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着替えの類を最小限に抑えるのはお遍路に限らず旅行の鉄則だが、その場合、洗濯できる頻度が鍵になってくる。その点、昨晩は納屋をお借りできたのが非常にありがたかった。昨夜の内に洗濯を済ませ、納屋に干しておいた下着類がすっかり乾いている。リュックサックに荷物を詰め込み、宿を出発した。今日は再び打てない日だ。次の札所である金剛福寺にできるだけ近づけるように歩みを進めるのが今日の目標である。


歩き始める前からズキズキしていた左足の親指の付け根は痛みがひどくなった。昨夜、迷った末に潰した水ぶくれの跡も今頃になってヒリヒリと痛む。右足のかかと側面には別の大きな水ぶくれができているが、これは潰すのが怖くて今のところは見て見ぬ振りをしている。足にはそろそろ何がしかの対策が必要だった。


四万十市に入るとコンビニやドラッグストアがにわかに増え始めた(何とも紛らわしいことに、高知県には四万十市と四万十町という同名の市と町がある)。私はその内の一軒に立ち寄り「装備」を整えることにした。まず、かかと部分に厚みを持たせたショートソックスを購入した。とにかく、かかとの保護が急務である。


買ったばかりのショートソックスを素足に履き、先ほどまで履いていた靴下を上から重ねると、足裏をアスファルトに叩きつける度に受けていたかかとのダメージがいくぶん和らぎそうだった。しかし、念には念を入れ、足裏に貼るジェル質のクッションを買い、これをかかとに合わせてみた。これで完璧とは言えないまでも、実際に歩いてみると、先ほどまでと比べてかかとの下に弾力性を感じる。これなら歩けるような気がする。気の持ちようという側面もあるだろうが、歩き遍路にとって感情のコントロールもまたお遍路の重要な技術である。


土佐市や四万十町では青々とした田んぼを眺めながら歩いたが、四万十市では穂を実らせて金色に光る田んぼや、収穫を終え稲株が一面に並んだ田んぼが目立つ。トンボが飛び交うのと相まって、なんだか秋の風景のように見える。頭上で照り付ける太陽だけが真夏の証のようである。とは言え、今日は雲が多くてまだ歩きやすい。自動販売機の前で立ち止まる回数も昨日までよりはだいぶ減った。


四万十市から土佐清水市に差し掛かると、雷のとどろく重低音が後方から響き渡ってきた。振り返った先には黒い雲が立ち込めていた。嫌な予感がする。小雨程度なら気温が下がってむしろありがたいのだが、あの雲は大雨を連れてきそうだ。レインポンチョの出番かなと思うが早いか、雨粒が額に当たった。あわててリュックサックからレインポンチョを取り出すと、身支度を終えないうちに天気は雷混じりの土砂降りに急変した。今回、夏の歩き遍路では初めての雨だ。


雨は困り物だが、個人的に閉口したのは雷だ。私は雷が苦手なのだ。タイミング悪く峠の登り坂に差し掛かっていて、山中にとどろく雷鳴は私の恐怖心を掻き立てた。なぜかは分からないが、私には幼い頃から、雷というのは木に向かって落ちるものだという思い込みがある。ひょっとすると、祖母かほかの誰かにそのような話を聞かされたのかもしれない。落雷で死ぬ人など滅多にいないことは十分に理解していても、目の前に落ちるのではないかという不安がどうしてもぬぐえない。余計なことを考えないよう足元に集中しながら、ただひたすらに足を動かした。


一時間も経たない内に雨は小降りに変わり、雷鳴もでんでん太鼓がたてる音ほどに迫力を失ってきていた。全長が千六百二十メートルある新伊豆田トンネルを抜けると雨はすっかり上がり、頭上には再び太陽が姿を見せていた。ほっとひと安心も束の間、今度は強烈に射す西日が恨めしくなってきた。何とも身勝手なことを思っているなと、我ながら少し呆れて苦笑いした。


山沿いの道が海沿いの道に変わり、午前中に電話で予約を入れた宿には後一時間ほどで到着するはずだ。ここも昨日までと同じく、何か所かで断られた挙句にようやく取れた宿だった。


ドラッグストアでの奮闘もむなしく、足裏は両足とも痛みが完全に復活していた。それどころか、ずぶ濡れの足元は痛みに加えて不快感も大きく、一刻も早く宿にたどり着き靴を脱いでしまいたかった。道沿いにそれらしい建物が見える度に、あれがそうか? と期待するが、実際に建物が近づくにつれて全く関係ない別の建物だということが分かると、私は大いに落胆した。宿を確保できたことに対する感謝の念も忘れ、いったいどこまで歩かせるのかと心中で毒づいた。痛みと疲労で気持ちがささくれ立っていたのだ。逆境に立たされた時にこそ人間の真価が問われるのなら、私はその程度の人間なのだろうという自虐的な考えが頭に浮かんできた。


期待と落胆を何度か繰り返した後、私はようやく今夜の宿に到着した。


「お荷物を下ろしたらまずはお風呂にどうぞ。その後はご飯の用意ができておりますので」


出迎えてくれた女将さんがお疲れ様と労ってくれ、私はさっきまでの自分の身勝手さが無性に恥ずかしくなった。

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