第36話 お母様と恋人
使節団来訪から三日目、フロリアン王子はハッツフェルト家へと向かった。
アウフレヒト辺境伯とオルローブ侯爵も招かれており、王子は貴族家三家と親睦を深める。
国賓である王子が、王家抜きで貴族家と親睦を深めるのは異例だ。
王家の外交権は、これまでアウフレヒト辺境伯とオルローブ侯爵に奪われていた。
カタリーナが彼らを追い出し、王家は再び外交を掌握するようになったが、長らく外交の主導権を奪われていた後遺症は重い。
彼らの他国とのパイプはいまだに太く、王家のそれは細い。
「え~。ですから~、小麦の需要においては~」
語尾を伸ばす癖のある彼の説明を、カタリーナは静かに聞いている。
声の主は、ブルークゼーレ王国使節団の一人であり、農産物輸入関係の責任者だ。
今は、農産物に関する会議の真っ最中だ。
フロリアン王子が貴族たちと優雅に交流する中、カタリーナは農産物の、フィーリップは国境警備に関する会議にそれぞれ出席している。
大国であるブルークゼーレ王国にとって、王族とはお
十分な数の実務担当者が、大国にはいる。
しかし小国であるこの国では、王族もまた実務担当者だった。
「え~。ですから~、来年度の輸入量としては~」
説明を聞きながら、カタリーナは内心で
(はあ。早く終わらないかしら)
今日はマニの日だ。
マルガレーテと外遊びをする日だ。
この会議が終わったらすぐ、庭園の噴水のある場所に行き、マルガレーテとたっぷり遊ぶつもりだ。
しかし、なかなか会議が終わらない。
王宮では、宮廷呪術師が正確な時間を計っている。
もう随分前に、伝令の使用人が終了時刻であることを伝えに来ている。
それなのに、まだ終わらない。
農業関係責任者の、よく言えば丁寧、悪く言えば冗長な説明をうんざりしながら聞いていると、会議室の扉が少しだけ開く。
こそこそと、目立たないように女性が入って来た。
マルガレーテの侍女だった。
「大変です。
ハッツフェルト侯爵夫妻が、王女殿下を連れ去ろうとされています」
「なんですって!?」
侍女の耳打ちは小声だったが、カタリーナの反応は大声だった。
即座に会議を中座し、侍女の案内でマルガレーテの
道すがら、侍女から事情を聞く。
マニの日の外遊びを、マルガレーテは楽しみにしていた。
約束の時間より大分早く、いつもの噴水のところへ行ってカタリーナを待っていた
そこに現れたのが、ハッツフェルト侯爵夫妻だ。
彼の屋敷にいるフロリアン王子が、どうしてもマルガレーテと会いたいとのことだ。
侯爵たちが強引に連れ去ろうするなら、護衛も武力行使により排除できる。
しかし彼らは強引な手段を取らず、ただしつこく説得するだけだった。
マルガレーテとの面会を希望しているのは、大国の王子だ。
また、王子の使者として来ているのは、何と言っても大貴族家の当主だ。
実力行使による排除には護衛も慎重になってしまい、今もしつこく付き
慌ててカタリーナのところに来たのは、侍女や護衛では対応が困難だからだ。
侍女はそう説明する。
「しつこいんだみょん!
王女様は行かないって言ってるんだみょん!」
「黙れ!! 平民が!!
お前たちに手を出さないのは、あの女の策に乗らないためだ!!
今、お前たちに手を出したら、それを理由にまた当家に何かしてくるのが見え見えだからだ!!
だがな!!
これ以上、生意気なことを言うなら、あの女が手を出せない状況になったとき、絶対に殺すぞ!!」
噴水に向かう途中、姿が見えるより先に言い争う声が聞こえる。
ギリゾンとハッツフェルト侯爵の声だった。
アシスタントたちはカタリーナの庇護下にある平民の孤児たちだと、公には説明している。
また、彼女たちが貴族相手に
明らかに
アシスタントたちの態度に怒った貴族が彼女たちを傷付けようものなら、不敬にも王妃の庇護下の者を害したという名目で制裁を科すつもりだ。
平民の孤児を選んだのは、死んでも誰も文句を言わないからだ。
ハッツフェルト侯爵はそう考えているのだろうと、カタリーナは思った。
「王女殿下。
あんな女の言うことを聞いてはいけませんわ。
愛情を込めて育ててあげた恩を
「そんなことありませんわ!
王妃様は、とってもお優しいですわ!
一緒にお休みしてくださいますし、一緒に遊んでくださいますわ!」
次に聞こえたのは、ハッツフェルト夫人とマルガレーテの声だ
「オホホホ。
王女殿下はご存知ないんですよ。
あの女は、人を殺すのが大好きなんですよ?
