第2話

 姉の朱里あかりが、事故で死んだ。

 私が高校一年生のときのできごとだった。

 甘い金木犀きんもくせいの香りをじわじわと覆い尽くすように、周囲に広がっていくガソリンの匂い。前方が無惨にひしゃげた車。ゆっくりとアスファルトを侵食していく赤黒い液体……。

 毎晩目を閉じるたびに、昨日のことのように蘇る光景に、息を忘れる。朱里の虚ろな目が、じっと私を見ている。

 紫色の唇が、ゆっくりと動く。

『――この人殺し』

 あの日、私の心は死んだのだ。


 爽と出会ったのは、朱里を失った二年後のこと。

 もみじが真っ赤に染まる秋だった。

 季節外れの転校生として、私は実咲野みさきの高等学校三年一組の教壇に立っていた。

宝生ほうしょう陽毬といいます。よろしくお願いします」

 朱里の事故から二年が経った今、私は姉の朱里と暮らした東京を離れ、長野県ながのけんの山間の街に移り住んだ。

 理由は、両親が離婚したから。私は母に引き取られるかたちで、母方の実家があるこの長野県に引っ越してきた。

 母は私に、父とは仕事の都合ですれ違ってしまったのだと言っていたけれど、おそらく違う。

 両親の離婚は、朱里の死がきっかけだ。朱里が亡くなってから、うちは壊れてしまった。そしてその朱里の死は、他ならない私が原因。つまり結局は、私のせい。

 私のせいで家族はばらばらになったのだ。

「卒業まであと半年足らずという短い時間だけど、みんな宝生さんと仲良くしてくださいね。席はえっと、どうしましょう……」

 先生が教室内をきょろきょろと見回す。

「はーい、先生! ここ空いてるよ!」

 窓際から二列目の席に座っていたひとりの男子生徒が、元気よく手を挙げた。

「立花くんのとなりか。うん、じゃあ立花くん、宝生さんにいろいろ教えてあげてくれる?」

「よっしゃあ! 俺、可愛い転校生に学校案内するの夢だったんだよ〜!」

 クラス中がどっと笑いに包まれる。

 人懐こい笑顔を私に向けたその男子生徒は、どうやら人気者のようだった。

「じゃあ宝生さん、立花くんのとなりの席について」

「はい」

 私が席に着くと、その男子生徒――立花くんは、まっすぐに私を見つめて笑った。

「俺、立花爽。よろしく!」

 近くで見ると、ずいぶんと色白な肌をしたその人は、明らかに地毛とは思えない栗色の髪をしていた。幼い顔つきのせいか、茶髪はあまり似合っていない気がする。黒髪ならきれいな顔がもっと目立っていただろうに、もったいない。

 ……まぁ、私には関係のないことだけれど。

 カバンから教科書を取り出しながら、私は小さく会釈した。

「……よろしく、お願いします」

 これが、私と立花爽との出会いだった。


 立花くんは、不思議なひとだった。

 自由奔放のようでいて、実は周りをよく見ている。だれかが落ち込んでいれば真っ先に声をかけ、いじめが始まりそうな予感があればしれっと間に入る。

 おしゃべりで傍若無人ぼうじゃくぶじん。成績はあんまりのようだけど、だれかの悪口を言うこともなければ、否定もしない。

 だから、クラスではとても人気者。いつだってクラスメイトたちに囲まれている。

 立花くんは正に、死んだ姉の朱里だった。


 転校して、約一ヶ月。

 予想どおり、正義のひとらしい立花くんは、だれとも関わろうとしない私にまで積極的に話しかけてくる。

 だから私は、私なんかのことをかまってくる立花くんのことが、あまり好きではない。

「ねぇ、宝生ってさ、いつもひとりで勉強してるよね。なんでなの?」

「……あなたこそ、なんで私のことなんてかまうの」

「え、なんでって……気になるからだけど?」

 そう、立花くんはさらっと返しながら、自分の教科書を私の机にスライドさせてくる。

「ね、この問題教えてよ」

「…………」

「聞いたよ。宝生って、転入試験満点だったんでしょ? すごいじゃん!」

 先生が噂してたの聞いちゃったんだ。そう、のんびりとした声で、立花くんは言った。

「べつに、なにもすごくない」

「そんなことないよ! 俺には絶対無理だもん!」

「…………」

 まっすぐな眼差しから逃げるように、私は立花くんから視線を逸らした。机に向かったまま、ぽそりと言う。

「私は、勉強していい大学に行かなきゃいけないって決められてるから。そのために必要な勉強をしてるだけ」

「……もしかして、親が厳しいの?」

 立花くんが心配そうな顔をして訊ねてくる。

「……そうじゃないけど……でも、私はもっと立派にならないといけないの。そのためには、今のままじゃだめ。もっともっと勉強しないと」

 自分自身に言い聞かせるように呟きながら、私は再び机に向き合う。

「ふぅん……なんかよくわかんないけどさ、勉強ばっかりじゃ息が詰まらない? 勉強するのはえらいことだけどさ、息抜きも大事だよ? ちゃんとしてる?」

「……それは、限界まで勉強した人が言う言葉でしょ。あなたこそ息抜きばかりでそんなに努力してなさそうだけど」

「おっと、ツッコミ鋭っ!」

「…………はぁ」

 からからと笑う立花くんに呆れ顔を返す。すると、立花くんはどことなく気まずそうに苦笑した。

「冗談だって! もう、そんな怖い顔しないでよ」

「……べつに、怖い顔なんてしてない」

「そ?」

「…………」

「あっ! いいこと考えた!」

 ……いやな予感がする。

「ねぇ! 今日放課後、デートしようよ!」

「…………」

 やっぱり。

 どういう思考回路を辿ればそういう言葉が出てくるんだろう。

「あれ? 聞こえなかった? デートだよ、デート!」

「……聞こえてるってば」

 本当に気ままなひとだ。私がやんわり拒絶していることに気付いていないのだろうか。

 どちらにせよ、私の答えは決まっている。

「悪いけど、テストも近いし、勉強しないといけないから」

 私はそう返すと、再び机に向かった。

「え〜、そんなつれないこと言うなよ〜。ちょっとでいいからさぁ」

 私には、友達を作る暇なんてない。だれかと遊ぶ暇なんてもっとない。だって私は、『朱里』の代わりなのだから。

「なぁ、行こ?」

「行かない」

「行こーよー!!」

「行かない!」

 あぁ、もう面倒くさい。

 私は嘆息しながら、心の中で思った。

 早く席替えして、このひとと離れないかな、と。

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