第3話
「――で、何で付いて来てるんですか?」
彼女の忠言通り今日は筆を置き、気分転換に散歩でもしようかと玄関へ向かう。
しかし、付いて来る。
学生服に身を包む、黒髪の少女がひらひらとスカートを揺らしながら付いて来る。
「あら、良いじゃない。デートよ、デート」
そう言って、彼女は悪戯っぽく微笑みを返す。
「あのですね、十年前ならともかく、今の俺とあなたが並んで歩いてると何かとまずいんですよ」
「どうして?ホームズ君はわたしの事好きなんでしょう?デート、嬉しくないの?」
「高橋先輩とデートするのは嬉しいですよ、ええ。でもですね、今は俺が未成年淫行でしょっぴかれます」
俺の正直な心の声は、何の抵抗も無く口から漏れ出す。
彼女は自分の姿を一瞥してから、やっと得心が行ったといった様子で、「ああ」と声を漏らして、
「じゃあ、この服は脱いでしまおう。幸い、わたしの身体はもう大人の女性のそれだ。纏う衣が変われば、何も問題は無いわ」
そう言って、彼女は学生服のスカーフをするりと外しながら、リビングの方へと戻って行く。
俺は急いで視線を玄関の扉の方へ戻して、背後で鳴るがそごそという衣擦れ音を背中で感じながらしばらくの間それが終わるのを待った。
「お待たせ。それじゃあ、行こうか」
しばらくすると衣擦れは止まり、その代わりに彼女の声が聞こえてくる。
振り向くと、そこには学生服を脱ぎ捨て、上は鼠色のパーカー、下はジャージ姿の彼女が居た。
それは紛れもなく俺の部屋着だ。
おそらくクローゼットの中から適当に引っ張り出して来たのだろう。
サイズが合っていない為、ぶかぶかで袖を捲っている。
俺のずぼらな部屋着でも、容姿の整っている彼女が着ればそれなりに見れた物になるのは驚きだ。
「じゃあ、これもどうぞ」
「ん、ありがと」
俺はその全身鼠色の装束に加えて、玄関に掛けてあったキャップ帽と外出用の使い捨てマスクを手渡す。
もしも高橋先輩の事を知る人物に会ってしまった際に、十年前の彼女の姿を見たら驚いてしまうだろう。
いや、普通ではあり得ない事だ、驚くでは済まないかもしれない。
これは僅かながらの抵抗、変装のつもりだ。
当然彼女は履物も持っていなかったので、そのまま彼女は玄関の端にどけてあったサンダルを履いて外へ出た。
二人並んで、外へ出る。
日差しが眩しい。
バイトは夜勤だし、日中は執筆作業。
普段こんな朝早く――いや、一般的には昼前かもしれないが、こんな時間から出歩くのは久しぶりかもしれない。
深呼吸をすると肺一杯に入って来る空気はどこか新鮮で冷たく感じる。
日差しの暖かさの中に感じるその冷たさがどこか心地良い気さえした。
「楽しそうですね」
外へ出て来た彼女は非常に機嫌がいい。
今にもスキップでもしだしそうな程に軽快な足取りで、俺の数歩先を進んでいる。
「ええ、そうね。こうやってキミと一緒に出掛けられるのは楽しいわ」
彼女の微笑みはこの日差しの様に眩しく、俺の胸を高鳴らせる。
改めて実感させられる。
ああ、俺は高橋先輩への恋心を未だに忘れられていないのだ、と。
しかし、それと同時に胸の奥に突き刺さる様な僅かな痛み。
「はいはい、行きますよ」
俺はそんな内心を務めて押し隠し、平静を装いつつ、前を進んでいた彼女を速足で追い越した。
今の自分の表情を悟られない様に。
俺たちが最初に向かったのは商店街だ。
近所に出来た商業施設の煽りを受けてか、年々シャッターの降りた、つまりは閉店してしまった店も目立つようになってきた、閑散とした寂れた商店街。
シャッターが下りてしまえば、もうそこに何の店が有ったのか分からない。
そこに新しいチェーン店なんかが入ってしまえば、もう以前の様相は思い出せないだろう。
この時間はまだ準備中の店も有るのだろうか、依然に来た時よりもよりも閉まっている店は多い気がする。
しかし、それでも買い物や食事なんかは大体ここで済ませられるだろう。
「どうします?そろそろ昼時なんで先に飯食うか、それとも、もう少し後にします?」
「そうね。どちらでも構わないけれど、キミはどこか行きたい所とかある?」
俺はあまり量を食べる方では無い、今朝はきちんと朝食も食べたしまだ保つだろう。
どうやら先輩も話の雰囲気から察するに、昼食には後に回し、先に商店街をふらつく方が良さそうだ。
「いや、元々家に居る予定でしたし……。そうですね、敷いて挙げるのなら、本屋ですかね」
「昔から本ばっかりねえ。他に趣味とか、やってみたい事でも良いんだけれど、そういうのは無いの?」
「うーん。偶に作品のネタに取材がてら遠出したりはするんで、自己紹介の趣味欄に書くなら『趣味:読書、旅行』って感じですかね」
そう答えると、彼女は露骨に困ったように眉を下げた。
今にも「うわあ……」という声が聞こえてきそうなくらいだ。
「別にいいじゃないですか。先輩も好きでしょう、本」
「そうだったわね。でも、キミ程じゃないわ。だって、わたしは自分で書こうとはしなかったもの」
「ふーん、そうですか」
と生返事を返しつつ、本屋へと歩を進めていった。
その姿、その声、話す内容、その全てが紛れもなく高橋先輩のそれである。
もしかすると今はもう昔の様に本を読まなくなってしまったのかもしれない。
しかし、心の片隅では彼女は自分の――先輩のエピソードを過去形で話すんだな、とその時ぼんやりと思ってしまった。
