月に奏でる

悠木葉

月に奏でる

 荷解きを済ました頃には西陽が差していた。一人暮らしのために実家から持ってきた荷物を七階の部屋に運んで、荷解きを始めたのは昼過ぎだった。時間の経過を自覚すると、体が少し重たくなった。刻々と暗くなる部屋を眺めていると、早くも一人暮らしの寂しさを感じた。僕は小さな置時計を見る。五時三十分。お腹はからっぽで、きりきりする感じが気持ち悪い。調理器具も食材もまだないため、外で夕ご飯を食べることにした。

 大学からその最寄り駅にかけての道には、たくさんの飲食店がある。ラーメン屋だの居酒屋だの、食べ応えのある料理店ばかりが立ち並んでいるが、今日はそんなものを食べる気分ではなく、コンビニでおにぎりとサンドイッチを買って帰路につく。エスカレーターが備え付けられていないので、仕方なく階段で七階まで上る。家賃が安く、入居前は事故物件か何かかと疑っていたが、荷物を運んだ時といい今といい、つくづくこのせいなんだろうと思い知らされる。ラーメンなんて食べていたら階段の途中で吐いてもおかしくなかった。もう別の部屋に変えてもらおうかと、少し本気で考えた。階段を上るリズムに合わせてビニール袋がわしゃわしゃと鳴っている。

 コンビニ飯を食べて風呂に入る。疲労の溜まった身体に湯が染み込んでくる。湯船に浸かりながら電子書籍を読み、一時間ほどで上がる。少し長かったのか、立ちくらみがした。ベランダを網戸にして、火照った体を夜風で冷ましていると、七時三十分になっていた。

 部屋の端にある段ボールから小説を一冊取り出して読む。七階ゆえに比較的静かで涼しくて、読書をするには良い部屋だった。この部屋のままでも良い気もした。

 ページをめくる音と風の音だけが聞こえる。静かに本を読んでいると、新たに音が聞こえてきた。住人の誰かがアコースティックギターを弾き始めたのだろう。弦を一本一本丁寧にチューニングしている。少しすると、何かしらの曲を弾き始めた。ギターの音は夜に映えて心地良い。僕は本を閉じ、ベランダに出た。街灯の光や窓から漏れる生活感を見下ろして、それに飽きると月を眺めた。まだ三月だ。春先とはいえ冬特有の夜空の雰囲気はまだ残っていた。

 しばらく聴いていると、音は上から聞こえてくることに気がついた。僕の部屋は最上階だから、ありえないはずだ。屋上へと続く階段は鉄格子で塞がれ、南京錠と鎖で施錠されている。荷物を運ぶときにも、コンビニから帰るときにも施錠された鉄格子が視界に入っていた。不便が故か、事故物件か。家賃が安い理由が分からなくなる。後者の可能性を考えると恐ろしくなるが、ギターの音がそれを中和してくれた。上から聞こえてくるというのも気のせいかもしれない。まだ様子見の時間だ、と僕は未来の自分に丸投げをして今日は寝ることにした。ギターの音が流れる部屋のベッドに寝転んでいると、実害がなければ怪奇現象なんてどうでもいいと思えてきた。普段あまり寝付きの良いほうではないが、今日はその限りではなかった。


******


 雨の日以外は、毎晩ギターの音が決まった時間に上から聞えてくる。朝、通学のついでに階段を見ても、相変わらず鉄格子は固く閉ざされている。僕以外の住人がこの音を気にしないというのもおかしな話で、それがさらに怪奇現象の説得力を増している。

 正体不明の音とともに、僕は約一年半を過ごした。今日も変わらず、ギターを聴きながら空を眺めていた。蒸し暑い日中に比べて、夏の夜は過ごしやすかった。

 マンションで長く過ごし、僕の住む最上階にある十部屋のうち、少なくとも六部屋は空室であろうことがわかった。ときどきマンションに内見に来る人がいるが、全員が微妙な顔をして帰る。つまりはそういうことだ。誰も借りていないし、借りることもない。

 そうやって、この音が聞こえる場所に僕しかいないであろうことを知り、怪奇現象の線が薄くなった今、音の正体が気になった。今日は綺麗な満月だ。見に行くなら、今日はいい日だろう。

