・3-6 第26話:「洗礼:2」

 三十メートルはあるだろうという高い足場の上から、クレーターの底までハシゴで下りていく。

 それは予想していた通り、カナエにとっては大変な苦労を伴うものだった。

 ———少し手足を滑らせただけで、地表に真っ逆さま。

 それだけでも恐ろしいのに、今の彼女はロイヤル・メイド派遣サービスの制服であるエプロンドレス姿。

 しかも、履いているのはハイヒールだ。あまりかかとが高くないタイプとはいえ、固くて動きにくいので、細いハシゴの段を踏みしめる時は常に不安だった。

 その上さらに、ロングスカートが時折吹き込んで来る風でふわりと膨らみ、自身の足元の視界を奪うだけでなく、身体をどこかへと持って行こうとするのだ。

 もしここがかつて自分の暮らしていた軌道上居留地であれば、恥じらって必死にスカートを押さえつけるところだったが、幸い、ここにはカナエとステラしかいない様子なので我慢することはできた。

 風が吹くたびに、ひっし、と全力でハシゴにしがみつき、落とされないように耐え忍ぶ。

 先行している少女もポンチョを身にまとっているから風を受けると同じように翻弄ほんろうされてしまうのだが、ずいぶんと慣れている様子でわずかな動揺しか見せなかった。

 それどころか、別のハシゴに乗り換えなければならない、階段の踊り場のようになっている場所に来ると手早くポンチョのすそを自身の身体に巻きつけて邪魔にならないようにすると、さっさと下りて行ってしまう。


「おねーさんも、お洋服を身体に巻きつけておいた方がいいよー! 」


 そんなアドバイスの言葉が下から聞こえてくる。


「そ、それは、わかるけど……! 」


 カナエは、羞恥心しゅうちしんで顔を赤くしながら、泣きそうになっていた。

 理屈はわかる。

 しかし、自分はスカートの下に、下着とガーターしか履いていないのだ。

 ステラのように終末世界でも動きやすいズボンとかを身に着けているわけではない。スカートをたくし上げ、身体に固定してしまうことは可能ではあったが、そんなことをしてしまえば、なんというか自分の尊厳を失ってしまうような気がする。

 背に腹は変えられない、とも言う。


(こ、ここには、私と、あの子しかいないんだし……! )


 ならば、恥ずかしい姿を見られたところで平気なのではないか。

 そう思いもしたが、結局、メイドはスカートをたくし上げるようなことはせず、時間をかけて下りていくことの方を選んでいた。

 どうせ風でめくれあがってしまうのだから、もう関係ない、気にしても仕方がないだろうと、そう割り切ってしまうことはどうしてもできなかったのだ。


「がんばれー! 後、半分くらいだよー! 」


 どうやらステラは、とっくに下までたどり着いているらしい。

 おそらくは手を振りながら声援エールを送ってくれるが、カナエにとってはちっともありがたくはなかった。

 いや、気持ちは嬉しいのだが、結局は無事に下まで降りるには、自身の手足だけが頼りなのは応援してもらってもなにも変わらないからだ。


「私……っ! ファイトっ!! 」


 全身に冷や汗を浮かべながら、歯を食いしばり、メイドは必死にハシゴを下りていく。

 せっかく、生き残ったのだ。

 こんなところでうっかり命を失いたくはなかった。

 元々、冷凍睡眠ポッドに入る前の生活だって、地獄みたいなものだったではないか。

 こんな終末世界であろうと、生きていれば、なにか楽しいことに出会えるかもしれない。そんなものに巡り会うことができないのだとしても、簡単に生きることを諦めたくはなかった。

 一段ずつ、少しずつ、地上に。

 早くしっかりとした地面を踏みしめたい一心で、一方で足を踏み外さないように焦る気持ちをどうにか抑えながら、一歩一歩、慎重に進む。


「……うわっ!!? 」


 だが、もう何度目になるかわからない風が吹いた瞬間、カナエは咄嗟とっさに身体を支えきれずに、ハシゴを手放してしまっていた。

 慌ててつかみ直そうと手をのばすが、空を切る。

 固いハイヒールでは踏ん張ることもできず、つるり、と滑る。

 全身が、重力に引かれた。

 ゾワッ、と恐怖で鳥肌が立ち、背筋が凍りつき、こんなことならプライドなど捨ててスカートをたくし上げておけばよかったと、後悔する。


「きゃ、きゃぁぁふっ!? 」


 思わずあげた悲鳴は、長続きせず、すぐに途切れていた。

 なぜなら数秒もしないうちに足が地面についたからだ。

 その衝撃で息がつまり、一瞬、頭が真っ白になる。


「はい、とうちゃ~く! お姉さん、お疲れ様! 」


 ハシゴから手を離した瞬間の姿勢のまま、両手を上にあげてバンザイした状態で硬直していたカナエの顔をのぞき込んだステラが、なんだか楽しそうに、朗らかに言う。

 その言葉で自分がなんとか地上までたどり着けたことを理解したメイドは、———崩れ落ちるようにへたり込んでしまっていた。


「は、ははは、は……」


 乾いた笑いがれる。

 やり遂げた、という達成感など、微塵みじんもなかった。

 胸の内にあるのは、ひたすら、安堵感。

 もうハシゴを下りなくて済むのだという解放感と、グラグラと揺れる足場ではなく、しっかりと自身の身体を支えてくれる地面の頼もしさ。


(もう、こんなことは二度と、するもんですか! )


 強く、強く、そう思う。

 同時に、自分はもう、このハシゴを登り、あの冷凍睡眠ポッドの中には絶対に入らないとも誓っていた。

 またハシゴを下りることになるから、という理由ではない。

 世界が破壊された日、文明が崩壊した瞬間から彼女のことを守り、命を長らえさせてくれた高度な機械。

 そのことに感謝はしているが、それは、カナエにとっては自身の人生を束縛して来たモノの象徴でもあったからだ。

 生まれながらにして背負わされた借金を返すために、必死に働き続けなければならない日々。

 自分を人間ではなく[商品]として扱い、頭ごなしに売り買いし、見栄を張るために雇ってメイドとして働かせていた[上流階級ロクデナシ]たち。

 たとえこの終末世界がどれほど過酷であろうとも、過去に戻りたいとは少しも思わなかった。

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