2 鴉と青年


 私は、咄嗟に傘を手放す。


「なに……何が起きてるの……?!」


 床に転がってもなお光り続ける傘から逃げるように、私はリビングへ退避する。

 そして、ドアの陰から様子を窺うと……光は徐々に明滅し、やがて消えた。


「…………」


 警戒しながら、恐る恐る廊下を進み、傘を覗く。

 が、そこにあったはずの傘はなく……


 代わりに、大きな筆のようなものが転がっていた。


 艶々した金色の持ち手。そこに、象形文字のような紋様が彫刻されている。

 先端の毛は、白馬の尾のようにふさふさとしていて太い。



 ……え。何この筆。

 というか、傘はどこへ?


 まさか……

 今の光と共に、あの傘が、この筆に変わっちゃったとか……?



 私は、ぞっと身体を震わせる。

 元カレがマジシャンだったなら、これも手品の道具だと納得できたのだが、残念ながらそのような事実はない。


 となると……これは、人智を超えた超常現象。

 傘が筆に変わるなんて、昔ばなしにでもありそうな珍事だ。

 つまり、私って今……妖怪か何に化かされてる?


「…………!」


 ぞわわっと鳥肌を立て、キッチンに駆け込む。

 そして鍋つかみをひったくると、軍手の上からそれを嵌め、玄関へと戻り、


「……えいっ!」


 軍手と鍋つかみで最大限防御した手で、謎の筆を掴んだ。


 そのまま玄関を開け、外へ飛び出す。

 時刻は午前九時前。ゴミ収集車が来るのにギリギリ間に合う時間だ。


 一刻も早く、この不気味な筆を処分しなくては。

 

 その一心で、私はマンションの階段を駆け下りる。

 一階の正面玄関から外に出て、ゴミの集積所へ向かうと、ちょうど収集車が停車し、作業員さんがゴミを回収しているところだった。


 よかった、間に合った……!

 私は安堵し、作業員さんに声をかけようとする――が。



 刹那、目の前を、黒い影が掠めた。



 思わず目を瞑り、身を守るように手を掲げ……気付く。

 あの奇妙な筆が、手元から消えていた。


 周囲を見回すと、頭上を一羽のカラスが飛んでいる。

 その脚には、あの筆が掴まれている。どうやらカラスに奪われたらしい。


 呆気に取られながらカラスを目で追うと……飛んで行った先に、自転車に乗った人物が一人、現れた。

 

 若い男の子だった。

 大学生くらいだろうか。身に纏うのは水色のパーカーと藍色のジーンズ。

 茶色の短髪はサラサラで、爽やかで整った顔立ちをしていた。


 そんな青年が、カラスの脚から離れた筆をパッと掴み、


「やっと見つけた……俺の『封字弥筆ほうじみふで』……!」


 声を震わせ、そう言った。

 どうやらあの筆について知っている様子だが……尋ねる前に、私は言葉を失うことになる。何故なら、


「あの女が持ってたぜ。あいつが盗んだ犯人か?」


 ……と。

 自転車のカゴに止まったカラスが、渋い声で喋ったから。


「えっ?!」


 驚き声を上げると、青年がこちらに目を向け、自転車を押し近付いてくる。


「いや、もしかすると……」


 何やら呟きながら、青年が私をまじまじと見つめる。

 近くで見るとますます美形で、私は思わず後退りする。

 青年は、その綺麗な顔を真剣に引き締め、


「この筆を戻してくれたのは、あなたですね?」


 そう尋ねてきた。

 私は混乱しつつも、なんとか言葉を探す。


「よ、よくわからないけど、捨てるために分解していたら、傘が筆になって……」

「やっぱり!」


 青年は、ぱぁっと顔を輝かせ、


「あなたは『カイ』の言霊コトダマに選ばれた人! だから呪いを『解』くことができたんだ!」


 という、訳のわからない言葉を口走った。

 困惑し、再び後退する私に、彼はずいっと身体を寄せる。


「俺、玉織たまおり空哉くうやって言います。こっちはカラスのシロ。おねえさん、お名前は?」

「や、山河やまかわ海花うみか、です」

「海花さん。突然で申し訳ないのですが、一緒に来てもらえませんか? あなたの力をお借りしたいんです!」

「えぇっ?!」


 一緒に行く、って……喋るカラスを連れ、奇妙な筆を持った、謎すぎる男の子と?

