第3話

 翌朝、ベッドはもぬけの殻になっていた。

 隣人の生活まで筒抜けの住まいは、ままごとの延長のようなキッチンやバスルームへ足を運ぶまでもなく無人を教えてくれる。礼でも詫びでも記すメモがあってもよさそうな状況だが、ささやかな期待は見事に裏切られ、念のためとチェックしたスマートフォンの画面も目覚まし設定のアイコンがあるだけだった。

 好きでベッドを明け渡したのだから文句は言えないが、床でごろ寝している知人、それも女性に、ブランケットを掛けてやるでもなく立ち去る辺りが徹底しているなと思う。

 だが、拍子抜けしたのも束の間で、義高は度々私の家へやってくるようになった。

 バイト先に鍵を忘れた、家族と喧嘩をした、シャワーが壊れている。始めは言い訳を並べて、次第に暗黙の了解へ。ふらりと現れる義高に思い詰めたような様子はなく、一言二言会話をして就寝し、次の日には痕跡も残さず消えているので、こちらも心配はしていない。幾夜を経ても、友人未満の関係は不変だった。


 二度目の宿泊以降、予備の布団は収納の手前に移動されていた。親が送ってよこしたありがた迷惑の代表だったが、恋人でもない男と共寝する危うさを鑑みれば、今となっては感謝の対象である。


「訊かないのか」


 枕カバーを換えながら見やると、ベッドの上で端正な横顔が歪んでいた。悪戯をしたのに怒られなくて、辛抱たまらず白状してしまった子供のような傷つき方だった。もしかすると、不干渉を鉄則としていたのは私だけで、義高にしてみれば切り出されるのを待っていたのかもしれない。

 準備の整った寝床に正座すると、義高も身体を起こす。こんなにかしこまった席はバイトの面接以来だった。


「訊いて欲しいの?」


 ベッドの縁に腰掛ける義高が苦虫を噛み潰す。突き放したかったわけではないのだが、少々きつい言い方だっただろうか。


「お前、俺が何処に住んでるか知ってるか」

「ううん」

「バイト先は」

「飲食系、とか?」

「年齢」

「同い年でしょ? ……まさか先輩だったとか言う?」

「家族構成」

「…………猫を飼ってたことがあるって、聞いたような、聞かないような」


 さぞかし真面目な話し合いになると踏んでいたのだが、繰り出される問いは的外れの連続だった。しどろもどろに応答すれば、薄い唇から溜息が漏れる。


「得体の知れない男を家に泊めるなんて、お人よしだよな」


 呆れた物言いに潜む異邦人めいた寂しい影に、大腿にのせた拳に力を込めた。親しいとは言えないまでも、私は少なからず義高という人を許容しているつもりだ。


「知ってるもん」

「何を?」


 義高はまともに取り合おうとしない。共にいても会話より沈黙の長い私たちは、それでも不快を感じることはなかった。それなのに、今日の義高はどうしたわけか、自分を構成するものを知らせたがっている。これでは、今までの時間が無駄であると言われているようで、気分が悪かった。


「名前。義高って名前、知ってるもん」


 思いのほか、語気が強まった。怒らせたかと焦ったが、えい構うもんかと睨みつけると、一呼吸置いて切れ長な瞳が細められる。上背のある身体の一部、ほんの小さな器官の運動に過ぎずとも、雄弁さは他の何よりも勝っていた。

 洗いざらい吐き出して楽になってしまいたいと、二つの眼が語っている。こちらも負けじと聞いてやる姿勢を取れば、まるで、初めて喧嘩をした後の友達みたいだった。


「……お前は」


 義高は嘲笑を止めた。


「お前は、戦の夢を見るか」

「見ないよ」

「遠い昔、誰かと双六した夢は」

「ぜんぜん」


 はっきりと断れば、義高はふと笑って顔を逸らした。先にあるのは殺風景なベランダへ続く窓で、鏡のようになったガラスには私たち二人が映し出されている。


「……カーテン、閉めた方がいいよね」


 覗かれて困るものなどないが、やや潔癖のきらいのある義高には気になるのかもしれない。片膝を立てると、強く手首を引く腕がある。


「そのままでいい」


 戸惑う私を尻目に、義高は手首を握ったまま、じっと窓を見つめていた。


「俺が失ったのは、敵であり友であり、俺の全てだった女だ。お前は単なる夢だと思ってるだろうが、あれは昔の記憶だ」


 昔の記憶と言われても、あまりに遠い時代すぎて眉唾ものなのだが、当の本人は至って真剣で、口を挟むのが憚られる。ひとまずカーテン、と再度立ちあがろうとするが、義高が腕を放す気配はなかった。


