35

 撤収の手際は見事なものだった。

 機材はゼロが不在でも運び出されるよう手配された。幾人かの人物を経由してレンタル倉庫に運ばれるという。アクシデントがあって失われても、それはそれで構わない。機材から自分を追跡することは難しいはずだと彼女は言った。

 窓から見晴らす海も見納めになるはずだが、ゼロには特に思い入れはないようだった。カーテンを開けることもなく、彼女はアジトをあっさりと棄てた。

 那覇の市街地まで、信哉がハンドルを握った。そこで碧の弟と接触を図り、次の行動まではホテルで待機することにしていた。


 幹線道路ですれ違う車は二人が乗っているのと同じレンタカーばかりだった。結局、ここでの移動はレンタカーが最も目立たない。

「香耶はどうします?」と助手席のゼロが訊ねた。

「あんたに預けたい。迷惑かな?」

「いいえ」と言いながらゼロはリストデバイスとは別の端末を取り出す。

「香耶ははるちゃんがベースだけど、もう彼女ではないとおれは思ってる。他の“ロイド”たちもすべて香耶のバリエーションだ」

「そういっていいでしょうね」

「後ははるちゃんの遺志に従いたい。おれはもう香耶たちにもアクセスしない」

 ゼロは端末に話しかける。

「それでいい?」

「ダイタさんとはお別れなんだね」

 合成の音声が返ってきた。

「うん。お仕事も終わりだ」

 香耶は沈黙した。

「大丈夫だよ。これからはゼロやゼロの仲間とおしゃべりをするといい」

 ゼロがディスプレイの香耶を見つめてうなずく。

「姉さんのことを少し話しておこう、最後だから。頼まれたんだ」

「頼まれた?」ゼロと香耶が同時に反応する。

「はるか姉さんにね。覚えておいてもいいし、忘れてくれてもいいと言っていた」

 信哉は運転をオートに設定し、シートの上で少し姿勢を変える。そして、静かに記憶をたどり始めた。


 ◇


 やつれている。そして、むくんでいる。やけに白い顔のはるかに会うのはつらかった。当初、信哉がなんとなく予想していたよりも彼女の入院は長引いていた。

「どう?」

 訊きながら、信哉は病室の隅の丸椅子を引き寄せてベッドの脇に座った。

「うん、まあまあ。もう時々でいいよ。すっぴん恥ずかしいし」

「しつこくてすみませんね」と信哉は少しおどけた。

「来てくれるのはうれしいんだけどさ」

 二人は見るともなく外に視線を向ける。

「コージくん、やっぱり行方不明?」

「ダメっぽい。みんなも連絡取れてない」

「そっかぁ――」はるかは力なくつぶやいた。


 はるかが入院したのは、その3週間ほど前だった。

 その日、彼女は仕事中にかかってきた電話に出て話し込んでいた。話がまだ長くなりそうなのか、彼女は職員に何か告げると席を外して部屋を出ていった。たぶん屋上だろうと信哉は思った。晴れた日の屋上は、アルバイトたちの休憩所のような役目を果たしていた。

 午後の休憩時間になるまで、結局はるかが降りてこなかったことに信哉は気づいた。おせっかいなような気もしたが、彼は階段を上がり、屋上の重い扉を開けた。階段室の裏手に回ると、ベンチに腰かけ、両手で顔を覆ってうつむく彼女がいた。

