第11話 落ち込む白雪姫と子育ての悩み
「マルガレーテ。スプーンの持ち方はそうではないわ」
「も、申し訳ありません」
マルガレーテと食事をしながら、カタリーナは彼女の食器の持ち方を注意する。
教育を一任されたことを契機に、呼び方を王女殿下からマルガレーテに変えている。
驚いたことに、マルガレーテはカトラリーの持ち方さえ知らなかった。
マルガレーテは、特殊な能力を持っている。
公式の場でそれが暴走することを危惧したフィーリップは、まだ幼いことを理由に彼女を表には出さないことにしている。
当面は、彼女の食事のマナーが問題になることはない。
そして、これまでマルガレーテは、ずっと一人で食事をしていた。
食事のマナーの
ゼッキンゲン夫人は本当に、フィーリップが注目することだけに力を注いでいた。
「
「も、申し訳ありません」
彼女の食事のマナーに誰も関心がなかったため、これまで誰もこの問題に気付かなかった。
カタリーナが初めて気付いて、この面でも
ゼッキンゲン夫人の教育は偏っていて、他にも足りない面はたくさんあった。
このため最近は、マルガレーテに注意することも増えた。
マルガレーテも、注意されて意気消沈することが多くなった。
今もマルガレーテは、しゅんとしている。
そんな彼女を見て、カタリーナもまた胸が苦しくなる。
(駄目よ。
ここで
教育を任せられているのは、わたくしなんだから。
わたくしには、教えるべきことをしっかりと教える義務があるのよ)
そう心の中で
◆◆◆
「ちょっと急ぎ過ぎなんじゃない?
今は、そんなに厳しく
マルガレーテの暗い顔を見て苦しくなってしまい、カタリーナはエミーリエに愚痴を零す。
それで返って来たのがこの言葉だ。
「継母と継子っていうのは、ゆっくり親子になっていくものなんだよ。
いきなり母親になろうなんて、しちゃ駄目なの。
まずは仲良くなって、
母親に叱られるのと顔見知りのおばさんに叱られるんじゃ、全然意味が違うよ?」
(……一理あるわ)
まだ二十二歳のカタリーナは「おばさん」という表現に強い抵抗を感じた。
だが、その言い分は納得できるものだった。
「母親になろうと努力するのは良いよ?
でも努力の仕方には、いろんなものがあるのよ。
注意したいのを我慢して見守るのも、立派な努力の一つだよ?」
「……でも、子供に問題があることに気付いていながら、それを無視するのは良くないと思うわ」
「私は、大した問題じゃないと思うけどね。
前世の世界ではね、小学校に上がる六歳までにはお箸の使い方、あ、食器の使い方のことね。
それを覚えさせた方が良いって、私の周りではみんな言ってたの。
小学校に入ってもお箸が使えない子がいたら、
でもね。
子供が成人してから振り返ってみれば、そんなの全然大した問題じゃなかったんだよね。
六歳までに覚えてなくて八歳や十歳からお箸の使い方覚え始めても、大人になったときお箸が使えてたらそれで良いって思えるようになったのよ。
食器の使い方の
「……そうね。
少しぐらい遅れても、長い目で見れば何も問題ないわ」
「私もお箸の
あのときあんなにお箸の
親が体裁さえ気にしなければ、子育てって、もっと子供に合わせて柔軟にできるって思うな」
(そうかもしれないわね。
わたくしの見栄だったのかもしれないわ……)
カタリーナはフィーリップの意識を変えて、いずれマルガレーテと一緒に食事をさせるつもりだった。
食事のマナーの教育を急いだのは、そのときフィーリップから「
そう考えて、カタリーナは落ち込む。
(マルガレーテではなく自分の見栄を第一に考えるなんて……。
やっぱりわたくしは、母親としては全然駄目ね……)
「多分これからも、
少し心に余裕持った方が良いと思うよ?