「何も知らずに懐くあいつが、俺はたまらなく憎かった。家族と自由を奪っておきながら、いやらしく身内面する男の娘が、よりにもよって俺の許嫁だなんて冗談じゃない。俺はあいつが憎くて憎くて憎くて」

「……怖いよ、義高」

「いくら慕われても、幼稚で不器用な優しさに気づいても、どうしても、憎くて」

「義高」

「………愛しかった」


 愛しかった。

 義高が繰り返す。


「親父が討たれて、邪魔になった俺も殺されると決まったあの日、俺はあいつに別れ一つ言わずに逃げ出した」

「うん……」

「あいつの侍女を質にして、馬を盗んで逃げたんだ」

「うん……」


 もう、頷くことしかできやしない。だって、義高が泣いている。涙も流さず、泣いている。


「駆けて駆けて、馬が潰れて、俺はやっと立ち止まった。するとどうだ?死んだ馬の蹄に、綿が巻いてあるじゃないか。まるで、俺に盗まれるのを知っていたように、鞍には金子まで括りつけられている。結わえてあった朱の紐を見て、俺はようやく悟った。………あいつが、俺を逃してくれたんだ」


 きっと、あいつは最初から知っていた。俺の立場、思い、全部承知で何も知らぬ振りをして、俺を騙し、親を、周囲を騙し、この日のために備えていた。年端もいかぬ小娘が、我が身の不幸ばかりを嘆いていた男のために、ずっと、ずっと。

 義高の慟哭を、私は黙して聞いていた。


「俺は、ついにあいつの真心に応えてやらなかった。そんな殺されて当然の畜生の、ただ一つの心残りは、この想いをあいつに伝えなかったことだ。これだけは、何があっても譲れない」

「でも、義高。それって前世の話でしょ?義高だけじゃなく、その人も死んじゃってるじゃない」


 そう、だから

「探し出せばいいんだよ。今、この現代で。生まれ変わったあいつを」


 義高は何処までも正気だった。

 薄ら寒い気持ちを覚えたのは一瞬で、真摯に願えばそんなこともできるのではと得心する。何より、七十億人の世界から、そのたった一人を探そうとするとはロマンがあった。


「なあ、わかってるか」


 緩慢にこちらを向いた義高は、掴んだままの手首を恭しく口元へ持っていくと、そのまま甲へ口付けた。ぎょっとしたのも束の間、柔らかな唇は、不思議と肌に馴染む。


「俺は一度だって名乗ったことはないんだぜ?」

「え?」


 眉根を寄せた私を笑い、義高はジーンズのポケットから掌サイズのカードを取り出した。何の変哲もない学生証だ。

 しかし、見慣れた面持ちの横に印字された名に、私は我が目を疑った。


「何処に書いてあるんだ? 義高なんて」


 刻印されていたのは、見ず知らずの男の名前。

 呆然とする中、声はさらに続く。


「始めは俺も忘れてたからな。誰かと勘違いしてるんだろうと思ってた。でも、いつまで経ってもお前は俺を義高と呼ぶ。そうこうしてるうちに思い出した」


 俺が真底、義高だったってな。


 見知らぬ名の記された学生証が、スローモーションのように床へ放り出される。狐につままれたような心地だった。

 出会ったのは入学してしばらくの後。キャンパス内では見かけるものの、言葉を交わす機会のなかった男がたまたま隣の席に座った。初めてその講義に参加したであろう彼に、お節介と知りつつも、今までのノートを見せてやった。流し読みした男はさっさとノートを返却してきたが、帰る方向どころか入ろうとしたカフェまでが同じだったので、つい声を掛けたのだった。

 そこから、水曜四限とその後の時間を共にするようになった。講義の出欠はもちろん、クラスメイトが彼を呼ぶ場面も多々あったのに、何故だか名前が抜け落ちている。

 それなのに、それなのに。


 よしたかさま。

 口にしようとした名は声にならずに虚空へ消えた。何が夢で何が現実か、曖昧が過ぎたのだ。

 締め上げられた手首が熱を持つ。


「どうした、呼んでくれよ。………大姫おおひめ


 喜色を滲ませる男が紡ぐ名は、果たして私のものだっただろうか。

 夢と現の間は混沌として、いつでも人を待っている。その果てにあるものが愛であると願いながら、唯一知る名前を舌にのせた。

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