 ベランダから部屋に戻って、時計を確認する。時刻は九時十五分。いつもはだいたい九時半には音が止まる。急いでサンダルを履き、部屋を出て階段へ向かう。

 鉄格子に巻かれていた鎖は垂れて、南京錠は開いていた。鉄格子のドアを開き、階段を登る。その後、屋上に出るアルミ製のドアが現れた。その奥からギターの音が漏れている。僕はゆっくりとノブをひねり、ドアを開ける。キィ、と音が鳴り、風が吹き込んでくる。屋上にはなにもなかった。落下防止用柵すらもなく、その代わりとして、マンションの縁に沿って、膝上くらいの高さの段があった。その段に、月を背景にして座る誰かがいた。それは、中性的な声で

「誘蛾灯に寄らない蛾もいるもんだね」

 と言った。

「私なんて三ヶ月だったのに」


******


「暑いのは暑いけど、夜はまだ過ごしやすいね」

 月の光でぼんやりと浮かび上がったシルエットを見つめたまま、なにも言わず立ちつくす僕に対して、誰かは話しかけてくる。

「ずっと立ってるってのも疲れるだろうし、ここ座りなよ」

 そう言って隣を叩いた。僕は言われるままに近づいて、縁に座る。背中に当たる月の光は太陽と違って冷たく感じた。落ちないように体に力を入れて、隣の誰かに質問する。

「なんでこんなとこにいるんですか」

 僕は相手の方を向く。暗くて細かくはわからないが、短髪で、ギターの大きさとは不釣り合いな、華奢な体躯をした女性だ。年上のように感じるけど、年下にも感じる。彼女は質問を無視してギターを弾いている。

「風、気持ちいいでしょ」

 ここが一番高くて、まわりに邪魔するものがないから、と恐怖心というものを知らないらしい彼女は言った。

「確かに気持ちいいですけど、怖いですよ」

「あはは、私も昔はそうだったなあ。今じゃもう慣れっこだけど」

 しばしの沈黙が流れた。輪郭の浮き出た雲が少しずつ動いている。

「あの、なんでこんなところでギターなんか弾いてるんですか。それに、鍵だって」

 もう一度、僕は疑問に思ったことを具体的に質問した。

「引き継いだんだよ。どれもこれも」

「引き継いだ?」

「そう」

 彼女は頭上に雲の吹き出しを出すように、少し上を向いて話し始めた。

「ギターと鍵はね、先代から譲り受けたの。元々は、今はもう結婚してここには住んでいないらしいけど、管理人夫婦の娘さんが屋上で勝手にギターを弾き始めたのが始まりみたい。ここら辺って大学が近いから、その分マンションがいっぱいなんだよ。部屋数も足りてる。五階建てばっかりのマンションの中で、ここだけが七階建て。なのに、エレベーターがない。安いといえども、ここの上の方の階を借りる人なんてそんなにいないんだけど、全くいないわけじゃないんだよね。君や、私みたいに」

 彼女は、一息つくようにギターを弾いた。

「んで、その物好きが、管理人の娘さんのギターを聴いて、君みたいに確認しにきたらしいの。それで、仲良くなって、ギターを教えて、娘さんがここを出るタイミングで物好きがギターと鍵を引き継いで、その繰り返し」

 屋上の鍵をそんな軽い気持ちで他人に渡して良いものかと思ったが、口には出さない。

「君、何年生?」

「二年です」

「そっか、私はね、四年。もう半年もすればここを出ていくんだ」

 大体、このあと彼女が何を言い出すかわかった気がした。

「そういうわけで、引き継がない?」

 想像した通りの言葉が発せられた。


******


 次の日、八時になるといつも通りギターの音が聞こえ始めた。僕は部屋を出て屋上へ向かう。昨日と同じで、鉄格子の錠は外されており、

屋上には彼女がいた。相変わらずシルエットしか見えない。

「今日は暑かったね」

現在進行形で、と適当に返事をした。

「夏は湿気が多いから弦も錆びやすくて困っちゃうよ。まあどっちかというと、汗のせいなんだけど」

 彼女は少し不満げに言った。かと思えば、次はにこりと笑って「じゃあ、始めようか」

と言った。見えなくても、感情がよくわかった。雰囲気の表情筋が柔らかいのだろう。

 思いのほかギターというものは難しい楽器だった。中学校の音楽の授業でギターを弾いた時は意外とどうにかなったはずだが、過去の記憶のなにもかもが錯覚であった。指が開かないし動かない。しかも見えない。