しっかり
継子ってのは、それまで違う価値観の世界で生きて来た子だからね。
価値観の違いが
三歳からお箸の使い方教えるお母さんからしてみたら、八歳からお箸の使い方教える家の子は
八歳からお箸の使い方を教える家が幼いうちから字の勉強に力入れる家だったら、その家のお母さんからしたら逆に三歳からお箸の使い方を教える子は
問題だって思っても、実は自分が思うほど大きな問題じゃないことがほとんどだから、そこは安心して良いと思うよ?」
「違う価値観の世界で生きて来た……ね。
そうね。
その通りだわ」
これまでのカタリーナの教育は、前世の母親がしてくれたものと同じだった。
だが前世のカタリーナの幼少期は、マルガレーテが置かれた状況とはまるで違う。
王宮で育てられたわけではないし、両親の仲も良かったし、マルガレーテほど勉強漬けでもなかった。
自分が受けた教育が、マルガレーテにとっても最適とは限らない。
前世の母親の真似をするのではなく、マルガレーテに合った教育を自分で考えなくてはならない。
(母親って、他の人の真似をするだけでは駄目なのね……)
それでは、どんな教育がいいのだろうか。
カタリーナは考える。
エミーリエの言うように、
今世のカタリーナは、ろくに教育されずに育った。
おかげでカタリーナは今、毎日が猛勉強だ。
大変だが、それでも挽回不可能なほどの致命的な問題だとは思わない。
大人になってからだって本人の努力次第で何とでもなる問題だ。
マルガレーテは、カタリーナよりずっとましな状況だ。
たとえカトラリーの使い方について一切
これまで孤独だったマルガレーテは、甘えたい気持ちが強いように思える。
エミーリエの言うように、しばらくは厳しく注意することをせず、思い切り甘えさせた方が良いのかもしれない。
「そうね。あなたの言う通りね。
これからしばらく
でも、どうやって可愛がったらいいのかしら……」
「一緒に遊んで上げて、話を聞いて上げて、スキンシップ増やせば良いんじゃないの?
そう言えば王妃様って、王女様と手を
もっと増やしたら?」
「王宮でそんなことをしたら、場所によってはマナーがなっていないって言われてしまうわ。
本宮でそんなことをねだったりしないように、王女宮や王妃宮でもあまりしていなかったんだけれど……これからはしてみるわ。
手を繋いだり、抱っこしたりして歩くのね……。
うん。頑張るわ。
ありがとう。とても有意義なアドバイスだったわ」
「どういたしまして。
それから王妃様は、もう少しママ友と話した方が良いと思うよ?
ママ友と話せば他の家庭の子育てを知ることになるから、自分でも気付かないうちにそういう許容範囲も広がると思う。
王女様を見て、
よく二人目、三人目になると教育もいい加減になるって言うでしょ?
確かに、二人目や三人目には掛ける時間もあんまりないってのもあるけどね。
でもそれ以外にも、いろんな育児の仕方を知って母親の許容範囲が広がってるってのあると思う」
「ママ友というスラングの意味はよく分からないけれど、他のお母様たちとお話しした方が良いということね?
分かったわ。
これからも、わたくしの相談に乗ってくれるかしら?」
「へへ。私で良ければいくらでもどうぞ。
ところで、まだ子供が小さいお母さんと話してるみたいなんだけど?
だからアドバイスも、そんな人向けになっちゃったんだけどさ。
前世では、女王様だったんだよね?
後継者いなかったら国家の一大事だから子育てぐらいは経験してると思うんだけど、王宮の子育てはまた違うのかな?」
「そう感じるのも無理はないわ。
前世は結婚できなかったから、子供もいなかったの。
引退を考える十年ぐらい前に成人した子を養子にしたから、子育ての経験もないのよ」
「ええっ!?
子供ができなかったんじゃなくて、結婚もしなかったの!?
女王様なのに!?」
「……仕方ないじゃない。
両親を殺された十四歳のときに革命組織を立ち上げて、復讐を果たして玉座に座ったのが二十三歳のときよ。
それから内戦で疲弊したわたくしの国に隣国が攻め入って来て、攻めてきた三つの国を逆に滅ぼしていたら、もう三十六歳だったわ。
革命組織を立ち上げてからそこまで、ほぼずっと戦場にいたのよ。
結婚なんて、できるわけないわ」
「へ?
