02 坂口伊織

 新しい生活が始まりました。初めての一人暮らしは何かと大変でしたね。身の回りのことは、全て母にやってもらっていた僕です。ゴミの日を忘れて出し損ねることもありました。

 大学は文学部にしました。専攻は二年生になってから決まるので、それまではできるだけ様々な種類の講義を受けてみることにしました。

 そうそう、大学生っていいですね。単独行動していても浮くことがない。語学の講義で仲良くなった同級生らと挨拶をすることはあれど、僕は基本的には一人で過ごしていました。

 大学図書館の蔵書にも僕は圧倒されました。中学、高校と図書室の住人だった僕ですが、それを遥かに上回る量に目眩がしました。

 ファミレスでのアルバイトも、慣れるまでは大変でしたが、注文はタッチパネル形式でしたし、お客さんとのやり取りで特に困るようなことは少なかったです。

 坂口さんとは、休憩の度にあれこれと話しました。そして、次のようなことがわかりました。

 どうやら彼は、劇団員だったようです。俳優としては結局芽が出ず、諦めてしまったのだとか。それで、今の街でやり直しをするべく、引っ越してきたそうなのです。

 ただ、祖母が資産家であり、生活するには十分な額の援助があることも教えてくれました。それでも社会との関わりを断つわけにはいかない。そうして選んだのがファミレスでのアルバイトだったということでした。


「瞬くん、大学楽しい? 俺は行ったことないから、よくわからないんだよな。サークルとか入ってるの?」


 いつの間にか、坂口さんには下の名前で呼ばれるようになっていました。梓さんも名前呼びですしね。僕は自然なこととして受け止めていました。


「楽しいですよ、坂口さん。サークルには入る気ないですね」

「休みのときとかどうしてるの?」

「本を読んでいます」

「本か。俺もよく読むよ」


 よくよく話をしてみると、僕たちの読書の趣味はよく似かよっていることがわかりました。僕、SF小説が好きなんですけど、僕が挙げたいくつかのタイトルを坂口さんも読んだことがあるとのことでした。

 それを知って、僕は嬉しくなりました。今まで本の話ができる人が居なかったんです。

 五月の連休のときでした。バイトが終わった後、僕と坂口さんは喫茶店に行くことにしました。そこで初めて、僕は彼が喫煙者だと知りました。ピースという銘柄でした。


「瞬くん、タバコ苦手だった?」

「いえ。父が吸うので、大丈夫ですよ」


 坂口さんは白く長い指でタバコを操りました。その手つきを今でもよく覚えています。

 僕はホットのブラックコーヒーを飲みながら、坂口さんの仕草を見つめていました。彼もコーヒーはブラックでした。共通点を見つける度、嬉しくなっていったのは事実です。

 一人暮らしのあれこれについて、坂口さんから教わりました。食パンは冷凍しておくといいとか、洗濯物を溜めてもいいように下着は多めに買っておくとか。

 どうやら彼は高校までは通っていたらしいです。それから演劇の道を志し、アルバイトをしながら稽古に励んでいたのだとか。


「瞬くんは、夢ってある?」


 そんなことを聞かれました。僕は、恥ずかしくて誰にも言ったことが無かったことを打ち明けました。


「実は、小説を書いてみたいんです」


 とはいえ、その頃一文字も書いたことは無かったんですけれどね。本を読む度、自分ならこうするのに、とか、そういった感想を持つこともあって、それで小説を書くことを思い付いたんです。


「へえ、いいじゃない。とりあえず書いてみれば?」

「まずは勉強しないといけないですかね」


 小説の作法や方法論などを僕は知りませんでした。書店に行けば、その手の本がいくらでも手に入ることはわかっていました。それでも、一歩踏み出す勇気が無かったんです。

 何となく、構想だけはありました。もちろんSFです。けれど、文字に出してみるには、手に負えなさそうなスケールでした。

 記者さんなら、分かってもらえますよね。あなたも文字を書くお仕事なのですから。僕の構想は怪物のように膨れ上がっており、とても飼い慣らすことができないように感じていました。

 話を戻しましょう。初めての二人っきりの喫茶店です。僕も坂口さんも私服に着替えていましたし、よりプライベートなところまで話は進みました。


「そっか。瞬くんは一人っ子なんだ?」

「はい。きょうだいが欲しいと思ったことはあったんですけどね。まあ、そのおかげで僕はワガママを聞いてもらえた自覚はあります」


 僕は奨学金なしで大学に進みました。後から把握したのですが、うちの家庭はかなりお金に余裕があったようですね。ゲームも最新機種を惜しげもなく買ってもらえましたし。

 坂口さんのことは聞けませんでした。僕の方ばかり一方的に聞かれて答えました。父と母にいかに甘やかされてきたのか、そんなことを話して、その日は終わりました。

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