04 本当の始まり
あれは、夏休みに入ってしばらくの頃でした。
僕はアルバイトの日数を増やしました。お金の心配も、使う用途もありませんでしたが、暇だったのでね。それに、慣れてきて楽しかったんです。
梓さんへの想いは、隠して育てていきました。彼女も夏休みには多めにシフトを入れていたようで、顔を合わせる日が多くなりました。
そんなとき、坂口さんから夕食に誘われたんです。提案されたのは、焼肉でした。僕は二つ返事で了承しました。
「俺、ビール頼むわ。瞬くんも飲む?」
「いえ、まだ十八歳ですし、ソフトドリンクで」
僕はお酒への関心が薄い大学生でした。父が酔って帰るとぐでんぐでんになるので、良いイメージがなかったんです。自分もお酒には強くないんだろうなと思っていました。
サークルに入れば、お酒への誘惑もあったんでしょうけどね。新歓コンパで、新入生にもお酒がふるまわれると聞いたことがあります。
さて、そこの焼肉屋は食べ放題のところでした。僕は坂口さんに時折聞かれながら、注文を彼に任せました。
焼くのは僕が主にやりました。アルバイトの同期とはいえ、相手は年上です。それ相応のやり方をするのがいいだろうと僕は思っていました。
「瞬くんって、梓ちゃんのこと、好きだろ」
唐突にそう言われました。僕は視線をさ迷わせながら、何と返答していいものかと口ごもりました。坂口さんは続けました。
「見てればわかるって。意識してるだろ?」
「まあ、少しは」
そう答えるので精一杯でした。坂口さんのことは信頼はしていましたが、やはり恋心のことを突かれると慎重になってしまうのが僕でした。
だから僕は、何とか言葉をひねり出しました。
「梓さんのことは、素敵な先輩だなって思います。仕事もよくできますし」
梓さんは、店長も太鼓判を押すほど接客が上手く、人のことをよく見ている女性でした。アルバイト先の誰もが彼女を頼っていました。
しかし、坂口さんだってそうです。フリーターだから、入っている時間が長いというのもありますが、同じ時期にきた僕と比べ、彼の習熟度は高かったのです。
「坂口さんも、本当に凄いですよね。尊敬します」
「そんなことはないよ」
何とかして、話を梓さんから逸らそうとしました。なので、僕は質問をすることにしました。
「今までも接客、やったことあるんですか?」
「ああ。色々やってきたよ。居酒屋も、コンビニも、引越屋も」
それから話が坂口さんのことになったので、僕は安堵しました。彼は本当に様々な経験をしていて、どれもこれも面白い話ばかりでした。
焼肉屋を出て、これで解散かなと思ったとき、坂口さんが言いました。
「うちでコーヒーでも飲んでいく?」
「いいんですか? ご馳走になります」
坂口さんの住むマンションは、なんと僕の住んでいるところの向かいでした。僕がそれを言うと、彼も目を丸くしました。
「案外、ご近所さんだったんだな」
「そうみたいですね」
同じ立地とはいえ、僕の住む学生向けのワンルームマンションと、坂口さんの住むところは違いました。
あの、特有の、他人の家の生活の匂いといいますか。それがしました。坂口さんの場合は、タバコでした。彼は室内で吸っていました。
リビングとキッチンの他に、一つ部屋があって、そこを寝室にしているのだと坂口さんは話してくれました。
ダイニングテーブルにあった二つの椅子のうち、入って手前側に僕は腰かけました。坂口さんはコーヒーメーカーを取り出しました。
待っている間、僕は部屋をぐるりと見渡しました。座っている位置からは、壁際にあるテレビとローテーブル、ソファが見えました。どれも高そうな物に僕には見えました。
テレビボードには、いくつかのDVDが入っているのがガラス越しに見えました。やはり劇団員をされていたことから、映画がお好きなのかもしれないと僕は思いました。
コーヒーを僕に出す前に、坂口さんは自分の分を一口飲みました。
「しまった、濃すぎた。何か入れた方がいい」
「じゃあそうします」
坂口さんは、ミルクと砂糖をたっぷり入れて、マグカップを手渡し、僕の正面に座りました。確かに濃いコーヒーでした。
「お菓子とか、何もないんだよな」
「いいですよ、坂口さん。お腹いっぱいですし」
先ほどの焼肉屋では、アイスクリームまで食べたので、もう何も要りませんでした。僕は甘ったるさと渋さがかち合って、さほど美味しいとは思えないコーヒーを、それでも最後まで飲み干しました。
時刻は夜八時頃になっていました。そろそろおいとましないと、と僕が口に出しかけたとき、身体がぐらりと揺れました。僕はダイニングテーブルに額をぶつけました。鈍い痛みがあったものの、すぐに意識が遠退いていきました。
それから目覚めてみると、僕はベッドの上に居ました。全裸にさせられていました。手首は身体の後ろに何かで縛られていました。
「よう。気がついたかよ」
坂口さんが、床に座ってタバコを吸いながら、僕を見上げていました。
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