死刑囚の処刑だって、わざわざ自分でやっているんですから。
あの残酷さは、きっと母親の血筋のせいですわね」
あと少し、次の角を曲がれば噴水が見えるというとき、ハッツフェルト夫人の
それで、カタリーナの足は止まってしまう。
死刑囚を自ら処刑していることを、カタリーナはマルガレーテには話していなかった。
このことを話すなら、彼女がもう少し大人になってからだ。
そう思っていた。
しかし、思わぬ形で知られてしまった。
事実を知った五歳のマルガレーテの目には、自分がどう映るのだろうか……。
優しいと思っていた人が、実は残虐な一面を持っていた。
それを知ったのだから、嫌悪感を持つに違いない。
マルガレーテはまた、自分に駆け寄って来てくれるだろうか?
抱き上げたとき、心から安心した笑顔を見せてくれるだろうか?
この手は、血に
その事実を、知られてしまったというのに……。
マルガレーテに会ったとき、どんな笑顔で、どんな言葉を掛ければいいのだろうか……。
カタリーナは、そんな考えが渦を巻いてしまった。
「わ、わたくしは! 気にしませんわ!」
(え!?)
マルガレーテの言葉に、カタリーナは驚く。
親しい人が、人を殺しても気にしない。
そんな子供がいるとは、とても思えなかった。
「なんですって!?
殺人が何より好きな残虐極まりない性格なのに、それを気にしないですって!?」
「陛下が
王妃様の悪口は、気にしなくて良いって!
ほとんどは
噂とは全然違って、王妃様は何一つ間違ったことをしていないって、陛下は
それから陛下は、
わたくしの目で見た王妃様は、とってもお優しいですわ!」
一生懸命に反論するマルガレーテの言葉を聞いて、カタリーナは理解した。
フィーリップがなぜ、そんな話をマルガレーテに言って聞かせたのかを。
こういった事態を想定し、事前に対策していたのだ。
(本当に、抜け目のない人ね……)
フィーリップの配慮に、カタリーナは心が温かくなる。
気付けば自分を助けてくれている、心強い味方だと思った。
「オホホホホ。
優しいのも今だけ、ほんの一瞬だけですわ。
だって、あの女は王女殿下の母親ではありませんもの。
いずれ飽きてしまいますわ」
「そんなことありませんわ!
王妃様は、わたくしに痛み止めの呪術を使ってくださいましたわ
世の中のお母様は、みんな子供にこの呪術を使うって、わたくしに呪術を使ってくださいましたわ!
『代われるものなら代わって上げたい』って仰ってくださいましたわ!
王妃様は、わたくしの!
わたくしの、もう一人のお母様ですわ!」
(!!?)
マルガレーテが、自分をお母様だと言ってくれた……。
お母様だと、認めてくれた……。
手が震えてしまうほどの、感動だった。
止まっていたカタリーナの足は、吸い寄せられるようにマルガレーテへと向かった。
「マルガレーテ……」
涙で顔をぐしゃぐしゃにして、カタリーナはマルガレーテの前に現れる。
「王妃様!?
どうされたんですの!?
どこか痛いんですの!?」
尋常ではない様子のカタリーナを見て、マルガレーテは心配そうに見上げる。
その幼い優しさもまた、カタリーナの涙をより一層あふれさせる。
「ありがとう。
お母様と言ってくれて。
とっても……とっても嬉しいわ……」
崩れるようにマルガレーテの前でしゃがみ込むと、カタリーナは彼女を強く抱き締める。
「王妃様?」
「そうよ。
わたくしは、あなたのお母様よ。
わたくしは、あなたの二人目のお母様で……あなたは、わたくしの可愛い娘よ」
「お、お母さ……う……うわあああああああん」
マルガレーテもまた、
しがみ付くように、カタリーナに強く抱き付く。
ようやく親子と認め合えた二人は、涙を零しながら抱き締め合う。
あまりにも大きな喜びで、カタリーナは何もできなくなってしまっていた。
座り込みマルガレーテを抱き締め、ただ涙を流すだけだった。
侯爵夫妻を追い払ったのは、少し遅れてこの場に来たフィーリップだった。
◆◆◆◆◆◆
「これではっきりしたな。
フロリアン殿下の狙いは、マルガレーテだ」
その日の夜、使節団の接待が終わってから、カタリーナとフィーリップは酒を共にする。
その席で、フィーリップはそう言う。
「私を狙った当時、君は引き籠もりの王妃として有名だった。
私さえ排除できれば、マルガレーテを手に入れるのも
問題は、なぜここまで強引な手段を取るのかということだ。
兄である王太子殿下に子供ができないから歳の離れた身分の高い女性を望んでいる、というだけなら、暗殺にまで手を出す必要はないはずだ。
マルガレーテでなくてはならない理由があるはずだ」
『あの方は間違いなく、
カタリーナの脳裏に、ふと王子の言葉が
生理的嫌悪で鳥肌が立ってしまう。
「七越山に来た血縁者はゾフィ以外にもいると、セルビータが言っていたな。
もしかしてそれは、フロリアン殿下ではないのか?