「……これ、難しいですね」

「そうだね、でもこれ半年でできるようにならなきゃ困っちゃうんだ」

「頑張りますけれども」

 暗かったらできないから、と彼女は手元をスマホのライトで照らしてくれた。暗闇の中で異質に浮かび上がる僕の手元はどこか不気味だった。

 その日からギターの練習が始まった。僕はできるだけ早くギターを弾けるように大学で暇な時には指のトレーニングをした。ギターは「まだその時じゃないから渡さないよ」と屋上以外では貸してはくれなかった。さすがに外では恥ずかしくて出来なかったが、家で暇な時にはエアギターでイメージトレーニングをした。そんな日々を半月過ごすと、テスト期間に入った。単位を取ることを優先しろと、過去を眺めるような口調で言われたため、勉強をした。練習のできない期間が過ぎ、やがて夏休みに突入した。テスト期間の反動で、夏休みの練習時間が少し伸びた。


******


 今日も八時にギターが鳴った。久しぶりの雨の日だ。今まで雨の日に鳴ったことはないし、窓も閉まっている。毎日同じ時間に同じ音が鳴るものだから幻聴が聞こえたのだろうが、本を閉じ、念のために屋上に向かう。

案の定鉄格子は閉まっていた。部屋に戻って、読んでいた本を開く。夏休みの孤独を噛み締めながら読書をした。ベランダの手すりに雨が落ちて、中身が空の音がする。

 次の日のギターは幻聴ではなかった。鉄格子を抜け、屋上へ行くと彼女が待っていた。

「昨日は久しぶりの雨でお休みだったね」

「毎日同じ時間に聞こえてくるんで幻聴が聞こえましたよ」

「ははは、重症だ」

 彼女は心底おもしろそうに笑い、僕の顔を覗き込んだ。相変わらず顔は見えない。

「幻聴が聞こえるくらい楽しみにしてくれてるんだね、毎晩」

「……始めますよ」

 僕は彼女からギターを受け取り、練習を始める。時々横からアドバイスを受け、それを元に修正などを繰り返した。

「昨日何してたの?」

「本を読んでました」

 聞いたくせに、彼女は何も返さない。

「上手くなったね、指遣いとか」

「人知れず努力してますのでね」

「それ、言わないほうがかっこよかったんじゃない? 今この瞬間に人知れる努力になったし」

「じゃあ記憶消してください」

「アーワタシハドコーココハダレー」

「流石にわざとらし過ぎやしませんかね」

「今雑談しながらでも簡単なのは弾けてるし、やっぱり上手くなってる。センスあるんじゃない」

 返事をしない僕の顔を彼女は執拗に覗き込んでくる。ギターを弾いているせいで気づいていませんよ、と言わんばかりにわざとらしく回避する。顔にライトを当てられなくて良かったと思った。


******


 夏休みも終わり、秋になった。秋雨前線が猛威を振るい、連日雨が降った。秋という季節に雨という組み合わせは、雨の音を聞きながらの読書が捗るから大好きだ。しかし、ギターのレッスンがないことに関しては、少しばかりの物足りなさがあった。その穴を埋めるように読書をした。

 十月後半にさしかかると雨はめっきり降らなくなった。秋雨前線は霧散し、無害な雲だけが空に浮かんでいた。

 秋は過ぎ、冬が訪れた。木々は裸になり、味気ない景色が広がる。いつものように八時に屋上へ向かう。夏の半袖から秋の長袖、少しずつ温かい服装へとシフトしていく彼女だったが、今日は一段とばしの厚着をしていた。