 という私の動揺を察したのか、青年――空哉くんは真摯な態度でこう続ける。


「俺、隣町にある御玉みたま神社で神主をやっています。悪霊化した言霊を封印することが、一族代々の使命です」

「あ、悪霊……」

「先代の神主だったじいちゃんが死んでから、俺がその使命を継いでいるのですが……封印を恐れた『ユイ』の字の悪霊が、神社の境内に結界を張ってしまって」


 真面目な顔で何を言うのかと思えば、随分と幻想じみた話である。

 しかし、傘が筆になったり、カラスが喋ったりと、既にファンタジーな事象が起こりまくっているため、とりあえず続きを聞くことにする。


「悪霊を封印するには、この『封字弥筆ほうじみふで』が必要なんですが、『結』の悪霊に傘と結合されてしまい……元に戻す方法を探っていたところ、何者かに傘を盗まれてしまったのです」

「……え?」


 最後の言葉に、私は固まる。


「盗まれたって……あの黒い傘を?」

「はい。半年前、知人に助言を求めに居酒屋を訪れた時に失くしてしまって……たぶん雨が降ってきたタイミングだったので、誰かに盗まれたんだと思います」

「そのせいで結界が解けず、コイツは神社の敷地にある家にも入れなくなったんだ。女、お前が盗んだんだろ? 素直に白状しろよ」


 カラスに問い詰められ、私は……愕然とする。


 半年前の、居酒屋。

 それは、私と元カレが、初めて出会った場所。


 なんてこと……あの黒い傘は、元々この子のもので……

 元カレが、私と帰るために盗んだものだったのだ。


「…………」


 私の中で、元カレへの怒りが、沸々と湧いてくる。

 俯く私を見てか、空哉くんがフォローするように言う。


「シロ、それはないよ。言霊は清廉な魂の持ち主しか寄り手に選ばないんだ。ごめんなさい、海花さん。この筆を持っていたのには、何か事情が……」

「……君は」


 空哉くんの言葉を遮り、私は顔を上げる。

 

「君は、傘を盗まれたせいで、半年も家に入れていないの?」


 震えながら、尋ねる。

 私の雰囲気に驚きながら、空哉くんが頷く。


「は、はい。境内に入れないので神社の運営もできず、とりあえず日雇いのバイトで稼いで、野宿していました」


 野宿……

 私は罪悪感に苛まれ、頭を深く下げる。


「ごめんなさい。傘を盗んだのは、私の元カレ。そうとは知らず、ずっとうちに置いていた」

「も、元カレ?」

「そう。盗んだ当人はもういないけど……代わりに謝罪させてほしい」

「詫びるってんなら一緒に神社へ来い。お前の『カイ』の力で結界を解いてくれ」


 と、シロが横柄な声で言う。

「カイ?」と聞き返すと、空哉くんが代わりに答える。


「解放とかほどくの『解』です。あなたは『解』の字の言霊に選ばれた"寄り手"という稀有な存在なんです」

「……へ?」

「言霊は清らかな魂を持つ者を好み、守護霊となってその人を護ります。だからこそあなたは、筆にかけられた結合の呪いを解くことができた」


 私に、守護霊が……?

 思わず背後を確認するが、当然霊など見えるはずもない。

 

 あぁもう。傘が筆で、カラスが喋って、元カレが盗人で、言霊が守護霊?

 傘を捨てようとしただけなのに、こんな非現実的な状況に巻き込まれるなんて……


「待って。少し話を――」


 整理させて?


 そう言おうとした私の言葉は、そこで止まる。

 何故なら、急に視界が暗くなったから。


 ……否、暗くなったのではない。

 景色から色が消え、モノクロに変わったのだ。


「な、なにこれ……!?」


 目がおかしくなってしまったのかと狼狽えるが、どうやら空哉くんも同じなようだ。焦った様子で周囲を見回している。


「これは此岸と彼岸の境界……まさか……!」


 空哉くんがバッと振り返る。つられるように私も目を向け……

 すぐに、息を止めた。



 黒よりも暗い、闇色の身体。

 鋭い爪を持つ八本の脚。

 ギラリと光る無数の目。恐ろしい牙。


 ……蜘蛛。


 それも、超巨大な――小学校の体育館くらいはありそうな蜘蛛が、街路樹の向こうから、音もなく現れた。



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