狙いが霊宝なら、暗殺という強硬手段に出たことも納得できる。
もしそうなら、厳重な警戒態勢を敷く必要があるな」
「その血縁者は、茶色の髪に茶色の瞳だとセルビータは言っていましたわ。
ですが、殿下の髪色は
誰もいない山中で変装する必要もありませんし、今のところ別人である可能性の方が高いと思いますわ」
「そうか。
いずれにせよ、注意は必要だな。
マルガレーテの護衛の数を少し増やして、接近しようとする者がいたら高位貴族であっても遠慮なく排除するよう改めて指示を出しておこう」
仕事の話が終わり、二人は飲むペースを上げる。
仕事での緊張を酒で
その日、カタリーナが話したかったことは、何と言ってもマルガレーテのことだった。
初めてお母様と呼んでくれた。
それがどれほどの喜びだったのかを、カタリーナは嬉しそうに語る。
感動を想い出し、時折うるうるしながら話す。
「良かった。
これでようやく、お父様と呼んでもらうことができる」
フィーリップもまた、とても嬉しそうだった。
彼もまた、この日を待ちわびていた。
「あとは、私と君との関係だけだな」
「わたくしとの関係、ですか?」
「ああ。
一つ一つ手順を踏んでいこうと思う。
まずは、恋人同士になりたい」
(!!?)
「こ、こ、こ、こ、こ……」
動揺するカタリーナは、ニワトリのようだった。
これまでフィーリップは、恋人同士になりたいと言ったことはなかった。
本当の家族になりたい。
本当の夫婦になりたい。
そんな言い方をしていた。
――恋人――
前世はもちろん今世でも、そんなものは一瞬たりともいたことがない。
せめて一度ぐらい、恋人との
命の灯が消えようとしているとき、前世ではそんなことを考えた。
恋をすると、どんな気持ちになるんだろう。
今世でハッツフェルト家の一室に閉じ込められて暮らしていたとき、そんな空想をよくしていた。
カタリーナにとっての恋人とは、手の届かない
――恋人――
他の追随を許さない圧倒的に長い彼氏いない歴のカタリーナにとって、甘すぎるほどに魅惑的な言葉だ。
痛いほどに心臓が跳ね、頭が
前世で文学少女だったカタリーナは、不意に前世で読み漁った恋愛小説を思い出す。
それで考えてしまう。
物語での恋人同士の会話は、他の人たちとの会話とは全く違っていた。
溶けてしまいそうなほど甘やかなものだった。
あんな甘い会話が、自分にできるだろうか……。
きっと無理だ。
甘い会話どころか、緊張して会話にならないだろう。
用意していた会話は全て秒で終わり、ついには話すことがなくなり長い沈黙が続く。
そんな悲惨な事態に、なってしまうだろう。
恋人同士になる。
これは、ゴール地点ではない。
そこがスタート地点で、それからが始まりだ。
恋愛は一人でするものではない。
必ず相手の存在があり、始まってしまったらずっと、相手を満足させ続けなくてはならない。
そんなの、自分には無理だ……。
前世でも今世でも、恋人ができなかったのだ。
そんな自分が、絶えず男性を満足させ続けるなんて絶対に無理だ。
フィーリップとは、ビジネスパートナーとしてなら問題なく会話できる。
いずれ破局してしまうなら、この関係を崩さない方が賢明なのではないだろうか。
ビジネスでの関係は、破局しても続く。
気不味い関係になってしまうのなら、最初からそんな関係にならない方が良いのではないだろうか……。
「安心してほしい。
君が恐ろしいほどに奥手なのはよく知っている。
君のペースに合わせて、ゆっくりと関係を深めていくつもりだ」
暗い顔をして黙り込んでしまったカタリーナに、フィーリップは優しげな笑顔を見せる。
その言葉に、カタリーナは少しほっとする。
「まあ、逃がすつもりはないがな」
ぎらりと目を光らせてフィーリップが付け加えた言葉に、カタリーナの
◆◆◆◆◆◆
「ほうほう。それでそれで?