三十六なら、それから結婚すれば良いんじゃないの?
貧乏庶民ならともかく、女王様なら余裕でしょ?」
「何を言っているの?
三十路にもなったら、正室はもちろん側室や
三十路どころか三十も後半になって、結婚なんてできるわけないでしょう?
そんな歳の女が権力で結婚を迫ったりなんかしたら、お相手は絶望して自害してしまうかもしれないわ」
「側室に愛妾……三十で女引退……。
うわあ。そんな世界だったんだ……」
「そういうあなたは、随分子育てに詳しいわね?
驚いたわ」
「そりゃそうだよ。
外見はぴっちぴちの十六歳だけど、中身は還暦を過ぎたお姉さんだもん。
前世では、実の子三人と継子二人を成人まで育て上げたからね。
子育てなら、熟練者だよ?」
「継子を育てたのね……」
カタリーナは、カンレキと発音する単語の意味が分からなかった。
だが、相当な人生経験があるということは理解できた。
十分な人生経験があると言いながらも、自分のことだけはお姉さんと表現している。
その点には納得がいかなかった。
「ホント、大変だったわよ。
最初の旦那が
「ちょっと待って。
離婚ですって?
継子を育てたって言うから、てっきり前の旦那様とは死別したって思ったんだけれど、もしかして離婚したの?
夫が婚外子を作ったら、離婚が許されるの?」
「へ? 当たり前でしょ?
旦那が他所に子供作っても夫婦続けるなんて、地獄じゃない?」
「私の前世では、その程度のことで離婚なんてできなかったわ。
この国でも、それで離婚なんてできないわね。
神に誓って結婚するんだから、普通はそんな簡単に離婚できないと思うんだけれど。
あなたの国でだって、結婚は神に誓ってするものだったでしょう?」
「神に誓うって、あの結婚式でやるやつ?
やだなあ。
あんなの、単なるセレモニーじゃない。
あの誓いを生涯守ろうと思ってる人なんて、いないんじゃないの?」
「単なるセレモニー……。
神聖な神に対する誓いさえ守らないなら、じゃあどんな誓いなら守るのかしら?」
「うーん。
私のいた国では、何かを誓うなんて、自分に酔ってる人がやることだったな。
そうやって誓っちゃう人もその場のノリでやってるだけだから、誓いなんて守ったり守らなかったりだったよ?
約束は破るためにある、なんて言葉もあったしね」
「……信じられないわ。
人として守るべきものを守ろうともしない無法者ばっかりで、とっても野蛮な国だったのね?
そんなところで暮らすなんて、さぞ大変だったでしょう?」
「いや。戦争もしてて、三十で女引退の国の人に、大変そうって言われるのもちょっと……」
◆◆◆
「ご、ご機嫌麗しゅう存じます。王妃様」
カタリーナは最近、朝食はいつもマルガレーテと一緒に取っている。
いつもなら食堂でマルガレーテを待つカタリーナだが、今日はマルガレーテの部屋に迎えに来ている。
「ご機嫌よう。マルガレーテ」
(また、お髪が跳ねているわ)
挨拶をしながら、カタリーナはそう思う。
これまでなら、ここは注意する場面だった。
淑女として、身だしなみには気を配らなくてはならない。
そのことの重要性を、言い聞かせる場面だった。
だがカタリーナは、しばらくは注意を最低限にすることにした。
この場面でも、今日は口を開かなかった。
「あの……王女様は、昨日も遅くまで勉強されていまして……」
カタリーナに言い訳するマルガレーテの侍女には、焦りの表情がありありと浮かぶ。
王女の髪を整えるのは侍女の仕事だ。
マルガレーテが寝坊したから整え切れなかった、と彼女は言い訳をしている。
「また遅くまで勉強していたのね?
