第2話

 がたごとと部屋に響く聴き慣れない生活音に意識を揺り起こされる。

 どうやら昨晩は執筆作業の途中で意識を失ってしまったらしい。

 俺は腕を枕替わりとし、テーブルにうつ伏せになる形で眠っていた。


 そして、肩には覚えの無いブランケットがかけられており、それと同時に、この生活音は扉越しに有る台所の方からする物音だと気づく。

 昨日のあれが夢や幻覚で無いのなら、その音の主を俺は知っているだろう。


 そんな風に朧げながら思考を巡らせていると、がちゃりと扉が開き、台所の方からその人はやって来た。


「あら、やっと起きたのね。おはよう、ホームズ君」


「おはようございます、先輩」


 つい無意識的に、口を突いて“先輩”と呼んでしまった。


 この人は本物の高橋先輩ではない。

 そう頭では分かっているはずなのに、視覚が、聴覚が、俺の五感が、彼女を高橋先輩だと認識してしまう。


「キミ、それ書いてる途中で寝ちゃってたわ。風邪引くわよ?」


 先輩の持つお盆の上には二人分の朝食が用意されており、両手が塞がっている彼女が“それ”と視線で指すのは、勿論俺の執筆途中の小説のファイルが開かれているノートパソコンだ。


「……中身、見たんですか」


 誰がベッドを占領した所為なのか、と文句の一つでも言いたくなったが、それよりも書きかけの小説を見られたという気恥ずかしさが勝った。


「ごめんね、目に入っちゃって。ま、さっさと食べちゃいましょう?」


 彼女はおどけた様にそう言って、テーブルの上に朝食を並べて行く。


 男一人暮らしの部屋だ、冷蔵庫の中にはろくなものが無かったのだろう。

 並べられたのは目玉焼きの乗ったトーストと常備していたインスタントの珈琲だ。


 しかし、それでも好意を寄せていた女性の手料理というシチュエーションに、不覚にも俺の心は軽く弾んでしまった。


 二人で向かい合って卓に付き、どちらともなく「いただきます」と軽く手を合わせて食べ始める。

 その光景は寂しい男一人暮らしのこの部屋では紛れもない非日常だ。


 何より、だ。

 俺は咀嚼したトーストを珈琲で流し込みつつ、ちらりと正面に座る“高橋先輩”へと視線を向ける。


 彼女の存在が何よりの非日常だろう。

 その正体は幽霊か、十年の時をかけた少女か、それとも――。


「あら?わたしの顔、何か付いているかしら?」


 そんな風に値踏みする様に不躾な視線を送っていたのを、彼女が気付かないはずもない。

 ぴったりと視線が合ってしまった。


 気まずさに視線を逸らしかけるが、聞きたい事は山ほど有る。

 いい機会だと踏み止まり、


「いいえ、十年前と変わらない素敵なお顔ですよ」


「ふふっ。言うようになったじゃない、ありがと」


 皮肉のつもりだったのだが、真っ直ぐと受け取られ微笑みを返されると、ばつが悪い。

 俺はそれを誤魔化すかのように、続けて口を回す。


「……小説、実際どうでした?」


 見られてしまったのなら同じ事、どうせならついでに感想を聞いてしまおうと言う魂胆だ。


 高橋先輩だって俺と同じく図書室に住んでいるレベルで通い詰めていた読書家だ。

 目の肥えた彼女の意見ならば、何かしら執筆の糧になるかもしれない。


 勿論、それはもし本当に彼女が高橋先輩だった場合の話だが。


「そうね。まだ全部は読んでいないのだけれど、もし良かったら最初から読ませてくれない?」


「ええ、感想お願いします」


 そうやって雑談を交えつつ、朝食を摂り終え食器を片した後。

 彼女はノートパソコンの画面を、即ちそこへ映る小説の文字列を、食い入るように見つめている。


 文字を追う間の彼女は途中で何か口を開く事も無く、その身体はじっと一定の姿勢のまま。

 時偶マウスのホイールを指先で回す音がかりかりと静かな部屋に響く。


 小説のタイトルは『仮称:タイムトラベル』

 タイムマシンを手に入れた主人公がその力を使って時を越え、望む未来を手に入れる為に奮闘する物語。


 使い古された時間遡行物だが、タイムトラベル理論等の周辺の設定を凝った、個人的にはかなりの力作だ。


 ラストシーンはもう決めてある。

 過去へ遡った主人公が世界を巻き込んだタイムトラベル事件の元凶である過去の時間軸に存在する自分を殺して、一連の騒動に終止符を打つ。


 序盤はゆったりと物語が進み、最初は日常の小さな事柄からタイムマシンを使って試行錯誤していくが、終盤からは一気に物語が動く怒涛の展開だ。


 今書いているのは終盤の辺り、タイムパラドックスによって発生した未来怪獣の集団催眠事件を解決する為に過去へ飛び仲間を集め、ティラノサウルスの背に乗った石川五右衛門がカリブ海の島で始祖の巨大蜂と戦う辺りだ。


 目の前で人に自分の書いた小説を読まれるという状況、じっと待つというのも落ち着かず、彼女が小説を読み終えるのをベッドの上でゴロゴロとしながら待っていると、「はぁ」を小さく溜息が聞こえた。


 それなりの分量が有る為全てでは無いだろうが、切りの良い所まで来たのだろう。

 それが読了の合図だと認識した俺は、逸る気持ちを隠し切れないまま、


「どうでした?」


 と直ぐに感想を求めた。

 彼女は少し逡巡する素振りを見せた後、ゆっくりと口を開いた。


「うーん、いまいちね。設定がごちゃごちゃして分かりにくいし、急な展開に付いて行けないわ」


 彼女の――高橋先輩の声で発せられる、はっきりとした否定の言葉。

 それは俺の期待していた物とは正反対の物で、頭を打たれたかの様な衝撃が走る。


 一切のマイナス意見が無いと思っていた訳では無い。

 作品に合う合わないは有るだろう。

 しかし、少なくとも自分では自身を持って書いていた作品だ、少しくらいは何かしら肯定的な意見が貰えると心のどこかでは期待していた。


 俺が二の句に詰まっていると、彼女は続けて、


「――きっと、ね。ずっと執筆していて、凝り固まってきてるんじゃないかしら。今日、お休みでしょう?偶には外へ出て、息抜きしてみない?」


 という優しいフォローの言葉を投げかける。

 その声に我に返り、思案する。


 確かに、ここ最近はずっと休みの日も部屋に籠って作品の執筆に没頭していた。

 考えが凝り固まっているという彼女の意見も最もだろう。


 彼女が何者であれ、他人の正直な意見が聞ける機会というのは大変貴重な物だ。

 息抜きをした上で、改めて作品に向き直る事にしよう。


「ああ、そう、ですね……」


 隠し切れない動揺を、それでも努めて押し隠しつつ、俺は彼女の忠言に従う事にした。

 今日は息抜きの日としよう。

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