なんて返事したの?」
身を乗り出すエミーリエは、わくわく顔で話の続きを催促する。
フィーリップとの関係で悩んでしまい、カタリーナは彼女たちに相談した。
エミーリエの催促は、カタリーナに対する話の続きの催促だ。
「……とりあえず……お友達からってお願いしたの。
それで……文通を始めることになって……」
エミーリエとジビラは大笑いする。
「はあ、おかしい。
もう結婚してるのに、まずはお友達からで、しかも文通って。
中学生並みの初々しさだわ」
涙を拭いながらエミーリエが言う。
「……何がおかしいのかしら?
恋愛関係になることを前提とした男女のお付き合いって、普通は詩を贈り合うことから始めるものでしょう?」
カタリーナは頬を膨らませる。
精いっぱいに悩んだ末に出した結論を大笑いされ、かなり不満だった。
弁解するように、自分が知る常識について二人に説明する。
カタリーナの前世では、詩を贈り合って仲を深めるのが普通だった。
より仲を深めてお互いの恋心を確信するまでは、顔を合わせないものだった。
将来の恋愛を前提とした友人付き合いとは、そういうものだった。
フィーリップに文通を提案したのは、それに従ったものだ。
「この国の平民は、そんなことしないよ。
付き合う前に詩を贈り合ったりしないし、付き合う前だってスキンシップぐらいはするよ。
手を
「この国の貴族も、そんなことはしませんね。
恋愛関係になる前でも、最初からお茶会やデートぐらいはします」
「そ、そうなの?」
エミーリエとジビラにばっさりと否定され、ようやく自分の間違いに気付く。
引き籠もりだったカタリーナは、この国の常識には疎い。
前世の常識が今の常識なので、恋愛感覚は世間と大分ズレていた。
「それにしても、陛下もよく付き合って上げてるよね。
もう結婚してるんだし、あの手この手でベッドに連れ込んじゃえば良いだけなのに」
これまでエミーリエのフィーリップに対する評価は、どん底だった。
しかし最近、評価は急上昇している。
マルガレーテを溺愛し始めたからだ。
「急に決まった政略結婚なら、そんな感じですよね。
夫婦の恋愛は初夜から始まるものです」
「だ、駄目よ!
そんなの、絶対に無理よ!」
カタリーナは真っ赤になって否定する。
「まあ、陛下が想定外に根気よく対応されているというのは、エミーリエさんの言う通りだと思いますよ。
冷酷なぐらいに合理的な方ですからね。
効率的に最短の道を選んで、エミーリエさんが言ったようにする方だと思います。
でも、王妃殿下にだけは、とってもお優しいですよね?」
ニヤニヤしながらジビラが言うので、カタリーナは別の意味で赤面してしまう。
エミーリエたちの言うように、文通などの提案は常識から外れたものなんだろう。
非常識な提案をされたら、困惑するはずだ。
にもかかわらず、フィーリップは快諾してくれた。
とても優しそうに笑っていた。
あまりにもすんなりと受け入れてくれたので、カタリーナは自分の常識のズレに気付かなかった。
彼は確かに、最大限カタリーナに合わせてくれている……。
他人からそれを指摘されると、彼の包容力を改めて気付かされて胸が温かくなる。
同時に、気恥ずかしくて頬も熱くなる。
「でも、王妃様の気持ちが誰に向いてるのか、これではっきりしたよね。
今後どうなるのか、お姉さんは楽しみ。
むふふふ」
ニマニマとした笑顔でカタリーナを横目で見ながら、エミーリエは楽しそうに言う。
「わたくしの気持ちが、どこに向いているのかしら?」
「そりゃ、陛下でしょ?」
「ど、ど、どうして、そ、そうなるのかしら?」
「だって、アショフ小侯爵からの熱烈なアプローチにはすっかり尻込みしてたのに、陛下からのアプローチには前向きじゃない?
それって、そういうことでしょ?」
……確かにそうだ。
エミーリエに言われて、カタリーナは初めて自分の対応の違いに気付く。
夜会の真っ最中、ハインツに
あのときはただ、逃げ出すことしか頭になかった。
彼と恋愛関係になる将来なんて、考えることさえなかった。
だが、フィーリップが恋人同士の関係を望んだとき、それは甘美な誘惑に感じられた。
自分が恋愛を上手にできるとは思えなかったので悲観的な結論を出してしまったが、甘い魅惑に釣られ、恋人同士になった将来を想像してしまったことは事実だ。
(これって、恋なのかしら……)
恋愛経験のないカタリーナは、また悩んでしまった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます