マリアの心臓とて不服。
真崎いみ
第1話 ルー・ガルー
ウオーン、と低く、悲しげな遠吠えが響き渡った。
夜明け前の一番暗い時刻。重厚な雰囲気を醸し出した大きな十字架が鎮座する、ろうそくの明かりが頼りの薄暗い教会の室内。
石蕗 紅夜は銀色の巨大な狼と対峙していた。
紅夜は小さな村の教会に住み込みで働いているシスターだ。まだ齢二十にも満たない若いシスターだが神父のいない教会で村人は紅夜を慕い、尊敬している。その思いに答えるかのように、紅夜は村のために働いた。
食事が満足で無い家族に裏庭で採れた野菜を届け、子どもたちに読み書きを教え、早朝だろうと深夜だろうと変わりなく村人の話に耳を傾けた。
穏やかで凪いだ日々を送っていたある日のこと。村に不穏な噂が流れるようになった。
「森にルー・ガルーが出る」ー…と。
ルー・ガルーは昼間、人間の姿をして旅人を安心させて供に行動し、夜になると狼となってその旅人を食らうというおとぎ話の生き物だ。
そのルー・ガルーが現実に現れたと言うのだ。
村人たちは誰が元とも知れない目撃談に怯えて、夜が近づいているとはいえまだ明るい内から家の中に籠もるようになった。
そこで村の若者を筆頭に、村の男衆が夜のパトロールをすることにしたのだ。
松明の灯りを頼りに何名かが一組に組んで村の中、そして森の近くまでを見守る。最初の数日こそ恐怖や緊張に満ちていたが、何も怒らない時が過ぎれば警戒心も薄れて随分と気楽なものとなった。
だからだろうか。紅夜も幾分か油断をしてしまったのだ。
夜のお祈りをしようと、祭壇のある部屋に向かったときのことだった。見知らぬ、村人ではない青年が一人長椅子に腰掛けていることに気が付いた。
青年は長い茶髪を緩く後ろに束ねて、その涼しげな目を伏せていた。真剣に神に祈る姿は、荘厳な気配すら感じさせる。
紅夜の存在に気が付いているのかいないのか、青年はまるで動かずに唯々その場で手を組んでいた。
「…ずいぶんと、熱心ですね。」
紅夜が声をかけると、青年はようやっと顔を上げた。その瞳は金色に輝いていた。
「父が…、敬虔な信者だったもので。」
「そうですか。お父さまが。」
ふと息を漏らすように、紅夜は微笑みかける。
「ええ。…ところで、俺の目が怖くないんですか。」
自虐的にそう言う青年は挑むような強さを持っているのに、どこか拒絶を恐れるような弱さを孕んでいた。
「驚きはしましたが…。怖くはないです。」
「そうですか。良かったです。」
「何か、ご苦労が?」
紅夜は首を傾げて問うてみる。青年は苦笑であったが、笑ってくれた。
「迫害をされることが、たくさん。この瞳の色は隔世遺伝です。実は…、髪の毛は染め粉で染めているんですよ。」
青年は自らの髪の毛の先を摘まんだ。
「そうなんですね。」
どこまで彼の内側に踏み込んで良いのかわからず、紅夜は曖昧な返事をする。その心情を慮ったのだろう、青年は自分のことを自ら話してくれた。
「本来の髪の色は、白に近い銀色なんです。昔から不吉な色だと言われてきました。定住することもできず、流浪の民です。」
「流浪…。では、今夜の宿は?」
「野宿は慣れているんですよ。」
青年は頬を人差し指でかきながら笑った。その屈託のない笑顔に紅夜は好感を持つ。
「でしたら、今夜はここに泊まっていってください。空いている部屋にご案内しますよ。」
ルー・ガルーは教会や、神に仕えるもの。純銀の武器に弱いと聞く。紅夜は彼を無害と判断した。
「…迷惑では?」
「全く。今の時世、あなたを外で寝かせることが心配なもので。」
紅夜はルー・ガルーの噂のことを話す。青年は神妙に話を聞いていて、脅かしてしまっただろうかと危惧した。
「まあ、噂は噂ですから。私もまだ幸いにも、ルー・ガルーにお会いしたことはありませんし。」
「そう、ですか。」
青年は少し考える素振りを見せて、そして言葉を紡ぐ。
「だったら余計に知らない人間を教会に泊まらせるのは、止した方が良いのではありませんか。」
「ええ?」
紅夜は大きな瞳を更に見開いて驚く。そして微笑んで見せた。
「大丈夫です。髪の毛の色や、隔世遺伝の瞳のことを告白してくれたあなたは、もう知らない人間ではありませんから。」
そう言って、紅夜は渋る青年の手を取って些か強引に教会の奥に案内するのだった。
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