「いやあ、流石に夜は寒いよ」

「もう本格的に冬ですからね」

「昨日はまだ大丈夫だったんだけど、今日は無理だったよ。急に寒くなるんだもん」

「そうですね」

「こんな日にギターをさせるのはかわいそうだけど仕方ない。私のため」

「はいはい」

 かじかんで思ったように動かない指で演奏する。だんだんと感覚のなくなっていく指先でギターを弾くのは至難の業だった。

 難儀しながら弾いている僕の様子を彼女は横でぬくぬくしながら眺めていた。

「ストーップ」

 突然彼女が叫び、僕は手を止める。声が空へ飛んで消える。不意に彼女は僕の手を取り、両手で包み込んだ。その手は温かくて、指を覆っていた薄氷が溶けていくのを感じた。

「へへ、恥ずかしがってるでしょ。顔赤くなってるよ」

「暗くて見えないことくらいわかりますよ。適当言わないでください」

 熱くなる耳先を悟られないように、できるだけ平静を装って返答する。しばらくの間、無言で手を温めてもらっていた。

「ありがとうございます、そろそろできそうです」

「また動かなくなったらしてあげるからね」

 結局、その日は一度きりだったが、日を追うごとに厳しくなっていく無慈悲な寒気のおかげで、一回では足りなくなっていった。

 イルミネーションが街を彩る。様々な色のLEDが木々に巻き付けられ、クリスマスソングが流れている。大学前もいつにも増して活気に溢れていた。それに対して僕のマンションはというと、やはり静かだった。人によっては寂しいと思うのかもしれないが、僕個人としては過ごしやすくてちょうどいい。ほんのわずかだが、部屋までクリスマスソングが風に乗って聞こえた気がした。

 前祝いの後、世間が待ちに待ったクリスマスイブになった。クリスマス当日よりも前日の方が盛り上がる理由が僕にはよくわからないが、僕には関係ないことだ。今日も変わらずギターの練習をするだけなのだから。

 今日は何故か三十分早くギターの音が聞こえた。また幻聴かと思ったが、念のため確認しに行くことにした。

「幻聴かと思った?」

 屋上へやってきた僕に対して彼女は開口一番そう言った。

「思いましたよ。不本意ながら」

 ふふん、と満足そうな顔をしていることが見えずともわかった。いつものように、彼女の隣に座る。

「ねえ」

「どうしましたか?」

「今日、何の日かわかる?」

「クリスマスです。流石の僕でも分かりますよ。これだけ盛り上がってるんですから」

「だよねえ。なんでこんなこと訊いたかわかる?」

「何かくれるんですか?」

「もらうために訊いたんだよ」

「そんなものないですよ」

 そんなの嘘だ、と彼女は駄々を捏ねた。声はマンションの間を反射して小さくなり、やがてクリスマスソングに上書きされた。そう言われても、本当に用意していない。

「私はちゃんと用意したのに!」

「本当ですか?」

「本当だよ! ところで、好きなものや欲しいものはある?」

「絶対用意してないですよね」

 そんなことないよ、と彼女は弁明するが、信じなかった。本が好きです、とだけ答えて、いつもと変わらず練習をする。弾いた曲がクリスマスにちなんだものだったというその一点だけが、クリスマスらしかった。


******


 クリスマスが終わるとすぐに冬休みに入った。大晦日と三が日は練習はなく、四日になってから新年の初顔合わせだった。

「お、あけましておめでとう」

「おめでとうございます」

「今年もよろしくね」

「こちらこそ」

 初顔合わせの今日も、いつもと変わらない日だった。良くも悪くも、この人はいつも同じなのだ。日常を体現したような人だなと思った。状況はあまり日常的ではないけれど。

「そういえばさ、抱負とかあるの?」

「まずギターを完璧にすることですかね」

「多分余裕だよ。今でも十分なくらい」

「じゃあもう今年はやることないですね」

「つまんない人生」

 しばらくギターを弾いた後、僕は後ろを向いて、一年の抱負がどこかに落ちていないか探すように夜の街を見下ろした。

「ずっとギターばっか弾いてますけど、たまにはここから景色を見るのもいいんじゃないですか。せっかくの屋上なんですし」

「たしかに。いつもコンクリートの地面ばっかり見てるからね」

 僕たちはギターを置いて、体の向きを変えた。足を空中でぶらぶらと揺らす。

「自分で言ってなんなんですが、少し怖いですね」

「ばーか、びびり」

 月の解像度が少し高い。星々は二、三個だけかろうじて見える。

「冬ってさ、星がよく見えるとかいうけど、そんなに夏と変わらないよね」

「山とかに行けば変わるんじゃないですか」

 風が顔を凍り付かせる。背中に当たるよりもやはり寒く感じた。寒さで白んだ息を月が照らし、ダイヤモンドダストのように輝いていた。月は圧倒的な存在感を放っている。今日は練習をせずに、ほとんどの時間、街を見下ろしていた。


******


 山場の二月を越え、三月に入った。少しずつ寒気は弱まってきた。八時にまた、僕は音を聞くやいなや屋上へと向かった。屋上のドアを開けると、やはりキィ、と音が鳴った。その音に反応して、彼女は僕に話しかける。