どうして、そんなに頑張るのかしら?」
「ゼッキンゲン夫人は、勉強を頑張ったときだけ王女様を褒めていました。
ですから、失点を挽回されようと頑張られているんだと思います」
侍女の回答は、カタリーナにとって衝撃だった。
失点とは、カタリーナの注意を受けることが増えたことを言っているのだろう。
それでマルガレーテが特に力を入れたのは、注意されたことを直すことではなかった。
勉強を頑張ることだった。
フィーリップの関心は、成績だけにしかなかった。
だからゼッキンゲン夫人も勉学だけは力を入れ、マルガレーテが頑張れば彼女を褒めていた。
マルガレーテが勉強を頑張ったのは、そうすればカタリーナも褒めてくれると思ったからだった。
(わたくしはやっぱり、何も分かっていなかったのね……)
マルガレーテはそんな環境で育ってきたから、自分とは違う頑張り方をしてしまう。
カタリーナは、ようやくそのことに気付く。
エミーリエが言った「違う価値観の世界で生きて来た」という言葉の意味を、カタリーナはまざまざと理解する。
カタリーナは思う。
前世の自分の子供時代なら、厳しく注意されたら反発していた。
これが今世の子供時代なら、マルガレーテと同じく必死に努力をしただろう。
努力する理由はもちろん、両親に愛されたいからだ。
両親から受けている愛情の度合いにより、子供の反応は変わる。
マルガレーテの反応は、今世の自分の少女時代のものに近い。
今世の自分と同じく、彼女は愛情に相当飢えているのだろう。
(やっぱり、今はめいっぱい甘やかさなくてはいけないわ)
改めて、カタリーナは強く思う。
「マルガレーテ。ここに座ってくれるかしら?」
カタリーナはマルガレーテを椅子に座らせると、侍女から
「お、王妃様が、お
「ええ。
あなたは特別ですもの」
「ええっ!!?
わ、わたくしが!
わたくし、特別なんですの!?」
マルガレーテは驚く。
それから、にこにこと笑い始める。
鏡越しにちらちらとカタリーナを
(可愛い! 可愛いわ!)
だらしない笑顔になってしまいそうになるのを懸命に
彼女の髪型はなかなか複雑だ。
まず最初に赤いリボンを頭に巻いて、頭の
それから、背中の半分ぐらいまである髪をいくつもの束に分け、それぞれの束を
こうすると、ストレートだった長い髪が首の高さでふわふわと丸まる髪となる。
マルガレーテはいつもこの髪型で、使うリボンはいつも赤だ。
捻り方や帯への巻き付け方が雑な束を解し、髪を
髪が整ったマルガレーテは、鏡を見ながら首を動かしてそれを確認する。
その間もずっと、あふれるような笑顔だ。
(こんな簡単なことをして上げただけでも、そんなに喜ぶのね……)
大喜びするマルガレーテを見て、カタリーナは逆に哀しい気持ちになってしまう。
「ありがとう存じます! 王妃様!」
「ちゃんとお礼が言えて偉いわ。
さあ。食事に行きましょう?」
「はい!」
王宮では、廊下の歩き方にも作法がある。
地位が上の者が前を歩き、下の者は付き従うようにそれより後ろを歩く。
その作法に従い、王妃であるカタリーナが前を歩き、その少し後ろを王女のマルガレーテが歩く。
「マルガレーテ。
わたくし、今日はあなたとお手々を
食堂まで、わたくしとお手々を繋ぐのは嫌かしら?」
立ち止まって振り返ったカタリーナは、マルガレーテに言う。
「い、いやじゃないです! 絶対に、いやじゃないです!
繋ぎたい、お手々繋ぎたいですわ!」
作法を無視して、カタリーナはマルガレーテと並んで歩く。
嫌ではないというのが嘘ではないことを証明するかのように、マルガレーテは嬉しそうな顔でちらちらとカタリーナの顔を見上げる。
その手の小ささと温かさに、カタリーナもまた胸がほかほかするような幸せを感じた。
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