程なくして、本屋に到着。
本屋と言っても、大型書店ではなく小さな町の本屋さんと言った表現が適当だろう。
看板は錆び、店名も薄くなってしまっている。
入口の横にはよく分からない動物モチーフのキャラクターのキーホルダーが排出されるガチャガチャの筐体が置かれているが、きっと殆ど稼働していないのだろう。
こちらへ来てからそれなりに来店しているが、中身のラインナップはもう数年変わっていない気がする。
店内へ入る。
レジではアルバイトの店員が気怠げに立っているのを一瞥して、俺は新刊のコーナーへと吸い込まれて行く。
手書きで『今月の新作』と蛍光色の文字で目立つ様に書かれたポップが置かれているが、それが作られたのは昔の事なのだろう。
既にそれのラミネート加工は角から剝がれかかっていて、来る度に取り換えた方が良いのではないかと他人事ながらに思っている。
試し読みでもするか、と一冊手に取って開こうとしてから、そういえばと思い周りを見渡そうとする。
しかし周囲に目をやり見渡すまでもなく、目的の人物はすぐ近くに居た。
近い、近過ぎる。
想定では近くても数歩は遠くに、もしくは別の棚の方へと行っているかと勝手に思っていた。
気付けば彼女はすぐ隣で、俺の手に持つ本をじっと見つめていた。
驚いて、半歩後退りする。
「今もそういうのが好きなの?ホームズ君?」
“そういうの”とは俺が無意識に手に取っていた本のジャンルの事だろう。
それは表紙に虫眼鏡とパイプ煙草、大型犬という探偵や警察のモチーフが散りばめられ、黒い影として描かれたハードカバーの推理小説だった。
彼女はそれを見てわざとらしく俺の事をあだ名で“ホームズ君”と呼ぶ。
「そうですね。それしか読まないって訳じゃないですし、書くジャンルはちょっと違うんですけど」
「ふーん……。あ、そうだ。キミのペンネームも“ホームズ君”だったわね」
想定していた言葉のキャッチボールとは違う、唐突なその言葉の意味を理解するのに、一瞬の間を要した。
しかし、それを理解するとすぐに顔が熱くなるのを感じる。
しまった。
彼女に小説を読ませたと言う事は、つまり自分のペンネームも公開する形になってしまったのだ。
「“高橋ホームズ先生”、なんでわたしと同じ苗字なのかしら?」
そう、俺はペンネームとして『高橋ホームズ』を名乗っている。
勿論俺の本名に高橋の二文字は掠りもしていない。
その命名の由来なんて敢えて語らずとも、彼女には――高橋先輩には直ぐに分かってしまうだろう。
「さあ、何ででしょうね。よくある苗字じゃないですか、偶々じゃないですか」
なんて白々しく宣い抵抗を試みるものの、勿論そんな言い訳通るはずもなく。
先輩は新しい玩具を手に入れた子供の様に、「そっかそっかー、偶々かー」なんて言いながらしてやったりと言った風に笑っている。
そうやって彼女にからかわれつつ、十分程度の時間をその本屋で過ごした。
「じゃあ、俺これ買ってきます」
「そう。じゃあわたしは先に外出て待ってるわね」
結局俺は最初に手に取った推理小説を購入する事に決め、レジへ向かった。
一人で来ていればもう少し長居しただろうが、彼女を付き合わせてしまうのも悪いだろうと早めに切り上げたつもりだ。
途中何度か彼女の様子を窺ったが、旅行雑誌やファッション誌辺りをぱらぱらと立ち読みしていた様だった。
手早く支払いを済ませ、外で待つ先輩の元へと向かう。
店を出ると、彼女は入口横に設置されているガチャガチャの筐体を食い入るように見つめていて、俺が出て来たことに気付いていない様だ。
「それ、欲しいんですか?」
「ああ、いや、ちょっと気になってただけよ」
彼女は俺に気付くと、そう言って軽く手を振って否定の意を示し、その場から離れて行く。
俺は少し考える素振りをしてから、丁度手元に出していた財布から小銭を取り出し、筐体のコイン投入口へと放り込む。
手首を捻りレバーを回す。
古くなった筐体のレバーは中で錆びついているのだろうか、軋むような抵抗感を感じる。
力を込めるときりきりと嫌な音を立てるが、ある程度回せば引っ掛かりが無くなり、するりと一気に回り切り、がらんと玉の落ちる音。
出て来た玉を取り出し、少し付着していた埃を払って、少し悩んでから「先輩」と背に呼びかける。
そして彼女が振り返るのを確認してから、その玉を放り投げた。
彼女は少し慌てながらも、きちんと両手でそれを受け止めた。
彼女は目をぱちくりとさせ何度か手元の玉と俺の顔を交互に見た後、ふっと微笑みを返してくれた。
「開けても良い?」
「ええ、勿論です」
開けてみると、中身はラインナップにも有ったよく分からない動物のキーホルダーだった。
四足歩行のこれはおそらく犬モチーフだろう、犬が自分の尻尾を咥えて丸まっている。
一般的に可愛いかと問われれば首を捻るデザインだろう。
「ありがと、ホームズ君」
しかし、彼女はそれを気に入ってくれた様だ。
犬のキーホルダーを大切そうに両の掌で包んでいる。
その表情に浮かべた眩しい程の微笑みは、記憶の中のクールな先輩からは想像できない物で――、
やはり、それもまた今まで見た事のない表情だった。
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