NOSTALGIA

@Capybara_Jun

第2話:キャンプ

 暗くなった川岸で焚き火にあたりながら缶ビールを飲み、釣った魚の塩焼きと生ネギ、そしてアルミホイルに包んで焚き火の中に放り込んだジャガイモをかじっている。結局あれから第七区で買い出しをした。調子にのって持ってきてしまった缶ビール。極限状態からは遠く離れてしまったが、でも、これで正解だと思う。これはこれで実に「地球人」らしい休暇といえなくもない。


「どうだい? 地球に来た感想は?」

「驚きの連続です。緑地化ジオプラントに許可なく入る事ができて、しかも木に火をつけて暖まったり、その火で魚を焼いて食べるなんて。」

 確かにそうだろう。月のルナベースでこんな事をしたらそれこそ警察沙汰だ。相棒は文字通り別世界を体験しているのだ。

 マーカスは飲み慣れていないビールがまわっているのか、珍しく多弁である。そういえば無重量下では飲めないビールを飲みたい、とシップに乗っている間ずっと言っていたことを思い出した。

「それに、地球がとてもなつかしいです」とマーカスは言った。

 僕は驚いた。なつかしい?  彼はまるで、大掃除のときにみつかった子供のころの日記を読み返しているような顔でそう言ったのだ。彼は始めてきた地球に郷愁を感じている。なつかしい、か……。

 そんなものは、幻想だ。セピア色の雨の入った古い映画フィルムやノイズ混じりのアナログレコードみたいな、もはや博物館でしかみることのできないようなものにノスタルジーを感じるのと同じだ。僕の記憶や経験とは無関係なところに突然とニョロニョロ湧き出るあの胸をくすぐるような感覚は、単なる記憶の懐古ではなく、単独で存在しうるものなのだ。

 これから起こりうる可能性の一つを想像するのと同じ感触で、過去は幻想にまぎれてしまう。『なつかしさ』はこれからのことを想像するときでも、経験したことのないような遠い昔の物語を読むときでも、経験とは無関係に容易に押し寄せてくる。

 それは、夢を見たことは自明のごとく憶えているのに、どんな夢を見たかは全然憶えていないのと同じ。夢を思い出せなくても、夢を見たという確信だけが残る。その夢を中途半端に思い出そうとしても、それはどこかよそよそしいものとなってしまう。そんなことを繰り返すうちに、夢を見たという確信までもが疑わしくなり、幻想にまぎれてしまう。そんな、あやふやな夢とよりどころのない確信の間に揺れ動くあの感情。それが「ノスタルジア」だ。

 どんな生き方をしてきたか思い出せないけれど、生きていることは自明であるように……。

 そう、なつかしさの裏付けなんてどこにもないのかもしれない。あってもどこかよそよそしく不自然なものなのだ。何かがなつかしいのではない。なつかしいという状態があるだけだ。

「どうしたのですか?」とマーカス。

「いや、お前が『懐かしい』なんていうからね。面白いなって思って……。」

 僕はビールを飲み干すと、思わず鼻で笑ってしまった。小難しく考えることはない。コロニアルもルナリオンも、そしてテレストリアルも地球のことを「ホーム」と呼ぶように、きっと人間としての本能、動物としての本能が地球になつかしさを感じさせているのだろう。僕はもう一本ビールを空けようと思ったが、どうやらこれが最後の一本だったようだ。

「過去を懐かしく思えるのは、今が幸せだからですよ」とマーカスは月を見上げて言った。

 やれやれ。僕はそんな彼が少し羨ましくなり、そして段々と不愉快になってきたので、彼のビールをひったくって飲み干してやった。そして、つまらなそうに空き缶を焚き火の中に放り込んだ。

 パチンと薪が爆ぜた。マーカスと一緒に月を見上げた。川の音。風の音。別段今が幸せというわけではないが、それらすべてが懐かしい。


 朝になり山を下りた。ミルグラム通りで待ち合わせたエツコに、昨日沢山釣り上げた魚を渡した。

「わぁ、釣ってきたのね。ありがとう」と彼女は昨日のことなど何も憶えていないかのように言った。そのさりげなさにまた目頭が熱くなった。

「しばらくしたらまた仕事で飛ばなくちゃいけないんだ。大丈夫、ちゃんと開拓されたルートを使うよ。危険な冒険はしないしデブリの深追いもしないから」と、何も訊かれてもいないうちから言い訳がましく言ってしまう自分が情けなかった。

 それはどうかしら? という表情を浮かべながらも、そしてとてもかわいい仕草で微笑んでくれた。

「いってらっしゃい。気をつけて。」

 いつしか僕にも彼女のようなさりげなさが少しでも身に付いてくれればいいのだが。

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