「三月も半ばになるとましだね。二月は本当にきつかった」

 夜だからまだまだ寒いけど、と彼女は付け加えた。

「暖かくなるのは嬉しいですけど、先輩、もう卒業じゃないですか?」

 そうだよ、といつもながらの調子で答える。僕の通う大学はなかなかに規模が大きくて、学部によって卒業式の日程が異なる。

「いつなんですか?」

「んー? どうだったかなあ」

 近づいて、ギターを受け取る。チューニングをしながら、何回日程を訊いても彼女は答えようとしなかった。僕は諦めて、ギターを弾くことに集中する。まだ寒くはあるけれど、手のかじかみはましで、それなりに快適に弾くことができた。彼女は少し俯きがちに黙って音を聴いていた。そろそろ継承の時期だし、集中して聴いているのだろう。

一時間半の間、僕たちの間には何一つとして会話がなかった。

「……寒いね」

 彼女がぽつりと言った。ちょうど曲を弾き終えたタイミングだから良かったものの、演奏中なら聞こえないであろう声量だった。

「そうですね」

 彼女はまだ俯きがちに座っている。

「ギター置いて」

 僕はその言葉に従い、ギターを置いた。しばらく沈黙が続いた。衣擦れの音すら鳴らしてはいけないような気がして、じっとしていた。彼女も石のように固まっていた。

「あっためてあげるよ」

 そう言って急に彼女は僕の手を取って、両手で包み込んだ。

「あ、ありがとうございます」

 それほどかじかんでいない、ということを言う雰囲気ではないことくらいは僕にも分かった。ただされるがまま、手を温めてもらっていた。

 彼女が手を離す。僕の手は熱いほどに温まった。彼女はこちらを向いた。今日は塗りつぶされたように雰囲気の表情が見えなかった。昔は無造作な印象を受けた髪は綺麗に整えられ、月光で天使の輪が出来ている。

「……えい」

 彼女は僕の頬を両手で包んだ。耳の先が急激に熱くなる。鼓動が速くなり、血が巡る。頬が赤らむ感覚があった。

「顔、赤くなってるよ」

 言い返す余裕がなかった。僕は黙っていた。

 しばらく、漆黒の奥にあるであろう目と、僕の目が合っていた。見えないけれど、そんな感覚がした。恥ずかしくなって目を離そうとしたけれど、眼球を動かせなかった。

「そろそろ時間だね。今日は終わろっか」

 彼女の行動の意図が何もわからぬまま、僕は部屋に戻った。

今日の彼女の行動が、ずっと脳内で反復している。ある種の興奮とも取れるそれは、布団に入ってからもずっと頭を支配していた。 

寝返りを打って、しばらく考えて、また寝返りを打った。寝る姿勢を模索しても、一向に見つからなかった。体が寝ることを拒否しているようだった。窓の外からはギターの音が聞こえる。僕が帰ってからも、彼女は少し弾いているらしい。かつては睡眠導入に使っていたのに、今日に限っては睡眠を妨げているような気がした。

 僕は寝ることを諦めて、枕元のライトを点ける。時計を確認すると、日付が変わって三十分が経っていた。ベッドから立ち上がり、段ボールの中を漁る。昔、友人に勧められて買ったツルゲーネフの小説を取り出す。ライトの灯を借りて、僕はその本を読む。無駄な表現が多いように感じたけど、そのせいか作品の世界に引き込まれていった。読み終えた頃には午前二時をとっくに回っていて、外も静かになっていた。まだ眠くなかった。心の奥で何かが脈打っている。手と頬にはまだ温もりが残っていた。洗面所に行き、僕は手と顔を洗う。冬の水道水が身体から体温と眠気を奪うが、温もりは取れなかった。 

読書をしたくても、今日に限って全てがただの紙の束に見えてやる気が起きなかった。無理やり寝るために、かなり長い時間寝返りを打っていると、いつのまにか眠っていた。

 目が覚めたのは十一時前だった。気だるさを感じながらベッドから降り、顔を洗う。ポットに水を入れて、沸くまでの間にインスタントの白米を電子レンジで温め、歯を磨く。

 お湯が沸くとインスタントの味噌汁を作って、白米とともに朝食兼昼食にする。一人暮らしを始めて最初の頃はこんなご飯ばかりだったことを思い出す。一人暮らしに慣れると時間をかけずに凝ったものを作れるようになり、インスタントは食べなくなった。生活習慣には気を付けているが、たまに今日のように昼に起きた場合、こうして適当に済ます。

