第10話
食事を終えた後、結喜は車に乗り込んでスポーツの里を出発した。彼女は車を烏帽子岳山頂に向けて走らせた。
五分ほど車を走らせて、彼女は山頂付近にある駐車場に辿り着いた。結喜が車を降りると、目の前に芝生が広がっていた。
長崎県には『西海国立公園』と呼ばれる国立公園があり、佐世保市や平戸市など、長崎県北西部の海や島などが国立公園に指定されていた。
烏帽子岳もその内の一つに指定されており、山頂部付近に広がる芝生も国立公園として紹介されていた。
昼も少し過ぎたくらいの時間になっていた。。日光を遮る雲はほとんどなく、青空の中を太陽が悠々と泳いでいた。
その太陽に向かって結喜は苛立ちを飛ばしていた。
「暑い……時間ミスったか?」
愚痴にも似た呟きが山に流れた。日中最も暑い時間帯の山頂。太陽に一番近い場所にいて、暑くないはずがなかった。残念ながら帽子を持ってきていないことに気付き、結喜はますますテンションを下げた。
「あ、あそこか……」
そんな中、結喜は山頂に昇るための道に顔を向けた。木々が生い茂る場所に、登山道が山頂に向かって伸びていた。
登山と言っても本格的なものではなく、数分で山頂に到着するような道で、少しきついウォーキングのようなものだった。
それでもこの暑さの中、その坂道を登ることに気後れする結喜。せめて帽子だけは持ってくるべきだったと後悔した。
「……とにかく登るか」
そう言って準備する結喜は、天上へと至る道に足を踏み入れた。
わかってはいたが、やはり山頂への道は簡単ではなかった。整備されているとはいえ、街中みたいに歩きやすい道ではなく、結喜は何度も転びそうになった。
それに周りは木に囲まれた道なので、虫が飛んでいたりもした。元々アウトドアが苦手な結喜にとって、こうした状況は最も苦手としていた。
それに何より、空から注がれる日光が結喜を苦しめた。木がいくらか遮ってくれると言っても、それでも初夏の熱気が結喜を襲った。すでに下着まで汗で濡れていて、その粘着質な感覚も結喜には辛かった。
そうして登り続ける結喜だが、彼女はその途中で立ち止まり、周りを見渡した。
「……こんなだったっけ?」
そんな呟きと共に彼女は首を傾げた。
正直ここに来るまでに、彼女は何度も首を傾げていた。高校生の頃、遠足で登ったことのある烏帽子岳。だというのにここに来るまで、彼女の中に懐かしさといったものが湧き起ることはなく、本当にここに来たことがあるのかと、ずっと疑問が浮かんでいた。
山頂近くまでくれば思い出が蘇るかと思ったが、そんなこともなかった。
そんな自分の感覚に、結喜はがっかりしていた。蘇る思い出に喜んだり感動したり、そんなことを想像してここまで来たのだ。なのにそんなことはまったくなく、むしろ汗だくになって疲労困憊になっている。
そんな自分に結喜は呆れてさえいた。
しかし、それも仕方ないと思っていた。高校を卒業して何年も経っているのだ。思い出だとか懐かしさとか言っても、そんなものは薄れていたとしても仕方ないことだ。
思い出は時間と共に薄れ、色褪せ、遠ざかってしまうものだ。結喜は溜息を吐いた
「人の記憶なんて、そんなものだよなあ……」
きっと思い出は、陽炎の向こう側に消えてしまったのだろう。結喜はそう考え、受け入れるのだった。
……はて、自分はこんな詩的なことを考えるような性格をしていただろうか? 結喜は自分に心情に疑問を抱いた。
まあ、この状況に感傷的な思考が湧き起っているのだろうと、結喜は自分を納得させた。
一旦そこで立ち止まる結喜。そこから下りようかとも考えたが、山頂まであと少しなのだ。せめて登頂だけでもしようと思い、彼女はそのまま登り続けた。
もうすっかり疲れ切っていた。髪は汗で濡れていて、日光に当てられて頬は痛いくらいに熱かった。息も絶え絶えになっており、一歩踏み込むだけでも身体が重く感じられた。
「私……本当にここ、登ったのか?」
疑問を超えて、もはや信じられない気持ちだった。体力のない自分がここまで来たことがあるのか、本当に信じられなかった。
やはり自分の中の思い出や記憶はなくなってしまったのかと、結喜はそのことを残念に思った。
とにかく山頂まで行こう。そう思って顔を上げると、空が開けた場所があった。
「あ……そこが山頂かな?」