「だいじょうぶかよ?」と声をかけながら信哉は隣に腰かけた。

「ちょっと休ませて」

 はるかはそのまま彼の肩に顔をもたせかけた。

「何があった?」

「こんなのノブくんの彼女さんに怒られちゃうね」

「しょうがないだろ」

 彼女はしばらく目を閉じたままじっとしていた。

 彼が異変を感じて顔を見ようと姿勢を変えると、はるかは座ったままぐったりと前に倒れかけた。

「おいっ!」

 彼女が薄くまぶたを上げた。

「前から調子がおかしくて――」

「ずっと?」

「三か月前ぐらいかな。引っ越しとか彼の手伝いとかいろいろあったから」

「あの学者、まだ切れてなかったのかよ」

「もう会わない」

「さっきの電話か」

「あの人が――」

「わかった。もうしゃべるな。救急車呼ぶぞ、いいな?」

 彼女は声もなくうなずいた。


 そして、運び込まれたのが、この病院だった。しかし、彼女の母親からはいずれ転院することになると信哉は聞いていた。あまり前向きな話ではないことは、信哉にもわかった。

「元気にしてるといいけどな」

「なあ」

「なに?」はるかが垂れてくる前髪を耳にかけながら顔を向ける。

「もうあいつのことを気に掛けるのはいったん止めないか」

「だよね。ノブくんには迷惑かけてばっかり」

「そうじゃなくて。今は身体のことを考えてほしいんだ。良くなったら一緒に探そう」

 彼女は静かに「会っておきたかったんだよね」と言った。

「コージくんの気持ち、わかる気がするの。きっと悪気はないんだよ」

「おれだってそう思うけどさ」

 彼女はふっと息を漏らして笑う。

「自信なさげすぎだよね、コージくんって。いっつも」


 ◇


 香耶は沈黙している。しかし、信哉の話を認識していることはディスプレイの表示から確認できた。

 ゼロも黙ってオペレーター役を務めながら話に耳を傾けていた。

 時折、胸が疼くような感覚があった。他人の話をこんなふうに聴くのは、ほとんど初めてのことだ。そのせいだろう――とゼロは自分を納得させた。


 ◇


 その後もはるかの病状は思わしくなかった。職場でも皆が彼女の不在に慣れてきた矢先、ネットで公開された動画がアルバイトたちの間で話題になった。人格型AIのデモ映像だった。

 それ自体は目新しいものではない。皆が話題にしたのは、そのAIがあまりにも竹内はるかに似ていたからだ。投稿者のプロフィールは見るまでもなかった。はるかも男からその動画の件は知らされていた。

 ほどなく、はるかが転院した。信哉は転院先を誰にも教えなかった。アルバイトたちは、もうあまりはるかのことを気にかけなくなっていたし、彼女には静かな時間を過ごしてほしかった。

 動画は引き続きいくつか公開された。増えていくコメントに入り混じる心ない書き込みを読んで、信哉は涙を流した。自分が怒りや悔しさでしか泣けないのは知っていた。彼はある決意をもってアルバイトを辞めた。

 はるかは家族や信哉の不意をつくように旅立っていった。

 葬儀はシンプルでささやかなものだった。彼女の家が経済的にそれなりの苦労をしていることは知っていた。おそらく転居もそのためだったのだろう。力を落とす母親と年齢の離れた弟から信哉は目が離せなかった。

 相手の男は葬儀には現れなかった。そして、貢士に会わせてやることも最後まで、できなかった。


 はるかを奪い返すのは、思っていたよりも簡単だった。

 信哉は電話口で努めて平静に彼女との関係に関する情報をいくつか断片的に示した。それだけで男は勝手にこちらの手持ちの札を推し量ったようだった。

「先生、内藤町に“仕事場”を持っているよね」

「それが何か?」と男は言った。

「そのマンションで週に二回、会っている女性がいた」

「助手だよ。研究の協力者といった方がいいかな」

 男には妻との関係を悪化させるわけにはいかない事情がある。妻の父は彼の勤務する大学に強い影響力を持つ人物だった。

「じゃあ去年のご旅行は慰安旅行といったところかな」

 男が沈黙する。

「厚待遇ですね、病院の費用を負担したこともあったみたいで。産婦人科の――」

「目的はなんだ?」

「顔や声をね、変えてほしいんですよ。先生なら簡単でしょう?」

 男は信哉の要求通り、これまでの動画の公開を中止した。そして、オリジナルのデザインを変え、新しい人格型AIに更新した。信哉は比較的スペックの低い環境でも運用が可能な簡易版のコピーを男から入手した。

 起動した簡易AIのはるかは、母と弟の生活を心配していた。そして、貢士のこともよく記録されていた。

 信哉は思った――これは遺言だ。


 ◇


「それで、香耶が生まれて、お仕事をしてもらうことになったんだ」

 フロントグラスの向こうに時折、琉球墓が見える。本土の墓に較べるとほとんど巨大といっていい。

「お姉さんは?」香耶の音声が聞こえた。

「はるか姉さんは元の世界に帰った」

「モトノセカイ?」

「そう。それからまた、おれも知らないところに行った」

「でも、私たちの一部はお姉さんなんだね」

「うん。後はゼロとゆっくり話してみればいい。時間はいっぱいある」

「はい」

 返事をする香耶に、ゼロが静かにうなずいてみせた。


 信哉は「連絡するところがある」といって車を自動運転に任せたまま通話を始めた。

「ええ。先日もお話した通り、済みませんけどこれが最後の入金です」

 通話の相手が何を言っているのかゼロには聞こえない。

「それはよかった。はるかさんもきっと喜んでますね」

 受け答えをする信哉は笑顔だったが、ゼロにはどこか寂しげにも見えた。

「いえいえ、いいんです。はるかさんとの約束でしたから」

 お元気で、と言って信哉は通話を終了すると、ゼロに言った。

「弟くんは就職の内定が出たそうだ」

 ゼロは黙ったまま薄い笑みを返した。

「役目は果たせたと思う」

 信哉は自動運転を解除し、自分でハンドルを握る。

「あんたのおかげだ。それから香耶、きみも」

 強い日差しに照らされた港湾を右手に見ながら、信哉とゼロの車は橋を渡る。そして、混みあい賑わう街へと分け入っていった。

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