 僕は昼食を食べると、消化も待たずにベッドに寝転んだ。昼に起きた日は決まってやる気が起きない。空気を冷やすだけの空の冷蔵庫のためにも、何か買ってこなければならないし、餓死してしまう。しかしやる気が起きなかった。スマホで適当に時間をつぶした。

 時々睡魔が襲ってくるが、どうにか耐えつつ動画などを見る。だんだんと力を増すそれに、僕はいつの間にか負けていたようで、僕が目を覚ました時には、すでに辺りが暗くなり始める頃だった。時計を確認すると、六時を指していた。だらけきった体に鞭打って立たせる。顔を洗って、着替えて、スーパーへ買い物に行く。

 特に食べたいものもなく、僕は適当に店内を歩き回る。夕食を決めあぐねて無駄に歩いた。最終的にうどんを食べることになった。

 家に帰って、うどんを作り、食べ終わる頃には七時四十五分になっていた。そろそろギターが鳴る時間だ。昨日のことを思い出した。

 刻々とその時間が近づいてくる。秒針が後半周すれば鳴る。僕は家を出る準備をした。

 秒針は頂点に到達し、また一から回り始めた。八時になった。ギターの音が聞こえてくる。僕は靴を履いて、部屋を出る。階段へと向かい、錠の外された鉄格子を開け、屋上へと続く階段を登る。音の鳴るアルミ製のドアを開く。キィ、という音が空を滑る。その音は夜の空を我が物顔で飛んで消えていった。いつも彼女が座っているところに目をやる。そこにはギターがあった。人影だけが綺麗さっぱり無くなっていた。僕はそれに近づく。満月を迎え、過ぎたばかりの月が屋上を淡く照らしていた。ギターはご丁寧にスタンドに立てられ、リボンがネックに巻かれていた。彼女がいつも座っていた場所には、同じくリボンの巻かれた紙包と、リボンに引っ掛けられた鍵があった。

 僕はそれらを部屋に持って帰った。明るい部屋に置いたギターは、どこかやつれた老人のようで、年季を感じさせる。継承という行為の重さが、心に刻みつけられる。テーブルに置いた紙包に目をやる。赤いリボンを解いて、紙包を破らないように丁寧に開ける。中には手紙が入っていた。女の子らしい、丸い文字がつらつらと書かれていた。

「ギターはお部屋に持って帰ったかな? 多分初めてまともにギターのことを見たと思うんだけど、ボロボロだよね。でも、それが歴史だから。君は歴史を紡いでいかなきゃいけない。私が、私の前の代が、そして初代の、管理人の娘さんがそうしたように。大切にしてね。老体は労わるように! 

 さて、突然の継承でごめんね! 私にも並々ならぬ事情というものがあるんだ。別に言ってからじゃ継承はできない理由なんてものはないけど、私の気持ち的にね。

 そういえば、リボンつけたんだけど、かわいいでしょ。遅すぎるけどクリスマスプレゼントの印だよ。それじゃあ、私のことを忘れずに、ちゃんと次に繋げてね。よろしく。

               凛  」                 

 初めて彼女の名前を知った。声と、髪型と、ギターの腕前と、手のぬくもりしか知らないことを知った。物理的に近くにいた彼女との日々が一気に実体を失い、画面の奥のもののように思えた。実体の無いそれは、僕の心に契約として重くのしかかる。

「この本、持ってるんだけどなあ」

 貰った『初恋』を優しく段ボールにしまう。


******


 夜風が頬を撫でる。少し湿気を含んだ風は、服と肌を密着させる。お世辞にも過ごしやすいとは言えないが、夜なだけましだ。夏はまだ始まったばかりだというのにやる気を出していて、こっちの気が滅入ってしまう。

 キィ、と音が鳴り、ドアが開く。その影から、誰かが顔を覗かせる。

「誘蛾灯にすぐに引っ掛かる蛾もいるんだ」

 相手には逆光で見えていないだろうが、僕は少し微笑んで言った。

「僕なんて一年半だったよ」

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月に奏でる 悠木葉 @yuukiyou

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