もう少し登ったところに、明らかにそれまでと違う場所があった。空が開けており、青空が広がっていた。道も石畳になっており、そこから先に山頂の気配がした。
「よし……あと少し」
その言葉と共に山頂に行こうと一歩踏み出す結喜。
「……あ」
その時、結喜はその場で立ち止まってしまった。頬を流れる風、木々のさざめき、そして天上に広がる青空を見た。
その瞬間、彼女の中でとある風景が流れ始めた。それは心象風景であり、彼女の中にずっと生きていた記憶であり、そして、心に刻まれた思い出だった。
「……私、ここに来たことがある」
そう呟いて、結喜は歩き始めた。その一歩一歩は力強く、踏み間違えることもなく。彼女は目の前の道を歩き続けた。
その時、彼女の記憶が呼び覚まされた。友達と一緒に登った道。一緒に笑い合って、お互いに手を握り合って歩いた道。その記憶が結喜の歩みに力をくれた。
彼女の中に流れている心象風景が、彼女がここに来たことことがあると教えてくれた。
もう疲れも何も感じなかった。結喜はひたすら山頂に向かって歩き続けた。今はただ、あの道の向こうへ行きたい。その一心で歩き続けていた。
「……そうだ。私、ここに来たことがある! みんなと一緒に歩いたことがある!」
その時、結喜は笑っていた。彼女の中に蘇った記憶に、彼女は喜びで笑っていた。
もう彼女の足は止まらなかった。彼女はそのまま、その心象風景と共に、その山の頂に一気に歩いて行った。
そうして、結喜はその場所に辿り着いた。
「…………」
そこは、佐世保で最も空に近い場所だった。見上げれば青空。下を見れば、佐世保の街が一望できた。山頂は石畳になっていて、端から端へ歩くのに30秒も必要なかった。その場には誰もおらず、結喜の姿しか見えなかった。
だけど、結喜は一人きりではなかった。彼女はそこで、思い出の中で友達と一緒に歩いていた。
遠くを指差して、あそこが私の家だとか、あっちが自分のマンションだとか、そんなことを嬉々として語り合っている。
横を向けば、自分が通ったことのある小学校も見えた。自分がよく遊んだ町も見えた。
確かにそこに、結喜は来たことがあった。かつて一緒にいた友達と。
「…………私、やっぱり、来たことがあるんだ。ここ」
その時、結喜の頬を涙が伝った。それからはもう、止まることがなかった。
彼女の中にある記憶が、鮮明に蘇る。その記憶の呼びかけに、彼女の心が喜び、叫んでいた。
やっぱりここに来てよかった! 帰らなくてよかった! こんなに嬉しくてたまらなくて、もうとにかく嬉しくてたまらない!
もう涙も笑みも止まらない。目の前には手に届きそうな青空。そこから見えるのは、彼女が生まれ育った佐世保の街があった。
彼女はスマホを取り出して、眼下に広がる故郷に向けて写真を撮り始めた。
もう涙で前が見えていなかった。スマホを構えても、どんな風に映っているのか見えていなかった。
だけど、そんなことはどうだってよかった。だって、その光景はどこを撮ってもきれいだったのだから。
今はただ、写真を撮り続けた。やっと見つけた、彼女の『故郷』に向けて、写真を撮り続けた。
やっと故郷に出会えた結喜は、初夏の暑さも疲れも忘れて、ただ写真を撮り続けるのだった。
家に帰ると、結喜はベッドの上に倒れこんだ。疲労困憊。汗で体はべとべと。頭の中は沸騰したままだった。
だけど、そんなことなもう忘れていた。彼女の中には、烏帽子岳での情景が今も鮮烈に浮かび上がっていた。
スマホを手に取って画像フォルダを開くと、山頂で目にした光景が画面に映し出された。
1枚1枚じっくりと眺める。その全てに懐かしさが込み上げてくる。
「行ってよかったな……」
ひたすら嬉しかった。行ってみてよかったと、彼女は喜びを噛み締めていた。旅がこんなにも楽しいものだったなんて、想像もしていなかった。
最後の写真を見終わった後、彼女の中に一つの思いが湧き起った。
かるドラでは旅を終えて帰って来た少女たちが、次の旅はどこにしようと楽しそうに語る姿があった。
今、結喜は少女たちと同じように、次の旅に向かって気持ちが動いていた。
この日、彼女の心が完全に燃え上がっていた。
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