこがましい」

「それは言葉の綾だから! 鋭意努力するから!」


 教えてもらいはしたけど、ちゃんと全工程自分でやったんだよ? お手本とか言いつつ雫に作業を変わってもらうようなことはしていない。ぜひとも褒めての伸ばしてほしいものだ。

 綾辻はシュコシュコとスポンジを泡立てながら答えた。


「まぁ……悪くはなかったんじゃない? 頑張ってたと思うよ。教えてもらったことに一生懸命なとことかは、ちょっと可愛かった」


 僅かに上がった口角はとても優しげだ。露出された小ぶりな耳に目が引き寄せられ、綾辻の横顔を凝視してしまう。

 なんて綺麗なんだろう、と場違いに思った。

 処理しきれない気持ちを吐き出すように、頭のガラクタ箱からくだらない言葉を取り出す。


「味の話を避けてるあたり、料理自体はアレだったのが丸分かりだったんだよなぁ……」

「あ、自覚はあったんだ」

「無自覚だったのでそういう軽い一言でトドメを刺すのやめてもらっていいですか?」

「ふふっ。やだよ」


 ……あー、もう、そういう顔をするのはズルい。

 綾辻が攻めに回っていたときにしていた、蠱惑的なのに子供っぽい顔。

 オタクはこういうギャップ萌えに弱いんだよ、ほんと。


「さいですかい。身近にツンデレがいると大変だわ~」

「無知って幸せだよね」

「怖い声で言うのやめろ。下手すると今後ツンデレヒロインを楽しめなくなる」

「自業自得だね」

「そうだけども!」


 俺が言うと、綾辻は可笑しそうに頬を綻ばせた。

 洗い物は終わったらしい。水を止め、パッパッと手を払っている。

 こちらへ向き直った綾辻は、タオルで手を拭きながら言った。


「そういうことだから、これからも雫に迷惑をかけない範囲で教えてもらうといいよ。気が向いたら鑑賞するからさ」

「鑑賞目的なのは腑に落ちないが……端からそのつもりだ。綾辻は怖そうだし」

「私は雫と違って優しくないからね」


 知ってるよ、とは言わなかった。

 そのまま、俺と綾辻はリビングに戻ってテレビを見始める。


 綾辻が雫より優しくないことも、雫より優しいことも、どちらも知っているけれど。

 わざわざ言うのはセフレとして、クラスメイトとして、こそばゆいことに思えたのだった。

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